凹と凹⑨
『あんたは黙って見てるだけでいいから』
『なにがあっても絶対に席から動かないこと』
彼女がなにを考えているのかさっぱり分からず、はぁ、と蒼羅は溜め息をつく。
「なにが『あたしを信じて、あたしの策に乗って』だ。これじゃただ信じてるだけじゃんか……」
その指示を受けた直後の光景を思い出す。
思わず
手早くつっかえ棒でも仕掛けたのか戸は開かず、叩いて呼びかけてもうんともすんとも言わないものだから、蒼羅はしぶしぶ席に戻ったのだ。
―どうするつもりなんだよ、あいつ。
やがて開演を告げる笛の音とともに、
舞台の中央、そこにひとり
朱羽は観衆へ向けて一礼すると、足下に置かれた三振りの刀のうちひとつ、抜き身の野太刀を手にする。物干し竿ほどの長さのそれを構えると、緩やかに舞い始めた。
時に、風にたゆたう花びらのようゆったりと踊り。
時に、逆巻く嵐のごとく激しく刀を振るう。
静と動、
その様は、
剣と舞踊の非凡な技量もさることながら、そこに朱羽の美貌を掛け合わせたその様は、やはり息を飲むほど美しい。
見る者はみな言葉を失い、その姿に
無論、蒼羅もそのひとりだ。
素直に褒めるのは
間抜けな顔して見蕩れるな、という方が無理な話だ。
歓声もない。
感嘆もない。
吐息さえ
―
その
「!」
—来たか!!
蒼羅が思わず
その姿を
立っていたのは、
そしてその顔を覆い隠すのは、
「―げ、『芸術家殺し』……!」
誰かが
張り詰めた空気は、
しかし、誰かひとりでも狂乱の叫びを上げれば
かち、かち、と体内時計の針が動く幻聴が聞こえる。
それは時限爆弾の刻限めいて、その機が刻一刻と近付いていることを、蒼羅に
会場が異様な空気に包まれる中で、舞台上の朱羽だけが違う反応を見せた。
彼女は、まるでそれを待っていたかのように口の端を吊り上げたのだ。
「―これはこれは、
観衆へと向き直った朱羽は両手を広げると、ギリギリまで張り詰めた決壊寸前の空気に、
「しかしご安心を。今この場に
朱羽は高らかにそう告げて、あろうことか、手にしていた野太刀を『芸術家殺し』へと投げ渡した。
会場に渦巻いていた異様な空気が
これが朱羽の考えた策だ。
殺人犯が舞台に乱入するという不測の事態を、観衆をあっと驚かせるための演出として利用したのだ。
まるで最初から『剣舞の後に別の役者を呼びつけ、二人で剣劇を行う予定だった』かのように振る舞うことで、今この場にいる『芸術家殺し』は偽物だと見せかけている。
『名を上げる絶好の機会だもの』―演奏会が始まる前の朱羽の言葉を思い出しながら、蒼羅は彼女の突飛な発想に、素直に驚嘆していた。
『芸術家殺し』が生み出した不穏な空気はいまや
会場は、慰霊祭にあるまじき興奮と熱狂に包まれている。
だが、と蒼羅は眉根を寄せた。
—この策は
打ち合わせなどなにもない、それこそぶっつけ本番の奇策。
相手がこちらの狙い通りに動くとは限らない。前口上を
しかし蒼羅の疑念と心配をよそに、『芸術家殺し』は動かなかった。
乱入にまるで動じない朱羽に、彼の方がわずかにたじろいだきり、投げ渡された野太刀を握り締めたままじっと彼女を見つめている。
そんな『芸術家殺し』を尻目に、朱羽は
「あぁ、『
「この『朱羽屋』が、『
そう言って、足元に転がっていた大小二刀を蹴り上げて手に取ると、朱羽は改めて『芸術家殺し』に向き直り、演舞めいた動きを
「―さあ皆々様方、ご
朱羽は持ち上げた刀の切っ先で翁の面をぞんざいに指し、まるで覚悟を問うように睨み付ける。
果たして『芸術家殺し』は、それに
くだらない前口上など無視して、朱羽を一刺しにすることもできただろう。
だが彼は朱羽の策に乗った。
標的が自ら進んで退路を絶ち、己が処刑される場をわざわざ
これで観衆の混乱は収まった。蒼羅は小さく息を吐いて安堵すると、改めて気を引き締めた。
剣劇が始まる―ここからが本番だ。
舞台上で構えた両者は動かない。
そのただならぬ気迫に
二人の間に張り詰める殺気を、蒼羅だけが正しく感じ取っていた。
殺気を放ち続ける『芸術家殺し』に対して、朱羽の身体に緊張は見られない。
己もまた構え、殺気をその身に受けていながら、自分はいまこの状況と全く関係ないかのような、不自然なまでの自然体。
しかし会場にわだかまった静寂を打ち破ったのは、他ならぬ朱羽だった。
客席にいる蒼羅でさえ鳥肌が立つほどの殺気を一瞬にして放出すると、床を踏みつけ突貫。
姿勢を低め、腕を後ろに流して駆ける様は低空を飛ぶ
朱羽は下段からすくい上げる右の一閃。
『芸術家殺し』は振りかぶって上段一刀。
そこに込められた
噛み合った二つの刃がぎちぎちと震える。
二人の力が
『芸術家殺し』は後ろへ跳んで回避すると、空けた距離を
頭と胸、腹を狙う三段突き。
対する朱羽は一撃目を首を
『芸術家殺し』がいなされた刀をすぐさま斬り上げる。
朱羽は左の小刀でそれを受け止めると、刃を噛み合わせたまま―真剣であれば
しかし『芸術家殺し』はその勢いを受け流すようにくるりと回って背後へ。その鮮やかな手際に観客からは感嘆の声が上がる。
