雷神と狂獣⑨

 見渡す限りの闇色が、徐々に白く薄暈うすぼけていく。


 やがて眼に入ったのは、見知らぬ天井だった。

 意識の電流が全身各所を巡り、知覚機能を覚醒させる。寝ぼけていた五感が冴えていく。

 しんと冷え切った空気が鼻腔をく。固い床に敷いた茣蓙ござにでも寝かされているのか、後頭部にざらざらとした感触。

 薄暗い部屋の中、しばらく目玉模様の木目と熱く見つめ合ってから、蒼羅そら安堵あんどの息を吐いた。


「……生きてるのか、俺」


 身体中に残るにぶ疼痛とうつうが、目覚めるまでの記憶を思い出させる――ことはなく。

 記憶に薄靄うすもやが掛かったまま、蒼羅は痛みにうめきながら上体を起こす。


「……わ」


 と、聞き覚えのある声が、隣で小さく上擦うわずった。

 その方向へ顔を向けると、白髪の少女――朱羽あけはの姿。

 白一色の着物に膝上丈の赤い女袴おんなばかま。もはや見慣れた服装に身を包んだ彼女は、端正たんせいな顔立ちを嫌悪感にも似た驚きで満たし、大きく見開いた猫目をぱちくりさせている。 

 目が合う。すると一転して不機嫌そうな——要するにいつもどおりの——表情に変わった。


「……あんた本当に人間なの?」

「急になんだよ」


 開口一番まさかの暴言を放ってきた朱羽に、痛みに震えながらかすれ声を絞り出し文句を突き返す。


虎堂こどうり合ってからまだ三週間も経ってない。普通の医者がて全治半年。幕府お抱えの医者が処置しても全治三ヶ月……まず一ヶ月は意識が戻らないだろうって話だったのに」


 言いながら、まるで不気味な新種の生物が目の前にいるかのように凝視ぎょうししてくる朱羽。

 態度も言動も病み上がりの身に対してはいささか辛辣しんらつな気もするが……妙な気遣いをされてこそばゆい気分になるよりはマシだ。

 瞳の奥に垣間かいま見えるうれいの色は、見なかったフリをしていよう。


「お陰様かげさまで、お前とつるんでると生傷が絶えないよ。……全く、どっちが疫病神やくびょうがみだか」

「これ以上怪我したくなかったら、さっさとあたしから離れたほうが良いよ?」


 皮肉っぽく冗談めかした言葉に、返す朱羽の言葉は警告じみていた。

 しかしその声音には突き放すような冷たさはなく、どこかこちらをおもんぱかるような――言うことを聞かないだろうけど、とりあえず駄目元で言ってみたような――柔らかい音の連なりが耳をくすぐった。


