白と黒⑧

 ―からすが鳴く。

 があ、があ、とれた声が幾重にも響いている。


 おびただしい数の黒い鴉が舞う、明々あかあかと焼けただれた夕空。黒と橙で点描された空の下に広がる地獄絵図の中に、蒼羅そらは立っていた。


 赤黒く染まった大地には、いくつものしかばねが転がっていた。

 背を裂かれた者。

 首を飛ばされた者。

 四肢をもがれた者。

 いくつもの刀を剣山のように突き立てられた者。

 かばった赤子ごと突き殺された者。

 上半身と下半身がわかたれた者。

 下腹部から脳天までを串刺しにされた者。


 あらん限りの殺し方を持って、一方的に、ただ一方的に。

 たったひとりの人間によって、蹂躙じゅうりんされ虐殺ぎゃくさつされ鏖殺おうさつされたそれらは、全て墓標代わりに刀を突き立てられ、凄絶せいぜつな表情で絶命していた。

 そのいくつかには既に鴉が群がり、屍肉をついばんでいる。


 目の前に広がる光景は、広大な芒野原すすきのはらを、いびつで悪趣味な比喩で表したようだった。

 荒涼な風が吹きすさび、えた臭いを鼻に運んでくる。ここが芒野原であれば、穂が水面のごとく波打つのだろうが……動くものはなにもない。なにひとつない。


 全てが死んで、死にきって、死に絶えていた。


 その中で、たったひとり蒼羅は、死屍累々ししるいるい只中ただなかに立ち尽くす、もう一人の背中を睨み付けていた。

 両手に刀を提げたその人影。

 血のようにあかい長髪をなびかせ、返り血で着物を真っ赤に染め上げた『真紅しんく剣士けんし』が、なにかに気付いたように、ゆっくりとこちらを振り返って―


「—獅喰しばみッ!!」


 耳を打つ大隊長の怒号で我に返る。

 蒼羅の視界に写る景色が、脳裏の記憶から目の前の現実に切り替わる。

 その瞬間に見えたのは、目の前まで接近した木乃伊ミイラめいた男―『仏斬ぶつぎ供臓くぞう』が、こちらへ刀を振り抜く姿。


「―ッ!?」


 まずい。

 とっさの判断で足を後ろへ引き全力で背を逸らすと、銀の剣線は首の皮一枚を浅く裂いて通り抜けていった。

 首を斬られて死んだかと錯覚するほどすさまじい太刀筋に背筋が凍え、蒼羅は跳ねるようにしてさらに距離を取る。


 実はもうこの首は断たれていて、ふとした拍子に落ちるのでは―そんな焦燥しょうそうから、自分の首を握りつぶすように触る。

 手に伝わってくる喉仏の感触、指先を打つ血管の脈動。そしてわずかな息苦しさ。

 —大丈夫だ、まだつながってる、まだ生きてるッ!


