白と黒②
「獅子を喰らうと書いて
感心するように息を吐いた龍親が片手の帳簿に眼を落とす。
そこには『甲』『甲』『丙』と殴り書きの文字が並んでいた。
「身体能力と格闘術は、共に甲種判定か」
ぱたん、と帳簿を閉じぞんざいに投げ渡す龍親。受け取った師範代がその言葉を首肯する。
「どうやら、前からどこぞの流派の拳法は学んでいたようで。身のこなしと軍隊格闘術の飲み込みは訓練兵の中で一番です。剣術も基本は心得ているのですが……」
師範代は言葉を切ると、苦笑しながらやれやれと肩を竦めた。
「まぁ見てもらった方が早い。次の試合、あいつの番ですから」
・・・・・・
「―それでは一本勝負、はじめ」
防具をまとい竹刀を正眼に構えて相対した二人は、開始の号令とともにゆっくりと動き始める。
磨き上げられた木板の床の上で、
互いに半円を描くように近付いていく。
「―やぁッ!」
竹刀の先端が触れるか否かという場所まで近付いた瞬間、統逸は気勢と共に打ちかかってきた。
彼の両手首がしなり、切っ先がわずか上を向いた。大上段からの振り下ろし。
受け止めるため上段に構える。すると統逸の腕が再び翻り、横から小手を打ちに来る。切っ先を上に向けたのは牽制だ。
すんでのところで引き戻して弾き、竹刀を右へ切り返し胴を打つ。
しかし大きく距離を取られ、蒼羅の竹刀は空を薙ぐのみ。
再び間合いを計りながら、じりじりとこちらに摺り足で近付いてくる統逸。
蒼羅は竹刀を打ち込む隙を伺いながら、 防具の面の奥で苦虫を噛み潰したような表情をしていた。
蒼羅は剣術、ひいては剣道というのがどうも苦手だった。
先ほど憂鬱な顔をしていたのもこれが原因。とはいっても、斬る、突く、払う、受ける……基本となる動きは十分に心得ている。
問題は視界を格子状に覆う
練習用とはいえ、防具をがちがちに着込むのがなんとも鬱陶しい。道着であればもう少し機敏に動けるのにといつも思う。
どうやら自分はひとつを極めるので精一杯で、武芸百般に通ずるのは無理な
統逸の持つ竹刀の切っ先が円弧を描き急転換。蒼羅は籠手を打たれ、その衝撃で竹刀が手から離れた。
しまった―そう思ったときにはもう、板張りの床にからからと竹刀が転がる音が響いていた。
一瞬、呆然としていた蒼羅は我に返る。
剣道の試合において―その理由や前後の状況はどうあれ―竹刀を落とすのは反則とされるが、審判はまだそれを判じていない。
まだ間に合う。
統逸によって振り下ろされる上段の竹刀を、蒼羅は彼の脇へと逃れるようにして足元に転がった竹刀を拾いにいく。
わずかに屈み手を伸ばすと、蒼羅の腹へ統逸の膝蹴りが勢いよく入った。
「がっ……!?」
―こいつッ!!
蒼羅は呻きながら歯を食いしばる。
普通なら反則負けだ。
だが統逸が己の背で蒼羅を隠すように立つこの位置からは、審判と、その後ろに控える龍親や師範代からもこちらの様子は見えない。
加えて、他の訓練兵たちもその光景に苦々しい表情を浮かべるだけ。
声を上げてそれを指摘する者はなかった。統逸にまつわる噂のせいだ。
それをいいことにこの男、剣道の試合で直接的な暴力行為を行ってきたのだ。
顔を上げて睨むと、面の向こうで統逸の顔は意地悪く歪み、駄目押しとばかりにもう一度上段から振り下ろす。
「―そこまで」
声が響いた。
振り下ろしをぴたりと止めた統逸が蒼羅から離れ、蒼羅も膝をつくまいと踏ん張り立つ。二人は何事かと審判を見るが、当の本人は困惑した様子で首を振った。
「双方そこまで。この試合、無効とする」
再び声が響いた。その方向を見ると、軍服を肩掛けにした青年―九条龍親がこちらへと歩いてくるのが見えた。
龍親が判じた試合の結果に、統逸は愕然と、蒼羅は呆然としていた。
「まず葦切。その剣の腕は見事」
二人に近づいた龍親は統逸の方を向いてそう言う。竹刀を納め面を脱いだ統逸は、額や首筋から垂れる汗を拭おうともせずに、歓喜の笑顔を浮かべた。