次の瞬間には、長刀が朱羽の背中へと吸い込まれていく。
しかし響いたのは模造刀の激突音。
朱羽は背後への
「……ッ」
驚くように身じろいだ『芸術家殺し』に、朱羽は腕を振り上げ刀を弾き飛ばすと、振り向きざまに右の大刀を振るう。
『芸術家殺し』は野太刀で受け止めると、手首を回して刀身で
朱羽は手から離れた
小刀で相手の脇腹を叩き、
朱羽は丸まった彼の背を足場にして跳躍、先ほど上空へ放り投げられた大刀を手に取って振り下ろす。
高空から振り下ろされた大上段の一刀と、防御のため
再び
拍手と歓声が上がる中、朱羽が右へ、『芸術家殺し』が左へ。
舞台の中央。円弧を描くように移動しながら両者は睨み合う。
蒼羅は剣劇に見入るあまり思わず止めていた息を、ここでようやく吐き出した。
剣の技量は間違いなく、朱羽の方が上手。
だがそれと渡り合う『芸術家殺し』も相当の腕だ。
ただの愉快犯だとばかり思っていたが、どこかの流派の剣術を
朱羽もそれを肌で感じたのか、攻め込むのを
両者が半円を描き終えたころ、仕掛けてきたのは『芸術家殺し』。
床を蹴って一気に距離を詰め、助走の勢いを殺さぬまま突きを放つ。
防いでも次々に迫り来る点の一撃。
攻撃範囲こそ
加えて長大な野太刀では、大刀小刀を持つ朱羽は近付くこともままならない。
己の得物を最大限に活かした攻撃に対し、朱羽は身体を大きく動かし、全身の筋肉を使って刀を振るっていた。
二刀は片手で
それを
『芸術家殺し』が押せば観衆はどよめき、朱羽が押し返せば歓声が上がる。
剣劇に引き込まれ盛り上がる観衆たちの中で唯一、蒼羅だけが苦々しい顔で拳を握りしめていた。
模造刀といえど、力を込めて叩けば骨が折れ、突けば目や
舞台上で行われているのは、断じてちゃんばらごっこではない。
命を賭けた戦いだ。
右の
すると『芸術家殺し』は右足を軸に
辛うじて防ぐも、不安定な体勢ゆえよろめく朱羽。
『芸術家殺し』はすかさず追撃。踏み込んで放つ前蹴りが彼女の腹に刺さった。
たまらず後ろへ下がる朱羽に、上段から振り下ろされる野太刀。
朱羽が重ねた刃で受けると、『芸術家殺し』は
押され膝をつく朱羽。彼女が苦痛に顔を歪めたその瞬間、『芸術家殺し』の
歯を食いしばり抵抗する朱羽。その表情に潜む怯えに気付き、蒼羅ははっとする。
『あたしは多くの人が殺されるのを見てきた。だからあたしは死ぬのが怖い』
『いつだって大切なのは自分の命でしょ。一人でも多く生かすためには、まず自分を生かさないと』
朱羽は自分が死ぬのが怖いと言った。
『芸術家殺し』はそんな彼女を明確に殺そうとしているのだ。
この会場の中で誰よりも死の恐怖に怯えていたのは、朱羽自身に他ならない。
『だけど、誰かを守るために命張って、ギリギリまで戦うことくらいはできる』
『誰かが目の前で死ぬのを見たくないのは、あたしだって同じだから』
それでも、朱羽は一人で戦うことを決めた。
その覚悟に思いを
朱羽はいま、この慰霊演奏会その物を『芸術家殺し』の魔の手から守ろうとしているのだ。
自分が命を狙われていると知ってなお、朱羽は舞台を強行しようとした。
それは、自身の名声や他人の
ましてや
悲しみを和らげるために集まった人々を、これ以上悲しませないために。
これ以上、恐怖させないために。
平穏な日常を望む人々に迫る非日常の危険を、
非日常の
この場にいる全員の心身を守るために戦っている。
ただ命を救うよりずっと難しいことを成すために、覚悟を決めてその身を削っているのだ。
それに気付かないまま、俺はなにをしようとしていた?
騒ぎ立てて観客を逃がせば、確かに命は助けられただろう。
だが、たとえ命が助かったとして、その心までは守れたか?
人々の心に受けた傷が
俺が守ろうとしていたのは周りの命、それだけだった。
命さえ助かれば良いと考えていた。
―自分勝手なのは、俺の方だ。
「―はぁぁッ!!」
朱羽は気勢とともに大刀をいなし、二刀で相手の腹を叩く。
くぐもった苦鳴を上げて後退した『芸術家殺し』に、朱羽は
ありとあらゆる斬撃を、舞うように叩き込んでいく。
トドメの一発、バツ印を刻むように胸板へ振り下ろす。よろけるように大きく後退した『芸術家殺し』は膝をついた。
見事な形勢逆転に、周囲から歓声が上がる。
開いた
足を震わせ、肩を荒く上下させる『芸術家殺し』に対して、朱羽はわずかな呼吸の乱れのみ。
力の差は歴然、有利不利の関係も既に
姿勢を低め、足に力を溜めた二人。合図はなく、しかし全く同時に駆け出す。
刀を振り抜いた姿勢のまま残心、二人は微動だにしない。
観衆は思わず息を飲む。
呼吸さえ
一拍の間を置いて、崩れ落ちたのは―
『芸術家殺し』。
その瞬間、
万雷の拍手に包まれながら舞台上で深く一礼、顔を上げた朱羽と目が合う。
口角を持ち上げて勝ち気に、そして満足げに笑む彼女に、蒼羅も笑みを返した。
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