傷と過去④


 緋奈咤ひなたは、蒼羅そらの顔を見るなり大量の荷物を放り出してそばに座り込む。


「良かった……心配したんだから」


 目尻に涙をたたえる慈母のような優しい笑みと、無鉄砲な子供をなだめるような口調。心配をかけてしまったことに罪悪感を覚え、蒼羅は苦い顔をして力なく笑う。


「……なんで、姉ちゃんがここに?」

「なに? 自分んに帰ってきちゃいけないの? ……え、もしかして反抗期?」


 蒼羅が素朴そぼくな疑問をぶつける。緋奈咤は目をぱちくりさせて答える。

 朱羽あけはが額を手で覆って大袈裟おおげさ嘆息たんそくした。


「だから言ったじゃん……」

「やー、買い出しの帰り道にドンパチ聞こえて来たから、花火大会でもやってるのかなー、なんて寄り道したんだけどね。すごい別嬪べっぴんさんとすごそうなおじさんが怪我人を運んでるっぽくて。なーんか見知った顔だなーって思ったら蒼羅で、もーびっくり」


 朱羽の冗談かと思っていたが、ということは本当に獅喰しばみの家だ。

 確かに『醜落しゅうらく』近くの区画に居を構えてはいたが、こんな偶然があるとは。


「ねぇ朱羽ちゃん、うちにお嫁に来ない? 貴女あなたみたいにおしとやかで家事全般きっちりこなせておまけに顔も綺麗な子、お姉さんは大歓迎なんだけど」

「あはは、いやその……あたしにも選ぶ権利があると言いますか……」


 乾いた表情で苦笑する朱羽。

 お茶をにごしたようでいて微妙に濁し切れていないその答えに、緋奈咤はなにかを察したような声を上げ、憐憫れんびんに満ちた目で蒼羅を見た。


「……残念だったね」

「勝手にあわれむなよ」


 思わず少し上体を起こして文句を言った後、蒼羅はあきれがちに息を吐いて身体を布団に沈み込ませる。

 話す朱羽の雰囲気はいつもより柔らかく、随分ずいぶんと打ち解けているらしいことが言葉の端々から伝わる。緋奈咤の底抜け明るい性格のおかげだろう。

 だが―


だまされるなよ姉ちゃん。今の朱羽は猫かぶってんだよ、本当はそんな利口な奴じゃない」


 蒼羅の物言いに、眉根を寄せた朱羽が『黙ってて』と視線で釘を刺してくる。ほらな、と苦々しく表情筋を引きらせる蒼羅。

 しかし緋奈咤は、不思議そうな顔をして二人を交互に見比べた後、苦笑しながら手を振った。


「やーだー、なに言ってんの嘘おっしゃい」

「いや、ほんとに―」

「蒼羅。言って良いことと悪いことがあるでしょう」


 ムキになって反論しようとする蒼羅を、緋奈咤は神妙な顔でぴしゃりと言いすくめる。

 苦々しく口を閉じる蒼羅。それを見てにやにや意地悪く笑っていた朱羽は、急にり寄って来た緋奈咤に両肩をつかまれ、目を丸くしてびくりと震えた。


「蒼羅を介抱した後、一晩中ずーっとようなよー? そんな悪い人なわけないでしょ。ねぇ?」

「……っ!」


 緋奈咤は文字通り朱羽の顔を、笑顔でのぞき込む。

 その言葉に、朱羽は耳朶じだまで真っ赤にして凄まじい速度で顔をそむけた。

 小さく掲げた右の掌を呆然ぼうぜんと見つめる蒼羅の脳裏には、目覚めるまで見ていた光景が蘇る。


 己の姿さえ見えない暗闇、

 蜘蛛の糸めいて垂らされた白い線、

 そして右手に強く感じた温もり。

 ―あれは、朱羽が?


