一章 白と黒

白と黒①



 ひとつ、記憶から消えない光景がある。

 思い出すたびに、怒りに身体が震える光景がある。

 ―『彼女』は。

 夥しいほどの返り血を浴びた紅い瞳の『彼女』は、俺の全てを奪った。

 居場所を。仲間を。そして―力を。

「だから俺は復讐する」

 殺して。殺して。殺し尽くす。

 自らを庇い死んでいった仲間たちの敵を討つために。

 『彼女』を、この手で討ち取る。


・・・・・・


 その街は、たったひとつの巨大な城を中心に構成されていた。

 戦乱の時代からそびえ立ち続けるその城は古びてすすけ、石垣には伸びた植物がつたわせる。

 天を突くが如き威容は見る者を震わせるほどに荘厳でありながら、周囲から『取り残された』ような、わびしさをも感じさせる。


 さもありなん。

 二十五年前に天下が統一されて以後、大規模な異国文化の流入によって、この国の町並みはがらりとその姿を変えていた。

 石畳で舗装ほそうされた道路には馬車が走り、木造の長屋に混じって煉瓦れんが造りの近代家屋がちらほらと見える。

 路傍ろぼうに並ぶ瓦斯ガス灯は、昇る太陽に照りつけられ所在なさげに影を落としていた。多くの人が通りを行き交い、商売人は少しでも多く客を呼び込もうと声を張り上げる。


 さながらお祭り騒ぎのような喧騒は、騒々しい中にも不思議と心地よさが感じられる。それがこの街の日常だ。

 無論、全てが同じように近代化し繁栄を遂げ、賑やかに人々が過ごしているわけではない。

 とある番地では社会からあぶれた者たちが息を潜めて暮らしている。

 中心区で若者が栄華の極みにあれば、外周区では老いた人々が誰にも知られずに死んでいく。

 そんな明暗や盛衰、酸いも甘いも目一杯盛り込んだ街を、そこに住む人々は口をそろえてこう呼ぶ。


 ―『大江都萬街おおえどよろずまち』と。


・・・・・・


 現将軍家の居城である『架梯城かけばしじょう』のそば。

 『旗本衆はたもとしゅう』専用宿舎の近くに立てられた大道場では、竹刀がぶつかり合う音と威勢の良い掛け声が響いていた。

 百名を超す若き訓練兵たちを収容しても余りあるほど広いこの道場が、彼らの熱気に満ちているのはいつものことだ。


 が、今日と言う日は気合の入れようが違っていた。

 訓練兵はみな厳格な指導と鍛錬、教育を受けたのち、幕府直轄の軍隊である『旗本衆』へ配属される。

 その旗本衆の筆頭―九条龍親くじょうたつちかが、訓練兵たちの様子を視察に来ているのだ。

 江戸の街において無双と謳われる男。

 将来的な上司ということを抜きにしても、訓練兵たちのあこがれの的である彼が見ているとなれば、熱が入るのはごく自然なことだった。


 一対一の試合の形を取った演習の時間、剣道の防具を身にまとった二人が道場の中央で向かい合う。

 その二人を囲むようにして、残りの大勢が歓声や応援、怒号を飛ばしていた。

 しかし訓練兵たちの注意が主立おもだって向く方向は試合の内容ではなく、道場の戸の前に立ち、その様子を傍観ぼうかんする二人の男だった。


 一人は細身の青年。

 徽章きしょう褒章ほうしょうを山ほどい付けた軍服を、長躯を包む浅葱あさぎ色の着流しの上から肩掛けにしている。

 全身に気だるい雰囲気をまとうその姿は往年の老人を思わせるが、眉目秀麗ながらまだ若さの残る顔立ちは、彼がまだ二十代半ばの若者であることを物語ものがたっている。

 長い前髪からのぞ双眸そうぼうは眠たげに垂れていたが、稽古の様子へ送る視線には、静かな熱がともっていた。


 その視線が横へと流れ、青年の瞳は隣にいた大柄な男を映し出す。


 訓練生たちの指導を行うよわい四十過ぎの男。

 『師範代』と呼ばれる彼はその屈強そうな身体に、目の前の若人たちにも劣らぬ精気をみなぎらせていた。

 が、その彫りの深い顔は、青年の視線を受けた瞬間からどこか緊張した面持ちへ変わる。


 それもそのはず。

 いま男の横に立っている青年こそ、くだんの九条龍親その人なのだから。


「―なるほど、ねぇ」


 間延びした暢気のんきな声。龍親は帳簿に眼を落としながらふうむと唸る。

 紙面には訓練兵たちの氏名が連なり、その横に並ぶ五つの区切りには、それぞれに『甲』『乙』『丙』という文字が書き込まれていた。

 それは年に一度行われる適正技能判定の結果だった。


 『甲』判定が他より優れた部分。

 『乙』は平均的な部分。

 『丙』の判定は他より劣っている部分。


 そこには、訓練兵たちの個性が如実に表れていた。

 身体能力の高い者。低い者。

 狭く深く、ひとつの戦闘術に特化した者。

 広く浅く、どんな戦闘術でも満遍まんべんなくこなす者。

 頑健だが頭の回らない突撃思考な者。

 虚弱ながらも頭脳明晰ずのうめいせきな、後方指揮に向いた者。

 十人十色、いや百余名ほどいるから百人百色か―実に様々な個性を持った人員が揃っている。