ほうけるな!! これは訓練ではないぞッ!!」


 大隊長のげきが飛ぶ。その言葉を蒼羅は重く噛み締めた。

 そうだ、これは訓練じゃない。

 目の前で殺戮を繰り広げるあの男は、加減も躊躇ちゅうちょもしてはくれない。


 気付けば、百人近くいたはずの訓練兵たちは、今や蒼羅を含めて数人しかいない。残りは全て正視に耐えない惨殺死体に変わっていた。

 蒼羅は頭を振って脳裏の映像をかき消す。俺がいま見るべきは過去じゃない。

 このクソみたいな現実だ。


 視界の中央、大隊長は『仏斬り供臓』と斬り結びながら後方に控える訓練兵へ指示を飛ばす。


「お前たちは撤退を! 本部に戻って増援を要請しろッ!!」


 その怒号に追い立てられるようにして、数人が背を向けて走り出す。

 『仏斬り供臓』は大隊長を向こうへ蹴り飛ばすと、逃げる彼らを一瞥いちべつすることもなく、すでに冷たくなった肉塊から引き抜いた刀をそちらへ投擲とうてき

 独楽こまのように回転し、血糊をまき散らしながら飛ぶ刀は―如何程いかほど膂力りょりょくを込められたのか―軌道上にあった兵士たちの首をいくつも削ぎ斬っていく。

 最後のひとりのうなじを真横に裂いてもなおその勢いは止まらず、壁に突き刺さった衝撃で鋼の音が響き渡った。

 一拍遅れて、首を失った数人はその断面から間欠泉めいて血を噴き出しながら、糸が切れた人形のようにその場に倒れ込んだ。


 現実離れした光景に唖然あぜんとしている間に、『仏斬り供臓』はこちらへ歩みを進めながら、ふところからつまみ出した紙束を頭上へと放る。

 幾重いくえにも重なっていた紙束は空中で分解し、木々から落ちた枯れ葉のように、彼が踏み越えていった首なしの屍たちの上に降り注いだ。


「ひぃあ!!」


 震える声が響いた。その方向を見やると、顔面蒼白で腰を抜かした統逸とういつがいた。

 足を止めた『仏斬り供臓』は彼を一瞥すると、死体に突き立っていた刀を引き抜いてそちらへ向かう。

 逃げることもままならず、恥も外聞もなく情けない悲鳴を上げ続けるだけの彼を庇うように、大隊長が立ち塞がった。

 『仏斬り供臓』は羽虫を払いのけるような胡乱うろんさで刀を振る。大隊長がその一撃を受け止め、膂力の拮抗によるわずかな膠着こうちゃく


「―うあぁあぅあああああああッ!!!」


 腰を抜かしたまま無様に逃げ出す統逸の叫びで二人は動く。

 銀光がまたたき、火花と金属音が二人の間でいくつも飛び散る。数号の打ち合いの中で、大量の血飛沫ちしぶきがその中に混じった。


「……ぐッ」


 左腕を断たれ、苦鳴を漏らして後ろへ下がる大隊長。蒼羅がその隙を庇うように加勢する。

 続いて右腕を斬ろうとする『仏斬り供臓』の一閃を引き抜いた軍刀でどうにか弾き飛ばし、空いた脇へ向けて蒼羅は軍刀を思いっきり振り抜く。『仏斬り供臓』も刀を切り返して迎え撃つ。


「うおおッ!!」

「反応は上々。だが腕は素人か」


 言葉とともに苛烈かれつさを増す『仏斬り供臓』の攻撃を、蒼羅は危ういところで弾き返していく。一瞬でも遅れれば死に直結する状況下、打ち合うたびにヒビの入った軍刀は歪な音を立て始める。

 このままではまずいと生存本能が叫ぶが、だからといって攻撃への対応はおろそかに出来ない。


 一際ひときわ大きな金属音が響いた直後、蒼羅の持つ軍刀は半ばからいた。


「…………あ」


 呆然と声を上げる。

 蒼羅の一撃は『仏斬り供臓』に届くことなく、刀の断片が床に落ちる音が大きく反響する。

 『仏斬り供臓』が大上段へ刀を振り上げるのが見えた。

 既視感を覚える光景。

 脳裏から引きずり出されたのは、統逸との試合の記憶だった。


 あぁ、あのときもそうだった。そしてその先に待つのは―


「―獅喰ッ!」

「んがっ!!」


 横合いから、何者かが放った蹴りを受けて床を転がる蒼羅。

 全身の痛みを無視して立ち上がり、顔を上げて目に入ったのは―既に右腕をも断たれた大隊長が、心臓に刃を突き立てられる最期さいごだった。


 庇ったのだ。

 蒼羅を見殺しにしていればあの怪物に一太刀は入れることが出来ただろう。

 その好機をいっしてまで、彼は蒼羅の命を優先した。


「……そんな」


 乾いた声を上げる蒼羅をよそに、『仏斬り供臓』は空いた手で懐から一枚の紙を摘み出して宙に放る。

 愕然と吐血する大隊長の顔の前でそれがくしゃりと広がった瞬間、彼はその紙を巻き込む形で相貌そうぼうへ左の掌底を叩き込んだ。

 鼻骨が砕ける音とともに、身体を貫いた刀もろとも吹き飛ばされ、壁にはりつけにされる大隊長。仏画が描かれた紙が張り付いた顔は掌の形に陥没し、身体は末期まつご痙攣けいれんに震えていた。