「なら、もうしばらくお前にくっついてることにするよ」


 小さく笑って迷いなく答える蒼羅。

 朱羽の目はしかし、いよいよ死にかけの虫でも見るように冷え込む。


「……どうしたの急に。気持ち悪い」

「さっきから黙って聞いてりゃ、それが病み上がりの人間に掛ける台詞か?」

「いや、見た感じあんた元気そうだけど」

「現在進行形で絶賛負傷中だよ。心が」

「だったらちゃんとそういう顔してくれないと」

「…………」

「なに情けない顔してんの、男の子なんだから痛いのくらい我慢したら?」

「お前覚えとけよ、動けるようになったら一発殴るからな。マジで」


 いつものように憎まれ口を叩いてくる朱羽。小憎たらしい気分になるが、同時にこれで良いとも思った。やはりこうでないと張り合いが無い。

 重々しい溜め息で軽口の応酬おうしゅうを締めくくり、蒼羅は怒りと苛立ちのまま握りしめていた鉄の左手から力を抜く。ついでに脇道に逸れまくった会話の筋も戻す。


「前に言ってたろ、『目に付くところで死なれるのは嫌』って。……なら、お前の近くにいれば助けてくれるんだろ?」

「見ないフリするかもよ。……勝手に連んできて死にかけまくる奴の面倒なんて、見てられない」

「お前はそんな冷たい奴じゃない」

「な、にを、根拠に……」


 自信満々にそう言い切る蒼羅に、朱羽は目に見えて狼狽ろうばいする。

 蒼羅の右手には、なにかに強く握り締められたような感触の名残なごりがまだあって——

 朱羽の左手には、跡が赤く残っている。


「どうせまた、俺が目を覚ますまで見守っててくれたんだろ?」


 心中を見透かすような目で蒼羅がつらねた言葉に、朱羽はどこかばつが悪そうに顔を逸らす……図星だ。

 頭頂から背中へ流れ落ちる白髪。その隙間からのぞ耳朶じだが、赤く火照ほてっていた。


「あたしの過去も、『天照あまてらす』の刺客しかくだって、本当は蒼羅には関係の無い話。あんたが虎堂を相手に命張る必要なんてなかった。それでも、甘えてすがって巻き込んで、ここまで付き合わせたあたしにも責任はある。だからてただけ……別に、心配してたわけじゃないから」

 

 早口でまくし立てるように、畳み掛けるように、どこかぶっきらぼうな調子でつむがれていく言葉。それら全てを聞き終えて、蒼羅は破顔した。


「そうだよな。そういうがある以上、お前は自分が巻き込んだ人間を絶対に見捨てない」

「……恩着せがましい奴。あたしにおんぶに抱っこで助けてもらおうっての?」

「自分の身は自分で守るさ。けど、どうしたって手が回らない場所もある。だから俺の背中はお前が守ってくれ、お前の背中は俺が守るから」


 蒼羅が差し伸べた手に、はぁ、と諦めたように息を吐く朱羽。

 呆れたような目でこちらを一瞥いちべつしたあと、顔を逸らしたまま手だけ差し出してくる。


「だったらちゃんと着いて来てよ。……足引っ張ったら、そこで置いてく」

「……契約成立だな」


 二人は手を握り合う。

 少しだけ不服そうに鼻を鳴らす朱羽の表情には、いつもの冷徹で高慢な色の他に、もうひとつ。

 照れ隠しのように微笑ほほえむその頬に、淡い桜色が乗った。


・・・・・・


「…………で、ここはどこなんだ?」


 蒼羅はぐるりと首を回し、周囲へと目を向ける。

 二人がいるのは十畳にも満たない狭い部屋だ。窓は無く、灯りはランタンがわずかに周囲を照らすのみ。

 調度品ちょうどひんの類は見当たらず、旅籠はたごにしては随分ずいぶんと味気ない。漆喰しっくいの壁は年季の入った色褪いろあせ方をしていた。老朽化しているのか、床板は身じろぎするたびにぎしぎしときしむ。


