雷神と狂獣③

「悪かったなァ、今まで手加減しててよ……こっからは全力で行くぜ」


 その言葉と共に琥轍こてつの姿が消えた。

 一拍遅れて激震。彼が立っていた地面に放射状の亀裂が走り、



 ――瞬間、背後に極大の殺気。



 地面に飛び込むように跳躍。思考よりも早く、蒼羅そらの身体は回避を選んでいた。

 獣の咆哮ほうこうと共に、追いすがる颶風ぐふうが後ろ髪を引き千切っていく。その感覚に総毛立ちつつ、腐葉土を転がってさらに距離を取る。

 回転運動の遠心力を利用して膝立ちになりながら、先ほどまで立っていた場所を睨み付け——


 そこに琥轍の姿は無かった。

 再び亀裂が刻まれた地面に、巻き立てられた土煙がただようのみ。地を揺らす衝撃が、一瞬遅れて全身を震わせる。

 どこから来る? 焦燥に突き動かされるように視線を飛ばしていた蒼羅に影が差す。


「くははははははははははははッ!!」


 哄笑が耳に届いた瞬間、弾かれるように後退。寸前まで居た空間を流星のごとく駆け抜ける狂獣。

 拳に穿うがたれた地面は規格外の膂力りょりょくによって、衝撃によって千々ちぢに分解。余波で吹き飛ぶ蒼羅の全身を、飛礫つぶてとなって打った。

 腕を顔の前に掲げ、咄嗟とっさの防御姿勢。全身各所の鈍痛を堪えながら着地した頃には、琥轍は擂鉢すりばち状の大穴からこちらの間合いまで距離を詰めていた。


 琥轍の右腕がかすむ。

 勘に任せて左へ首を倒すと、颶風と化した拳が頬を擦過。肉が浅く削がれ、ごううなる風圧が聞こえる音を途絶させる。


 反射的に後方へ跳躍。更なる踏み込みから繰り出される琥轍の拳に、蒼羅は宙で前蹴りを放った。

 かち合う拳と軍靴の足裏。勢いに押され膝がたわむ。狂獣は口の端を吊り上げると、そのまま腕を内側へひねった。

 規格外の膂力によって強引に力の流れを崩し、宙にある相手の身体を地面へ叩き落とそうとする。


 蒼羅はその瞬間、撓めていた脚をバネのように思い切り伸ばした。


 さっき放った蹴りは攻撃のためではない。

 拳を足場にすることで、常軌じょうきいっした膂力を推進力に変え、後方へ大きく距離を取るためだ。


 狙い通り、吹き飛ばされるようにして後退。四足獣の姿勢で着地。勢いを殺し切れず、軍靴と黒鋼くろがねの五指が地面を削って大小のわだちを描いた。


「……くッ、あ」


 激突の緩衝材かんしょうざいとなった義足がきしみ、思わずその場に膝を突いてしまう。蒼羅はせめてもの抵抗に顔を上げ、前方を睨み付けた。

 追撃をかけることなど容易なはずだが、琥轍はこちらを悠々と睥睨するのみ――余裕のつもりか。


「おいどうしたァ、逃げてばっかじゃつまらねェだろ。……立ち向かって来いよ」


 掌を上にして手招きする琥轍。

 その挑発には乗らず、蒼羅は敵を睨み付けたままゆっくりと立ち上がった。


『席次を決める基準は、殺した人間の量と質だ。当然、上位の奴らはずば抜けて強い。……中でも『龍』と『虎』は敵に回すな』

『早死にするのは嫌だろ、少年?』


 かつて『艶街いろまち』で受けた燎馬りょうまの忠告――そのを理解し、走る怖気おぞけが肌を粟立あわだたせた。

 なるほど命が惜しくばこんな怪物、相手取らない方が賢明だ。


 ――全力を出した琥轍に、先読みはもう通用しない。


 奴の膂力の増大は想定を大きく上回る。