「あ、ありがとうございます。この葦切―」
「だが」
唐突に冷えた龍親の語調に、統逸は気圧されるように口を噤む。
「どうも相手との実力差が開きすぎているように見える。―己の見栄のために格下の者を
統逸を見据えるのは零度の視線。魂胆を見透かされ苦々しい表情を浮かべる彼をよそに、次いで蒼羅の方を向く龍親。
慌てて面を取った蒼羅の顔を見ると、龍親は一転してくしゃりとその表情を歪め苦笑した。
「いやー、向いてないなぁ、お前」
龍親は蒼羅に近寄ると、ぽんぽんと慰めるように肩を叩いてくる。だが不思議と馬鹿にされている気はしなかった。
あまりに粗末な剣の腕を叱責されるのでは―内心穏やかではなかった蒼羅は相槌も打てず、統逸との対応の違いにただただ困惑していた。
「鍛錬を積め。もっと強くなれ」
「…………はい」
龍親は蒼羅の両肩に手を置き、至極真剣な表情で、諭すように言う。蒼羅はそれに静かな、しかし強い決意を込めて言葉を返した。
・・・・・・
木々が鬱蒼と茂った森の中。伸びた枝葉によって日光は遮られ、朝方だというのに不気味なくらいに薄暗い。
その薄闇の中を、一人の街娘が走っていた。
適度な運動からは程遠い勢いで、その顔には恐怖と焦燥がありありと表れていた。
着物の裾は低い枝葉によってびりびりに刻まれ、むき出しの素肌には痛々しい引っかき傷がいくつも出来ている。身体中が泥で汚れていくのにも構わず、短い悲鳴にも似た喘ぎを上げながらひた走る。
切迫した様子で後ろを振り返った少女の視界に、もう一人の人影が映り込む。
浅黒い身体にボロ切れ同然の着物をまとった、汚らしい身なりの大男―山賊だ。
山賊は太い顔を醜悪な笑みの形に歪めながら、出刃包丁のような幅広の刀を振り
少女が追いつかれるのはもはや時間の問題だった。すぐそこまで迫る死の恐怖に、心臓がきゅっと縮む。
「―きゃっ!?」
頭上を覆う枝葉が拓けた日向に踏み込んだ瞬間、張り出した木の根に脚を取られ、無様に頭から転倒してしまう。
―逃げなきゃ、いやだ、死にたくない。
泥を被りながら、それでも逃げようと這う少女の目の前に、鈍い光を放つ玉鋼が突き立てられた。
曇った鏡面に映った自分と見つめ合う。そのうちに鏡写しの顔は、諦めとも安堵とも取れる複雑な表情をし始めた。
「へへ、鬼ごっこはもう終わりだなァ?」
頭の上から降ってきた声に、茫然としながら背後を振り返る少女。
跨るようにして仁王立ちする山賊の男は、目が合うと気持ち悪い舌なめずりをひとつ。裂けんばかりに口角を上げて笑った。
山賊は地面に突き立った幅広の刀を引き抜くと、それを頭上へ振り上げた。刃は染み付いた人の脂で曇り、手入れもろくにされていない代物であることは、素人目にも明らかだった。
だとしても、無力な小娘一人を
やられる―思わず眼を
走馬灯など、もはや浮かぶ暇すらない。
―だが、いつまで経っても、身体を裂かれる痛みは来なかった。
「……?」
恐る恐る眼を開く。
見えるのはさっきと同じ地面だ。痛みもない。身体の感覚もある。
いったいなにが? ―そうだ、山賊!!
少女は反射的に後ろを振り返る。
日光が視界を白く染めた一瞬のあと、目に入った山賊は、刀を振り上げたまま呆けたように自身の右腕を見つめていた。
どこがそんなにおかしいのか。眼を凝らす少女の顔に、赤い水滴がぽつぽつと垂れてきた。
それは火のように熱く、ひどく強い錆臭さを漂わせる。
「…………ぁ」
その正体が血だと気付いた瞬間、男の右肘から先が無くなっているのが見えた。
悲鳴を上げようとしても、もはやわずかばかりの掠れた吐息しか出ない。
理解が追いつかない。それは当の山賊ですら同じようだった。
「なん、これ」
山賊がやっとのことで声を上げたのと、断たれた肘先から血が噴き出したのはほぼ同時だった。
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