白と黒③
「あぁああぁあ、ぁああああぁぁぁぁぁあああ!?」
腕を押さえ、
血走った眼が四方八方へぎょろぎょろと動き回り、自らの腕を斬り落とした
やがて山賊は、背後の薄暗い日陰にもう一つの人影が立っていることに気付いた。
薄闇の中から双眸だけが覗く様は、得体の知れない闇そのものが立ちはだかっているような恐怖を植え付ける。
山賊は全身を震わせる。口から吐き出されたのは怒号だった。
「―テメェ!!」
叫んだ山賊は足下に転がっていた刀―断たれた右腕が執念深く握り締めたままのそれ―を拾い上げると、闇の中に立ちすくむ人影へと巨体に見合わぬ速度で駆ける。
先の震えは怯えではなく怒り。
いっそ傲慢ともいえる己の力への過信が、痛みを消し飛ばし恐怖を掻き消して、彼を戦いへ駆り立てたのだ。
対する人影も、ゆっくりと前へ歩を進めていく。
一歩、二歩、三歩。
日向に踏み込んだことで露わになったその姿は、墨色の着流しに黒い編み笠を被った男。着物から覗く肌は全て煤けた包帯で覆われていた。手に提げた長刀は、赤々とした血に塗れている。
異様な出で立ちのこの男が、山賊の腕を斬り落とした闖入者に他ならない。
駆ける山賊と歩む編み笠の男、二人の間合いが接触する―その一歩手前で山賊は跳躍。上空に躍り出た彼は、残った左腕を天高く突き上げた。
大上段からの一刀、兜割り。
今まで幾人もの獲物と邪魔者を斬り伏せてきた、山賊が最も得意とする技だった。
その動きを胡乱な目で追いながら、山賊の眼下に立つ編み笠の男は虚空を一閃。刀の血糊を払い下段に構えた。
―馬鹿が!
山賊は相手を口には出さず罵倒する。利き腕が無くとも問題ない。
鍛え上げた筋肉による膂力で
更にこの落下速度まで加われば、もはや半端な迎撃や防御は意味を成さない。
勝利を確信し、知らず笑みを零す。
随分と余裕そうだが―後に残るのはテメェの両断死体だけだッ!
「ぶった斬れろやァァァ!!」
山賊が気勢と共に振り下ろす、縦一文字の一閃。
編み笠の男の短い息と共に奔る、横薙ぎの一閃。
十字を描く二つの剣線が交わり、金属同士が噛み合う歪な高音が響く。その直後、いくつもの光が山賊の視界を煌びやかに彩った。
砕けた山賊の刀―その破片がきらきらと舞う景色の中を、真横に
―力負けした? 俺が?
山賊が呆然としながら着地した瞬間。
ぐちゅり、という嫌な音とともに彼は地に臥せていた。
「……あれ?」
なんで。体勢を崩すようなことなどあり得ないはず―
そう思った瞬間、山賊は自分の
首を巡らせ背後を振り返る。
身体の向こうに見える二つの足先は、まるで玄関先で乱雑に脱ぎ捨てられた草履のように転がっていた。
「……あ?」
開いた口からようやっと出たのは悲鳴でも絶叫でもなく、理解できぬ事象に対する嘆息。編み笠の男が一閃の後、返す一刀で二つの脛を両断していたことなど、絶句する山賊にはもはや分かるまい。
そんな山賊の上に、跨がるようにして仁王立ちした編み笠の男は、ゆっくりと刀を振り上げていく。
皮肉にもその様子は、先ほど山賊自身が街娘に行ったものと全く同じ光景だった。
呆然としながらも、山賊は折れた刀を握りしめた左手を振り上げた。
なにが起きたのかは分からない。
しかしこれからどうなるのかは分かる。
山賊の必死の抵抗に、しかし編み笠の男の瞳は揺らぎもしない。男の右腕が振られ、山賊の左腕が赤い飛沫とともに宙へ飛ぶ。
いよいよ四肢を断たれた今の山賊に、出来ることはただひとつ。
刀が己の心臓に突き立てられるのを待ちながら、己の敗因を探ることのみ。
負ける。負ける? 負けた? 負けてる?