 思わず、蒼羅の口から『ふへっ』と変な笑いが漏れた。


「なんだよ。お前も結構、可愛いところあるんじゃ―」


 起き上がって顔を覗き込もうとした蒼羅に返されたのは、凄まじい勢いで迫る手の甲。

 朱羽が振り払うように放った裏拳が、鼻骨に綺麗に入った。


「―んんんんんんんんんんッ!!」


 思わぬ衝撃にもんどり打った蒼羅は、陸に打ち上げられた魚のように跳ねる。

 ―傷がまた開いた。


「お、おっ、お風呂、かか借りていいですかっ」


 そんな蒼羅のことなどお構いなしに、朱羽は羞恥しゅうちに目をぐるぐる回しながらそう言って、家主の返事も聞かずどたばたと部屋を走り去る。


「お風呂はそこの廊下の突き当たりを左ねー」


 にこにこ恵比寿えびす顔で朱羽の背に声を掛けた後、緋奈咤は仕方なさそうに溜め息ひとつ。


「大丈夫?」

「大丈夫、じゃ……ない……」

「んじゃ手当てするから、ちょっと寝ててよー」


 蒼羅を助け起こし、そう言った緋奈咤の手がかすむ。

 それを視認した瞬間、蒼羅のうなじと土手っ腹に凄まじい衝撃が走った。


「……ッ!?」


 首筋に手刀、腹に拳を叩き込まれた。

 それを理解したときには、既に意識は半分以上が闇に沈み込んでいた。死なない程度に加減したのだろうが……。


 ―相変わらず化け物みてぇな強さだ。


 まぶたが暗幕のように閉じていく。蒼羅の意識と発した声は、闇の中へと吸い込まれていった。


・・・・・・


 お風呂は廊下の突き当たりを左。


 そこにあった木製の厚い扉を押し開けると、朱羽の目に飛び込んで来たのは白い霧だった。

 包まれているだけでじっとりと汗ばむそれが湯煙だと気付くと、どこからか吹いた風が霧の紗幕を晴らす。


 青白い月光が照らし出す先。木々が切り拓かれたその場所は、円を描くように大小さまざまな岩が積まれていた。

 その中央はこんこんと湧き出る澄んだ水に満たされ、その水面から湯煙を棚引たなびかせている。


「温泉……?」


 目の前に広がる秘湯めいた光景に、朱羽は呆気あっけに取られながら感嘆の吐息をこぼした。


『そうそう、うちにはがあるの。年の瀬の大掃除のときに出たゴミを埋めようとして穴を掘ってたらさ―』


 などと、緋奈咤が誇らしげに胸を張っていたのを思い出す。半笑いで話すものだから、冗談だとばかり思っていた。

 朱羽は水面のへりにある濡れた岩にしゃがみ込み、際限なく湧き出る温水を手ですくってみる。熱すぎずぬるすぎず、丁度ちょうどいい温度。

 澄んだ湯水の底には、丸石が敷き詰められている。長湯しても身体が痛くなったりは無さそうだ。


 気付けば、自分でも分かるほど口角が上がっていた。


 『旗本衆はたもとしゅう』宿舎にある桶風呂は、女性の身であってもせまい。脚を伸ばして開放感にひたる、なんて真似はまず出来ない。

 のことを考えると、否応無いやおうなく衆目にさらされる銭湯も使えない。

 家に居たころの湯浴ゆあみは、複数の女中が引っ付き回るからひとりでゆっくりする時間も無かった。

 

 だけど、ここなら思いっきり脚を伸ばして湯船にかれる。

 他所の人間の無遠慮な視線に晒される心配も無い。

 鬱陶うっとうしいくらい甲斐甲斐かいがいしく声をかけてくる女中もいない。

 おまけに今宵こよいは満月だ。酒はまだめないけれど……月見酒と洒落込しゃれこめたなら、きっと気分良く酔えるのだろう。そこは少し残念。


 それでも、美しい風景と心地良い湯を独り占めして、思う存分に羽を伸ばせるだけで朱羽には充分だった。否応無く気分も上がるというものだ。


「~♪」


 朱羽は手拭てぬぐいで白絹の髪をまとめると、着物の帯を解いていく。がらにも無く鼻歌など歌いながら。

 そうして赤襦袢あかじゅばんまで脱ぎ、陶磁器とうじきのように滑らかな肌が月光と夜気に晒された―そのときだった。


 背後で木の扉が開き、『疫病神やくびょうがみ』が顔を出したのは。

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