 一度の踏み込みで地面に大穴を穿ち、拳が生み出す風圧だけで肉が削げるほど。明らかに常人の域を超えている。デタラメも良いところだ。

 かせを外され、おりから解き放たれた猛獣を相手取るようだ。否、外されたのは枷ではなくたがか。


 いくら次の手を読んだところで、見切れなければ意味がない。

 想定し得る全てに対応するための先読みは、想定外の力の前に狂わされ——休む暇も無い攻撃の数々に情報の更新もままならない。


 幻聴が聞こえる。

 圧倒的な力によって、構築した戦法が硝子細工がらすざいくのように砕けていく音が。

 錯覚さえ覚える。

 固い地面ではなく、細く不安定な一本の糸の上に立っているようだ。まさしく綱渡り。一度でも読みを外せば、奈落へと真っ逆様。


 立ち込めた暗雲が、世界の色調を更に仄暗ほのぐらく落とし始める。己の胸中でわだかまる不安を映したような光景は、思考にまで影を差し曇らせていく。


 一撃でも食らえば、甚大じんだいな傷を負うであろう攻撃。

 生半可な技では、動きを停めることすら難しい肉体。

 見切ることさえ難しい、埒外らちがいの攻撃速度。


 正直に言おう、打つ手はない。


 それでも蒼羅は、恐慌に支配されそうになる心を叱咤しったし、勝手に下がろうとする両足を踏ん張って押し止める。


 逃げてどうする? どこへ逃げる?

 退路など存在しない。背を向ければ、朱羽あけはもろとも殺されるのがオチだ。


 考えろ、奴の攻撃を回避する手立てを。

 考えろ、奴の行動を止める手段を。

 考えろ、奴をこの手で打ち倒す術を。


 血眼ちまなこになって琥轍の全身各所へ視線を飛ばす。なにか無いか、なんでも良い、奴を倒すための手掛かりを――

 やがて、彼の腕や足からことに気付き、蒼羅はその身に電流が走ったように目を見開く。

 ――見つけた。


 いくら化け物じみた膂力を振るおうとも、琥轍のは人間の範疇はんちゅうから逸脱しない。

 筋力をということは、それだけということだ。


 その証拠に、彼の身体は先ほどから血の涙を流し続けている——己の生み出す破壊的な力によって、のだ。いつまでも全力を出していられるわけがない。


 ——そして奴は今、痛覚が麻痺している。


 痛みとは、危機に対して身体が発する警告だ。

 それを無視し続けている。酷使した己の身体が既に危険な状況にあることに、彼は気付いてさえいない。

 現に琥轍の身体から止め処なく滴る血は、蟠る影のようにその足下を赤黒く染めていく。


 痛覚麻痺と、膂力の増大。

 それは確かに彼にとっての切り札でありながら、同時に諸刃もろはつるぎでもあるのだ。

 虎堂こどう琥轍こてつを打ち倒す唯一の術は、その欠点を突くことしかない。


 蒼羅は自身の両手——黒い義肢の左手と、白い肌の右手を一瞥し握り込む。

 右手に雷霆らいていが蛇のように絡み付いていき、やがて籠手こてめいた輪郭をかたどった。


 この義肢なら奴の攻撃にも耐えられる。

 雷撃を受ければ、痛みを感じなくとも生体反射でその動きは一瞬だけ硬直する。


 言うなればそれは盾と矛。雷を操る堕神おちがみの人間だからこそし得る攻勢防御。

 破壊的な威力をたった一瞬、ごくわずかでも削ぐことで凌ぎ、一秒でも長く“延命”する。

 そして限界ガタが来たその瞬間に、ありったけの雷を打ち込む。


 ――あの攻撃速度を見切れるのか?

 ――常軌を逸した膂力を受け止め切れるのか?

 ――もし失敗したらどうする?