―あ、しぬ。
ざぐり、と肉を裂く音が響いた。
編み笠の男が力を込めて腕を上げると、即死できず呻き続ける山賊の身体がゆっくりと持ち上がっていく。
胸を貫いた刀がぎちぎち、ぐぢゅぐぢゅと肉を裂くたび、山賊の身体は壊れた
無感動な目でしばらくそれを見つめていた編み笠の男は、興味が失せたように刀ごと無造作に投げ捨てる。
打ち捨てられた山賊には一瞥もくれずに、男は馴れた手つきで懐から一枚の紙を摘み出した。
手首を振ってばさりと広げると、かつて山賊であった肉塊へ向けて放る。男の手を離れた紙は落葉のようにはらはらと宙をたゆたい、その顔に着地した。
そこに描かれていた菩薩の仏画は、絶命してなお口から泉のように溢れ出す血によって、赤く赤く染まっていく。
墓標の如く突き立てられた刀の腹から、ぬるりとした血が静かに滴り落ちていくその様は、頬を一筋流れる涙のようにも見えた。
・・・・・・
少女はしばらく、呆然としながら眺めていた。
自分の二つの眼が写す、この世ならざる残酷な光景を。
去っていく編み笠の男の姿を見て、少女は我に返る。
過程や方法はどうあれ、あの人は確かに私を助けてくれた。
「あ……あのっ!!」
掠れた声を無理矢理振り絞って、背中に声をかける。
ゆっくりと振り返る男と目が合った。
立ち上がって駆け寄ろうと思ったが、腰が抜けてしまってそれどころではない。
「―あぁ、忘れていた」
男は無感情な声でひとつ呟くと、こちらへ歩を進めてくる。
その途中で、山賊に突き立てた刀を引き抜きながら。
「助けていただいて、ありがとうございますっありがとうございます、ありがとうございます!!」
目の前まで近づいてきた男の左手を取り、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら頭を下げる街娘。
そんな彼女を、男はひどく冷たい目で見下ろしていた。
「このご恩、忘れません。なんでもおっしゃってください。私に出来る限りの恩返しをさせてください!!」
顔を仰いだ少女の言葉に小さく呻いた男は、思案するように視線を外す。一瞬のあと、ぎろりと戻ってきた黒目がもう一度彼女を見据えた。
―その目許がわずかに笑みの形に歪んだその瞬間、少女の背には怖気が走った。
「え」
得体の知れない緊張感と恐怖に飲まれ、少女の身体が強張った。
そんなことは露程も知らぬ男は『そうだな、ならば―』と言いながら、手にした刀を振り上げた。
「お前も―我が悲願のための
・・・・・・
季節は四月の半ば。
三日三晩降り続いた雨も今朝方には上がり、白昼の空にはお天道様が下界を見守るように優しく注ぐ。
春風が街路樹の梢を揺らす大通り。丈の長い軍服を着込み、軍帽を被った少年が歩いていた。
店先の曇り硝子に映りこんだ自分の顔を見て、その少年―
半眼の下には黒く分厚いクマ、おまけにへの字に曲がった口……我ながらひどい面構えだ。人相の悪さに拍車をかける目許のクマは数年来の付き合い、いまさら三日三晩かけてぐっすり寝たとしても落ちやしないだろう。
表情が澱んでいるのは、昨日の出来事をまだ引きずっているせいだ。
あからさまな挑発に乗って受けてしまった。試合自体はそれを見ていた
だが龍親には背を押された。気休め程度の慰めだったのかもしれないが、統逸との対応の差を鑑みると、試合に負けて勝負に勝った……そんな複雑な気持ちになる。
『疫病神』という仇名は、あながち間違いでもないのかもしれないな―自嘲した蒼羅は少し立ち止まる。
店先の曇り硝子を姿見代わりにして口角を指で引っ張り上げ、小さく笑顔をつくる。人相の悪さを少しでも誤摩化すためだ。
そんなことをやっていると、わいわいがやがやと人々の喧噪が聞こえてきた。