 今年の訓練兵が旗本衆に配属されれば、賑やかになるだろう。

 在り得るかも知れない未来の光景に小さく笑った龍親は、顎に手を添え、帳簿から外した視線を走らせる。

 その目がとらえたひとりの少年をしばらく眺めたあと、龍親はいぶかしげに眼を細めた。


「―あれは?」

「はい?」


 龍親が顎をしゃくって指し示すと、師範代はその目に小さな驚きを見せたあと、困ったように苦笑した。


「あぁ、獅喰しばみですか」

「―獅喰?」


・・・・・・


 試合をする二人を、座して囲み見物する他の訓練兵たち。

 その中に、あぐらをかいて座り込む黒い短髪の少年がひとり。


 半眼の下に黒いクマをこしらえ、憂鬱ゆううつそうに表情をくもらせるその少年の名を、獅喰蒼羅しばみそらという。

 景気の悪い顔つきは生まれつきだ。それで誤解を受けることもしばしば。

 しかし、その表情に見える憂鬱は誤りではない。


 蒼羅そらの本心は今、思いっきり顔に出ていた。


「―おぉい、獅喰ぃ」


 蒼羅の頭の上から、半笑いの粘着質な声が降ってくる。

 大儀そうに顔を上げると、愛想笑いを浮かべてこちらを見下す糸目の男と、その取り巻き数人が見えた。


統逸とういつか……」

「次、お前の番だろう? 僕と試合をしてくれよ」


 統逸と呼ばれた糸目の男は、海藻類のような癖のある頭髪を揺らしてこちらに顔を近づける。蒼羅は墨を塗ったようなクマのある両目を、胡散臭うさんくさそうに細めた。


 葦切統逸よしきりとういつ

 幕府内で絶大な権力を持つ老中、葦切総斎よしきりそうさいを父に持つ、典型的な『お坊ちゃま』だ。

 幼少から英才教育を施され、頭脳は明晰、芸術や音楽への造詣ぞうけいも深い。剣の腕は訓練兵たちの中でも三本の指に入るほど。


 だがしかし、正直に言ってしまうと蒼羅はこの男が嫌いだった。

 他の訓練兵たちとは家の格が違う故のおごりか。人を小馬鹿にしたような態度を取り、稽古では自分より格下を選び、相対的に自身を良く見せようとする。

 加えて彼には、自らに盾突く者は父親の権力を使って蹴落とす、なんて黒いうわさも付いて回る。

 今回の演習試合も弱い者を倒して、龍親への印象を良くする腹積もりだろう。

 その白羽の矢が運悪く自分に突き立った。


 訓練兵の中には彼以外にも幕府の重鎮の子息が何人かいるが、無論、その全員が彼のようなろくでなしではない。

 自身に妥協せず先を見据える者もいれば、広く心を折って接する慈愛に満ちた者もいる。統逸にも彼らを見習ってほしいものだ―蒼羅は内心で毒づく。


 もちろんその嫌味を吐き出さず、胸中に収めたのには理由がある。無用な争いを極力避けたいのだ。

 そういうものは大抵、その先に得られるものはなにもないことがほとんど。当事者がただ傷付くだけだ。

 ならば、まず衝突を未然に防ぐ―蒼羅はそういう人間だった。

 たとえそれが、暴力を伴わない口喧嘩であっても同じだ。


「いや、悪いけど他を当たってくれ。統逸を相手にするのは、俺には荷が重いよ」


 蒼羅は自分をおとしめて統逸を持ち上げつつ、丁重に断る。しかし統逸の愛想笑いは一変。眉間にしわを寄せ、実に分かりやすい苛立ちを見せ始めた。


「―なんだと?」


 ―あ、やっべ間違えた。

 蒼羅は笑顔を引きつらせた。

 統逸にまつわる黒い噂、あれには訂正するべき箇所がある。

 自らに楯突く者を父親の権力を使って蹴落とすのではない。

 自らの気分を害した者を、父親の権力を使って蹴落とすのだ。

 残念なことに彼は、最初から『獅喰蒼羅を利用して龍親に取り入る』以外の選択肢を持ち合わせていない。


「貴様ァ……」


 冷えた声を出す統逸の表情には、思い通りにいかない目の前の男への嫌悪感が強くなる。しかしその表情は次の瞬間に一転して、先までの憤りが嘘のような愛想笑いに戻った。


「―そうだなぁ、失念していたよ。『疫病神やくびょうがみ』なんかと斬り合えばこちらの腕が鈍ってしまう。さてと、他を当たるか」


 ―かちん、と来た。

 今度は蒼羅が眉間に皺を寄せる番だった。聞き捨てならない台詞がひとつ。

 蒼羅は無用な争いは避ける人間である。だがその理屈抜きで許せないことが、彼には二つあった。

 ひとつ、なんの罪もない人々が傷つけられること。

 そしてもうひとつは、自分を『疫病神』と罵られることだ。


「……待てよ」

「ん、どうした?」


 このまま引き下がっていられない。掌で上手く踊らされたような気もするが、それももうどうでも良い。

 白々しい笑顔でこちらを振り返る統逸を睨みつけ、先ほどねた彼の提案を飲む。


「受けてやるよ、試合」

「おぉ! そうかそうか、そりゃ良かった」


 にたり、と意地の悪い笑みを見せる統逸。

 我に返った蒼羅はいまさら、自分の浅はかさを悔いるのだった。

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