 獅喰しばみの家ではないだろう。その証拠に、部屋への出入口にあるのはふすまではなく木製の格子だった。

 まるで座敷牢ではないか――ここの旅籠の主人はやたらと特殊な性癖をお持ちのようだ。


「まさかあんた、ここが旅籠だとか思ってる?」

「違うのか?」

「いや違うでしょ」


 こんな悪趣味な宿に止まると思う? と呆れた息を吐く朱羽。


「ここは九条家の蔵。あたしたち捕まったの。しばらくここに拘留するんだって」

「まぁ、追われる身で野宿になるよりはマシか」

「……あんた妙なところで前向きだよね」

「お前と同室なのは気に食わないけどな」

「あたしも、モヤシと一緒に暗室で暮らせるなんて夢みたーい。……はやくめないかな」

「一言多いんだよ」

「あんたもね」


「おーおー、お盛んなことで」


 格子の向こうから冷やかすような声が掛かる。それに付随ふずいして、草履ぞうりが床を擦る音が続く。

 いつの間にか立っていたのは、眠たげな顔にぼさぼさの髪を乗せた二十代半ばの青年。着流しの上に肩掛けにした軍服には、大量の徽章きしょうが縫い付けられている。


 格子越しに睨み据える二人に、『旗本衆』筆頭——九条くじょう龍親たつちかは、降参を示すように諸手もろてを挙げ苦笑した。


「やだねぇ、怖い顔すんなよ。ちょいと頼みたいことがあるんだが」

「この前は殺しにかかって、今度は顎でこき使う気か」

「蒼羅、待って」


 不信感と嫌悪感を隠そうともしない蒼羅を制すと、朱羽は腹の底を見定めるような冷ややかな目を龍親へ向けた。


「龍親、話だけは聞いてあげる」

「……良いのかよ。お前だって殺されかけただろ」

「それは正しくないぞ、獅喰。俺は殺す気なんて毛頭なかった。勝手に身体を酷使して死にかけたのは朱羽そっちだ」

「……そんなことしてたの?あたし」


 虚を衝かれたように目を見開き、悲痛な色を浮かべる龍親を尻目に、朱羽は唇を耳朶に寄せてささやいてくる。


「悔しいけど、こっちには治療してもらった借りがある。いまここで下手を打てば、一生ここから出られないかも」

「そうだぞー。あのから助けてやったのはだーれだ?」


 便乗して恩着せがましく言葉を連ねる龍親に、蒼羅は自分が意識を失いここに至るまでの出来事を、ようやっとおぼろながらに思い出した。


・・・・・・


「首をねられたくなかったら、僕の言う通りにすることだ」


 そう言って海藻類のような髪の青年——統逸とういつが顔を歪めた直後。背後からにゅっと伸びてきた手が、その肩を叩いた。


「よく見つけたな葦切よしきり、ご苦労さん」

「た、龍親様……!?」


 胡乱うろんそうに振り返った統逸は目をいて後退あとずさる。

 龍親はたじろぐ彼を黙殺し、蒼羅と朱羽に向けて挨拶あいさつ代わりに手を挙げた。その後ろから、さらに十数人の『旗本衆』一般兵が玄関先に乗り込んでくる。


「この場は俺が預かる。獅喰にはまず応急手当をしろ、死なれたら困るからな。朱羽は手枷をめて連行。残った者は、家主が帰って来たら事情を説明――」

「ちょ、ちょっと待ってくださいッ!!」


 当然のように場を仕切って部下に指示を飛ばす龍親を、統逸の怒声が遮った。

 龍親は言葉を切ると、なだめるような視線を向ける。


「別にお前の手柄を取ったわけじゃない。俺の部下の失態は、『旗本衆こっち』で預かるのが道理ってもんだろう」

「僕の『御用ごようあらたメ』は、だ。今ここで僕に逆らうのは、将軍に代わってまつりごとり行う老中に刃向かうのと同じこと。いくら貴方といえど——」


 しかし統逸の脅迫じみた警告は、失笑に遮られた。


「聞いたことない部署だと思ったが……こないだあれか。親父殿に特別に作ってもらった役職を自慢したいのは分かるがな、お前はもうひとつ大事なことを忘れてるぞ」


 言って、龍親は統逸の鼻先まですごむように顔を近付ける。


「良いこと教えてやる、覚えておけよ青二才。『旗本衆』筆頭にはな、幕府老中とが与えられてる。加えて互いに干渉するのも御法度ごはっとだ。軍事力の政治的利用と、軍事力の政治介入を防ぐためにな」


 小馬鹿にしたような口調に、統逸の眉が跳ね上がる。


「だから老中様の意思を俺がおもんぱかる必要はない。無論、お前の言うことなんか歯牙しがにも掛けない。……ほら、老中様に言伝ことづてをやるからさっさと飛んでけ、


 ぴん、と丸めた指で額を弾かれた統逸は、苦々しく口の端を歪めた。


「今回の件、いずれ貴方も責任を追求されるときが来るでしょう。覚悟を決めておいた方が良い。……おい、行くぞ」

「はいはいご忠告どーも。しっかり聞き流しておくよ」


 顎をしゃくって取り巻きと共に出ていく統逸に、龍親は煙たげに手を振り返した。

 そうして、蒼羅と朱羽は屯所とんしょまで連行。幕府お抱えの医師による治療を受け――今に至る。


・・・・・・


 記憶の反芻はんすうが終わり、意識を移した眼前の景色の中で、龍親は得意げに胸を張っていた。


「お前ら二人して、随分と恨み買ってたみたいだからな。俺が助けに入んなかったらマジ死んでたぞー?」

「龍親、自慢はいいからさっさと本題に入って」

「……はいはい。俺も時間が惜しいからつまんで話そう」


 朱羽につっけんどんに先をうながされ、しゅん、と眉を下げた龍親は大袈裟おおげさに溜め息を吐く。

 どうせ彼のことだ、大した用事ではないのだろう——そうたかくくっていた二人は、龍親の開いた口から滑り出た言葉に目を剥くことになる。


「——『仏斬ぶつぎ供臓くぞう』の模倣犯が、

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