 手持ち無沙汰ぶさたになった『仏斬り供臓』は大隊長が取り落とした業物わざものを手に取り、使い心地を確かめるように何度も握り直しながら、こちらへと近づいてくる。


「さて、後はお前ひとりか……今日はお前で最後としよう」


 足がすくむ。立ち尽くす蒼羅の脳裏に再びよみがえる『あの日』の光景。


 ―嗚呼ああ、クソ。


 あのときと一緒じゃないか。誰も守れず、誰も救えず、屍山血河しざんけつがの中でたたずむだけ。

 あんな目にうのは、もう御免ごめんだと思っていたのに。こうやってまた、同じことを繰り返すのか。


「……なぁ、ひとつ聞かせてくれよ」


 震える拳を握りしめて放った蒼羅の言葉に、目の前まで近づいていた『仏斬り供臓』は動きを止める。

 興味をそそられた様子でこちらの反応をうかがう洞穴のような双眸を見返して、蒼羅は再び口を開いた。


「あんたはどうして人を殺すんだ。仇討かたきうちならまだ分かる。けどあんたが殺してるのは無関係な大勢の人間だ。なんでそんな……無益なことを」

「無益だと? 確かにはたから見ればそう映るのだろう。だが、俺にとっては間違いなく有益な行いだ」


 己の行いを無益と断ずる蒼羅の言葉に、返す『仏斬り供臓』の錆びた声は静かな怒りを秘めていた。静かな、それでいて煮えたぎるような怒りだ。

 それにつられるようにして、うつむいた蒼羅の声音にも怒りの色がにじんでいく。


「有益? 人を殺すのが有益だと?」

「俺の覚悟などつゆほども知らぬお前が、知ったような口を利くな。下らぬ問答はもうたくさんだ、貴様も贄となれ」


 頭を振った『仏斬り供臓』はさらに強い怒りと拒絶を含んだ言葉を発したあと、もはや問答無用とでもいうように刀を頭上へ振り上げる。

 蒼羅が口を開くも、その言葉が風に乗るより速く、それを遮るように振り下ろす。


 しかし肉を裂くことも血飛沫が飛び散ることもなかった。

 結果は、わずかに鈍ったが響いたのみ。


「……なに?」


 『仏斬り供臓』は怪訝けげんな声を上げる。

 振り下ろされた刃を、蒼羅は掲げた腕で受け止めていた。軍服ごしに篭手こてかなにか、鉄のように硬い感触が刃を通じて手に伝わる。


 ―かちん、と来た。


 蒼羅は俯いたまま肩を震わせていた。聞き捨てならない台詞がひとつ。

 獅喰蒼羅は無用な争いは避ける人間である。

 だがその理屈抜きで許せないことが、彼には二つあった。

 ひとつ、自分を『疫病神』と罵られること。


 そしてもうひとつは、なんの罪もない人々が傷つけられることだ。


「―ふ ざ け る な ッ !!」


 怒りに震える言葉とともに、蒼羅は一歩踏み込んで『仏斬り供臓』の腹を殴りつける。

 小さくうめいて数歩後退したあと、顔を上げた『仏斬り供臓』のにごった目には、興味深そうな色が灯った。


 折れた刀を投げ捨てて構える蒼羅。果たしてそれは旗本衆の軍隊格闘術の構えだ。

 柔道や合気道を基盤として発展した、相手の攻撃を受け流し、動きを封じて無力化することに重きを置いた体術。

 身体に力を込め、敵の動きに対応できるよう神経を研ぎすましていく。固く引き結ばれた表情の裏、腹の底で沸き上がる激情をかてに、蒼羅は必死に勝算を探っていた。


 刀は折れ、残るはこの身体ひとつのみ。

 相手が得物を持つ以上、徒手としゅに比べ動きは大振りになる。長刀ともなれば尚更なおさらだ。くとすればその隙。奴の攻撃の間隙かんげきって殴打を加えていくしかない。

 だが奴は埒外らちがいに強い。長刀によるあの絶技を、自身の体捌たいさばきひとつで攻略できるのか―

 蒼羅はそこでいなと首を振り、思考を邪魔する恐怖を無理やりに追いやった。


 できるできないの話ではない。こうなった以上やるしかないのだ。

 背を向けて逃げたところで、その背を斬られて死ぬのが落ち。

 ならば活路は前にしか……この男を倒す他にない。


 覚悟を決めた蒼羅が『仏斬り供臓』をまっすぐに見据えると、視線の先の殺人鬼はそれを待っていたかのようにゆらりと動いた。

 まばたきほどの一瞬でこちらの間合いへ踏み込んだ『仏斬り供臓』は、上段から容赦ない一閃を叩き込む。

 袈裟懸けさがけの一刀に、蒼羅の左腕がかすむ。一拍遅れて響いた打撃音とともに、『仏斬り供臓』の刀はそれを握る手ごと左へ弾かれていた。