 幻聴となって思考を邪魔してくる様々な不安要素を黙殺し、蒼羅はきわめて単純明快な二択へと結論を絞った。


 奴の身体が壊れるのが先か。

 俺の身体が壊されるのが先か。


 根比べは得意な方だ。やってやろうじゃないか。

 息を吐きながらゆっくりと構える蒼羅を見て、琥轍も己を誇示するように両手を広げ、口の端を吊り上げる。


「見つかったかァ? ……俺を倒すすべが」


・・・・・・


 『大江都万街おおえどよろずまち』中央区――『架梯城かけばしじょう』を中心に広がる大通りのひとつ。

 そこは多くの店が軒を連ねる、街で随一ずいいちの大市場。行き交う多くの人々へ、左右から様々な声が掛けられる。


 新鮮な魚を手にした魚屋の偉丈夫いじょうふが威勢良く客を呼び込めば、向かいの八百屋の老夫婦が『奥さん今ならまけとくよ』と瑞々みずみずしい野菜を片手に手招く。


 包丁やら鉄鍋を自慢げに見せびらかす金物屋かなものや茣蓙ござに貝殻や宝飾品やらを並べた露天商が、軒先の日陰からそれを胡乱うろんな目で見ていた。


 賑わう人々の中に、一つ結びの黒髪を背に垂らし、長身を小袖に包んだ女性がひとり。その姿を見た魚屋の店主が、物珍しそうな顔をしながら近付く。


「誰かと思えば、獅喰しばみあねさんじゃないですか。中央区このあたりに来るなんて珍しい、山籠やまごもりは仕舞いにしたんで?」

「やだもー、誰が仙人ですか誰がー」


 姐さんと呼ばれた女性――獅喰しばみ緋奈咤ひなたは、店主の大柄な身体を押し退けるように胸板をはたいた。

 苦笑しながら後ろによろめく――のではなく『うッ』と痛切な呻きを漏らしてうずくまる偉丈夫を他所よそに、緋奈咤は店先に並べられた魚へ視線を戻した。


 ご馳走ちそうを前にした幼子のように人懐っこそうな顔をゆるませて、頬の十字傷は赤みを増す。

 朱羽の負傷にかこつけた久しぶりの豪勢な食事に浮足立っている――わけではない。断じて。


 朱羽ちゃんあんな怪我だし、

 蒼羅も最近なんか元気ないし、

 ここはやっぱり精の付く食べ物を――


「すみません、ちょっとよろしいですか」


 緋奈咤が振り返った先には、軍服姿の男が数人。先頭に立つのは、海藻類のような髪を左右に垂らした、いやにさわやかな笑顔の優男やさおとこ


「……?」


 しばらく目をぱちくりさせた後、魚屋の店先へ向き直る。優男の視線の先に誰もいないことを確認した後、再び振り返って目を丸くした。


「……あ、私?」

「え、えぇ……少しお尋ねしたいことが。――この男、近くで見かけませんでしたか?」


 調子を狂わされたのか、浮かべた笑顔に冷や汗を垂らす優男。

 彼が懐から取り出し、ばさりと広げる紙切れ――そこに描かれていたの似顔絵に、緋奈咤は『まー!』と口元を押さえた。


「うちの義弟おとうとにそっくりー!!」


 歓声を上げながらずずいと近付き、紙が破けんばかりに両手でがっしと掴み、食い入るように見つめる緋奈咤。

 獲物をる肉食獣に匹敵する俊敏さに、優男やその取り巻きはぎょっとした様子で一歩引いた。


「えっえっすごい、ほんとにそっくり。誰が描いたのこれ、ねぇこれもらっていい?」


 鼻先まで近付けて見たり、

 腕を伸ばして離して見たり、

 頭上に掲げて陽光に透かして見たり――

 人相書きが優男の手から離れたのを良いことに、様々な角度から好き勝手に眺め続けていた緋奈咤は……あまりにわざとらしい咳払せきばらいが聞こえたことで我に返る。


「あの、彼とはどういう?」

義姉あねの獅喰緋奈咤と申します。……もしかして蒼羅のお友達? 君たちの軍服、『旗本衆はたもとしゅう』とはちょっと違うみたいだけど」

「僕、葦切よしきり統逸とういつと言います。彼とは訓練兵時代の同期なんです。実は少し前から音沙汰おとさたがなくて心配で……お姉さん、居場所についてなにか知ってませんか?」


 胸に手を当て、顔を曇らせる優男。その様がどこか芝居しばいかっていて胡散うさんくさいような気もしたが……まいっか、と緋奈咤は疑念をあっさり流した。


 ――蒼羅のお友達なら、悪い子じゃないでしょう。

 ――朱羽ちゃんだって見た目は冷たそうだけど、優しい娘だったし。


「あの子ならいま、うちで休んでるけど……」


 家までの道順を思い出そうと視線を外した緋奈咤は気付かない。

 目の前の優男――葦切統逸が、口の端を吊り上げていることに。

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