見れば、通りの終端の三叉路に差し掛かったあたりで、誰かを囲うようにして三十人ほどの人だかりが出来ている。怒号や悲鳴が聞こえないあたり、乱闘騒ぎではないようだが……。
蒼羅は先ほど練習した笑顔を作りつつ人混みへと近づき、その中の温和そうな老婆に声をかける。
「なんの騒ぎです?」
振り返った老婆はおやまあ、と目を丸くして人混みの中に立つ人影を指差した。
「なんだい知らないのかいお巡りさん、
「……朱羽屋? 撃剣?」
「あぁ。『朱』色の『羽』と書いて
「いや、そんな暇は……」
「まあまあそういわずにさ」
手を振って断るも、おせっかいな老婆はその老体に見合わぬ腕っ節の強さで、蒼羅の身体を人混みの中心近くへ引っ張っていく。
やがて人混みの最前列に放り出され、それが目に入った。
人だかりの中央。
やや開けた場所で、市女笠を被った和装の人影が舞う。
背格好と、身体の線の細さからして十代後半の少女だ。
長い着物の袖をふわりと浮かせ、雅な舞を見せる少女。その手に握られているのは扇子ではなく業物―少女の身の丈ほどはあろうかという模造刀だった。
舞とともに振るわれる白刃が空を斬り、風を鋭く鳴らすたび、模造の刀は真剣と見紛う煌めきを目に焼き付けてくる。その動きに合わせて、袖や裾の布が花開くように広がる。
ゆったりとした、華のような舞踊と、戦場の
華と嵐、二つは入り乱れ、ときに調和し、美しさと荒々しさが同居したひとつの芸術へと昇華されていた。
その幽玄な風景を、どこからか風に吹かれてきた桜吹雪が彩る。
その場の誰もが見蕩れ、感嘆の吐息を漏らすのみ。
刀をくるくると掌で弄びながら、袖と裾を大きく翻して一回転。その一瞬、市女笠から覗いた涼やかな目許がこちらを射抜いた。
蒼羅がその目に既視感を覚えたのもつかの間。
目許の紅が残像のように尾を曳いて、翻った着物の袖でその顔は隠される。くるりと回り終えてやがて正面へ向き直った少女は、地面と垂直に構えた鞘へゆっくりと白刃を納めていく。
きん―と澄んだ鞘鳴りが響くと、一拍遅れて、爆ぜるような歓声と拍手が沸き起こった。
それを聞き我に返った蒼羅は、自分があの撃剣に見とれていたことに気付く。
市女笠の少女が深々と一礼すると、ある者は少女の手前に置かれた籠に小判を放り、ある者は名を呼び讃え、またある者は余韻を噛み締めるように目を閉じる。
少女が人混みを離れ細い路地に消えていき、集まっていた人々も散り散りに離れていく。
そんな中、蒼羅は唖然と口を開けて突っ立っていた。
―やばい、戻りの時間をとっくに過ぎている。
蒼羅は慌てて周りを見回す。ここからのほうが近道だ。
三叉路のうち、少女が通っていった左端の狭い路地に足を踏み入れていく。
そのまま
全員が女物の着物を着崩し、散切り頭を様々な形に変えている―
しまった。蒼羅は足を止めて困ったように頭を掻く。よりにもよって近道を塞がれるとは。
近づいて下手に絡まれるのも厄介だ。仕方がないとひとつ嘆息、別の道を通るため踵を返そうとして、男たちの会話が耳に入ってきた。
「お嬢ちゃん、さっきの舞、すげぇ綺麗だったぜ」
「俺ら感動しちゃってさ、もういっぺん見たいのさ」
「ここじゃなんだから、別の場所で話そうぜ。良い場所知ってるんだ」
蒼羅は男たちをもう一度見る。
道を塞ぐ三人の男たちは、誰かを囲うようにして立っていた。囲まれたその一人の姿はよく見えないが、男たちの台詞からして先ほど撃剣を行っていた少女だろう。おまけに群がる男たちの横顔は、滑稽なほどに鼻の下が伸びていた。
彼らがただ
さらに深い溜め息ひとつとともに軍帽を目深に被ると、蒼羅は重い足取りで男たちの方へ歩み出した。
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