「……ほう」


 『仏斬り供臓』は驚きもせず興味深そうにうなると、弾かれた刀を切り返し、胴をぐ一閃を繰り出す。

 蒼羅はおくせず前へ踏み込むと、刀を握る手へと左の掌底を打ち込んでその一閃を止め、右の拳を『仏斬り供臓』の腹へねじ込むように突き入れた。


「ぐッ」


 苦鳴。数歩後退した『仏斬り供臓』を追って、蒼羅はたわめた膝を伸ばし前へ跳ぶ。

 顔をめがけ、後ろへ引き絞った右腕からのように放たれる正拳突き。『仏斬り供臓』は峰に左手を添え刀の腹で受け止める。

 すぐさま腕を引いた蒼羅はわずかに屈みながら左拳を振った。脇腹を狙った横殴りの一発は、同じように刀の腹で受け止められた。


「ふんッ」


 蒼羅は左腕を引き戻す動きに合わせ右の回し蹴りを放つ。

 死神の鎌めいて首を刈り取らんとする爪先を、『仏斬り供臓』はみたび刀の腹で受け止めた。勢いを殺しきれず後ずさりながらも、その足を削ぎ斬ろうと刃を立てて引き下ろす。

 蒼羅はそれより一瞬早く足を戻し、身体をひねって右の裏拳を放っていた。頬骨を打ち抜かんと迫る手の甲を、『仏斬り供臓』は刀から離した左腕で受け止める。骨肉に籠手のような硬質のものがぶつかる、鈍く重い音が響く。

 歯を食いしばりながら『仏斬り供臓』は蒼羅の背中を左足で蹴りつけ、すかさず刀を振り下ろす。無防備な背に吸い込まれていく白刃。

 蒼羅は振り返りざまにそれを右手で弾いた後、その勢いに乗って旋転、右足での回転蹴りを放つ。颶風ぐふうをまとった軍靴の爪先は遠心力を乗せて脇腹を打ち据え、その臓腑ぞうふきしませた。


 苦鳴を漏らしながら『仏斬り供臓』は目を見開く。

 蒼羅が構えるのは幕府の格闘術―相手の後手に回り、その攻撃を受け流し無力化を狙う受け身の体術だ。

 だがそこから繰り出されたのは後ではなく先の一手。

 加えて、軍服の内側に篭手か脚絆きゃはんでも仕込んでいるのだろう、その四肢は刀を受け付けない。


 こいつは凡百ぼんびゃくの兵とはなにかが違うと感じ、『仏斬り供臓』は後方へ跳躍、距離を取って構え直した。


 彼はあずかり知らぬことだが、蒼羅は“ある目的”のために訓練兵となる以前から鍛錬を積み、拳法家でもあった義理の姉に師事することで我流の拳法をも編み出していた。

 武器を持たぬ無手の戦いであれば訓練兵の中では右に出るものはおらず、並みの拳法家にも遅れは取らない。


 そしてその実力は、蒼羅の予想をはるかに超える形で通用していた。


 『仏斬り供臓』が描く剣線を拳で弾き、時にかいくぐり、ついに蒼羅の身体は刀の殺傷圏さっしょうけんよりも内側へ入り込む。

 —この距離なら俺の方が速い!!

 至近距離。拳の間合いにおいて、長い得物は邪魔になるだけだ。

 実際、『仏斬り供臓』は攻撃をさばくのにその長刀を持て余してさえいた。


「―おらぁああああああああああああああああああッ!!」


 蒼羅は『仏斬り供臓』の両腕を外側へ弾くと、がら空きになった上半身へ、左右の拳を幾度も幾度も叩き込んでいく。

 もはや拳法の型でも技でもない。

 まさしくタコ殴りと呼ぶに相応ふさわしい、滅茶苦茶めちゃくちゃな殴打の連続。その衝撃は幾重にも響き、打ち込まれるたび倍加され、敵の内蔵を軋ませる。


 しかし、このまま殴り倒されるほど甘い相手ではない。

 うめきながら半歩距離を取った『仏斬り供臓』は、逆手に握り替えた刀を庇うように半身になり、空いている左手でこちらの攻撃を捌き始めた。


 さらに攻勢を強める蒼羅の表情には焦りが滲み始める。

 攻撃の手を止めれば最後、右手に控える刀で一閃される。

 それを防ぐためにこちらが両手両足をそれぞれ使って繰り出す攻撃を、現に『仏斬り供臓』は片手片足のみで捌いていた。

 今は攻撃を捌くので手一杯のようだが、蒼羅が繰り出す攻撃に彼の目が慣れ始めているのは確実だ。こちらの方が体力の消耗が激しい。このままでは攻撃を全て防がれたのち、いずれられる。


 焦りが蒼羅の思考をかき乱し始める。

 どうする、どうするどうするどうすれば―


「―死にたくなかったら下がって」


 そのとき、鈴を転がすように軽く、しかし凛とした熱を持った声が響いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る