疑惑と刺客②
呉服屋―
精巧な造りの花と
中央区に帰ってきた後、真っ当な店で鑑定してもらったが……
どうやらあれが適正価格だったらしい。
店主の
とはいっても、あの老爺の邪魔が入ったことによって、潜入作戦の出鼻を
はてさて、これをどうしたものか。
持っていてもしょうがない。蒼羅には使い道がないのだから。
誰かに送るか―そう考えてぱっと思い浮かんだのは、朱羽の顔だった。
「いや、無いな……」
いきなり送ったところで、気味悪がられるのがオチだ。脳裏に浮かんだ想像上の朱羽も、
―これは、いつか大切な人が出来たときに送ろう。
蒼羅はそう考え、髪飾りを包みに戻して懐にしまい込んだ。
往来する人々を眺めていた蒼羅は、思い出したように元来た道を振り返る。
「…………遅いな、あいつ」
・・・・・・
「―で、ほんとに何の用なわけ?」
傷の男—
数歩前でこちらに背を向ける彼に、朱羽はさっきと同じ問いを繰り返す。
「何の用だァ? 野暮なこと
半笑いの口調とともに、
その上半身の動きが加速した。
朱羽は目を見開きながらも重ねた腕で受けた。衝撃で押され後退、下駄の裏が地面を
「はッ、まだ
「あぁ、思い出した。何の用かなんて……聞く方が不粋だった」
「良いねェ、飲み込みが速くて助かる」
琥轍が口の端を釣り上げ、さらに一歩踏み込んだ。更なる
ただそれだけの動作で力の拮抗は打ち破られ、朱羽の身体は段々と押し戻されていく。
体勢の
鞘に収まった小太刀が、遠心力で右袖から飛び出す。それを握り込み、回転の勢いを殺さぬまま横薙ぎ一閃。
うなじを打ち据えるはずの一撃は、
なんの手応えもなく通り過ぎた。
手に伝わるはずの感触が無いことに眉を
「ぅぐ……ッ!?」
眼下に広がる
こちらに背を向ける琥轍は、器用にも上体を前へ倒しながら、片足を天へと跳ね上げていた。
あの横薙ぎを、
重力が身体を掴む。為す術なく落下する朱羽へ、琥轍はその場で跳躍し地面と水平に旋転。
竜巻めいた暴力的な回転から放たれる蹴りが、
「が、はッ……ぅえっ」
―調子乗っていっぱい食べなきゃ良かった……。
地面に叩き落とされた朱羽は、菓子の食べ歩きなんてしたことを早くも後悔していた。
さっきまで朱羽を幸せ気分にしてくれていた甘味たちは、全身を揺さぶる無慈悲な衝撃に感化されたのか、みんな揃って胃壁をボコボコに殴り始める。
喉の奥からせり上がる気味の悪い甘さを飲み下しながら、朱羽はゆっくりと立ち上がった。
「どうしたァ、もう終わりかよ?」
「はッ、冗談……ここからでしょ」
肩を
小太刀を下段に構え、姿勢を低めていく朱羽。
指の骨を威圧的に鳴らし、ぐるりと首を回す琥轍。
二人の闘気に
肌の
仕掛けるのは朱羽。
先んじて己の間合いへと相手を
しかし、鈍い激突音とともに斬撃は反対方向へ弾き飛ばされた。
「……ッ」
その視線は、琥轍の両拳―鋭利な
見切ることなどおよそ不可能な一閃の最中。
琥轍は真横から
衝撃に吊られ、横へ流れる朱羽の身体。隙を
琥轍の腕先が消える。
目を剥いた朱羽の頬を横殴りの
反射的に半歩下がっていなければ意識が刈られていただろう。回避が間に合ったことに
暇もない。
姿勢を
一陣の颶風となって次々と迫る拳打の数々。朱羽は避け、いなし、受け止め、紙一重のところで
そのたび、朱羽は全身の感覚が研ぎ澄まされ、思考が冷徹な
まるで、研がれた刀剣が
呼応するように蘇ってくる記憶の中に、この男の素性も入っていた。
元『
筆頭補佐という肩書きが与えられてはいたが……凶暴かつ好戦的な彼に、そんなものが勤まるはずも無い。
人の下で使われることを
その活動内容というのも、
標的以外への
予定時刻を過ぎても帰投せず、第三者との戦闘を継続―
無関係の者を
とっくに死罪にされていてもおかしくない、
―そんな人間が何故、あたしを狙いに来る?
—そして、なんであたしはそんなことを覚えてるの?
数秒にも満たない記憶の
朱羽の思考に疑問符が浮かんだ瞬間、琥轍の姿が視界から消えた。
「!!」
思考よりも
その理由を、朱羽の意識が一拍遅れて理解する。
琥轍は消えたのではなく、身体を大きく沈み込ませていたのだ。
昇竜の
間一髪で回避した朱羽は、手首を返しながら小太刀を逆手に握り直し、がら空きとなった琥轍の
くぐもった声を上げて後退した琥轍に、朱羽は踏み込みつつ腕を振り上げ一閃。銀光の終点で右の順手に持ち替え、さらに追撃。振り下ろした切っ先が頬を掠める。
後退した琥轍は、小さく笑って頬から流れる血を拭った。
「ねぇ、まさか喧嘩ふっかけるためだけに後ろを尾けてたわけ?」
「……へぇ、気付いてたのか」
距離が離れ、睨み合う両者。
正眼に構えた朱羽が
「あんなに殺気を振りまきながら歩いてれば、馬鹿でも気付く」
「なら、お前の隣にいた奴は?」
「あれはただの馬鹿だから」
「…………そうなのか?」
「…………そうなの」
困惑する琥轍。
場に満ちる微妙な空気感は、琥轍の咳払いで霧散していった。
「……俺も、ただ喧嘩ふっかけに来たわけじゃねェよ。お前を消して欲しいって言う奴がいてな」
「あたしを……?」
「俺に勝ったら、
琥轍の言葉に、朱羽は動きを止める。
彼がこうして喧嘩を仕掛けてきたことと、今までの襲撃を無関係と断じることはできない。ここで琥轍を倒せば、首謀者に一気に近付けるかもしれない。
だが、と朱羽は形の良い眉を訝しげに顰めた。
「なんのつもり?」
「あ? なにがだよ」
「なんでわざわざ、依頼人の情報を
「なに、おめぇにも理由が必要だろうと思ってよ。……久々に楽しめそうな獲物を見つけたんだ。尻込みして逃げられちゃ
皮肉げに笑い返す琥轍を見て、なるほど、と朱羽は小さく頷いた。
―こちらを戦いに乗せるための、撒き餌か。
琥轍の思惑通りになってしまうのは
「乗ってやろうじゃないの」
「そうこなくっちゃな。―楽しませてくれよ、『
「―ッ!!?」
『
記 憶 を ぐ ち ゃ ぐ ち ゃ に か き 混 ぜ ら れ る よ う な 感 覚。
あの張り紙を見たときと同じ痛みだ。
朱羽は思わず額を押さえ、思考を
その一瞬が命取りだった。
琥轍が動いた—そう認識した瞬間には、朱羽の身体は既に長屋の壁へと叩きつけられていた。
幾度も殴られたのか、胴体の各所が疼痛を発する。
壁に背を預けたまま、ずるずるとへたり込む朱羽。それを見た琥轍は、思考に
「その程度だったか? お前の実力はよォ……期待して損したぜ」
立ち上がろうとする朱羽の視界に、暗い穴がぽっかりと空いた。
がちり。
撃鉄を起こす音を耳にして、それが突き付けられた銃口だと気付き、視線は否応無く釘付けになる。
―あの奥に火が見えたら最後、あたしは死ぬ。
あと数秒、あるいは一瞬の後に迫る死。恐怖が心臓を
「じゃあな、さよならだ」
引き金が引かれるその直前、拳銃は黒い風によって真上へ弾き飛ばされた。
風圧で
―いや、風じゃない。
脚だ。現れた誰かが、爪先で蹴り上げたのだ。
宙へ舞った拳銃が、
まるで合図されたように現れた人影は、引き絞っていた右の拳を琥轍に叩き込んだ。
顔を目掛け飛んでくる一撃。掲げた掌でそれを受け止め、琥轍は不愉快そうに口の端を歪める。
「なんだ、おめぇは?」
「―こっちの台詞だ」
琥轍へ刺々しい言葉を返す軍服姿の少年を見て、朱羽は思わず声を上げた。
「蒼羅!?」
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