雷神と狂獣③
「悪かったなァ、今まで手加減しててよ……こっからは全力で行くぜ」
その言葉と共に
一拍遅れて激震。彼が立っていた地面に放射状の亀裂が走り、
――瞬間、背後に極大の殺気。
地面に飛び込むように跳躍。思考よりも早く、
獣の
回転運動の遠心力を利用して膝立ちになりながら、先ほどまで立っていた場所を睨み付け——
そこに琥轍の姿は無かった。
再び亀裂が刻まれた地面に、巻き立てられた土煙が
どこから来る? 焦燥に突き動かされるように視線を飛ばしていた蒼羅に影が差す。
「くははははははははははははッ!!」
哄笑が耳に届いた瞬間、弾かれるように後退。寸前まで居た空間を流星のごとく駆け抜ける狂獣。
拳に
腕を顔の前に掲げ、
琥轍の右腕が
勘に任せて左へ首を倒すと、颶風と化した拳が頬を擦過。肉が浅く削がれ、
反射的に後方へ跳躍。更なる踏み込みから繰り出される琥轍の拳に、蒼羅は宙で前蹴りを放った。
かち合う拳と軍靴の足裏。勢いに押され膝が
規格外の膂力によって強引に力の流れを崩し、宙にある相手の身体を地面へ叩き落とそうとする。
蒼羅はその瞬間、わざと撓めていた脚をバネのように思い切り伸ばした。
さっき放った蹴りは攻撃のためではない。
拳を足場にすることで、
狙い通り、吹き飛ばされるようにして後退。四足獣の姿勢で着地。勢いを殺し切れず、軍靴と
「……くッ、あ」
激突の
追撃をかけることなど容易なはずだが、琥轍はこちらを悠々と睥睨するのみ――余裕のつもりか。
「おいどうしたァ、逃げてばっかじゃつまらねェだろ。……立ち向かって来いよ」
掌を上にして手招きする琥轍。
その挑発には乗らず、蒼羅は敵を睨み付けたままゆっくりと立ち上がった。
『席次を決める基準は、殺した人間の量と質だ。当然、上位の奴らはずば抜けて強い。……中でも『龍』と『虎』は敵に回すな』
『早死にするのは嫌だろ、少年?』
かつて『
なるほど命が惜しくばこんな怪物、相手取らない方が賢明だ。
――全力を出した琥轍に、先読みはもう通用しない。
奴の膂力の増大は想定を大きく上回る。
一度の踏み込みで地面に大穴を穿ち、拳が生み出す風圧だけで肉が削げるほど。明らかに常人の域を超えている。デタラメも良いところだ。
いくら次の手を読んだところで、見切れなければ意味がない。
想定し得る全てに対応するための先読みは、想定外の力の前に狂わされ——休む暇も無い攻撃の数々に情報の更新もままならない。
幻聴が聞こえる。
圧倒的な力によって、構築した戦法が
錯覚さえ覚える。
固い地面ではなく、細く不安定な一本の糸の上に立っているようだ。まさしく綱渡り。一度でも読みを外せば、奈落へと真っ逆様。
立ち込めた暗雲が、世界の色調を更に
一撃でも食らえば、
生半可な技では、動きを停めることすら難しい肉体。
見切ることさえ難しい、
正直に言おう、打つ手はない。
それでも蒼羅は、恐慌に支配されそうになる心を
逃げてどうする? どこへ逃げる?
退路など存在しない。背を向ければ、
考えろ、奴の攻撃を回避する手立てを。
考えろ、奴の行動を止める手段を。
考えろ、奴をこの手で打ち倒す術を。
やがて、彼の腕や足から血が滴り落ちていることに気付き、蒼羅はその身に電流が走ったように目を見開く。
――見つけた。
いくら化け物じみた膂力を振るおうとも、琥轍の肉体そのものは人間の
筋力を限界以上に引き出すということは、それだけ肉体に負荷が掛かるということだ。
その証拠に、彼の身体は先ほどから血の涙を流し続けている——己の生み出す破壊的な力によって、自壊し始めているのだ。いつまでも全力を出していられるわけがない。
——そして奴は今、痛覚が麻痺している。
痛みとは、危機に対して身体が発する警告だ。
それを無視し続けている。酷使した己の身体が既に危険な状況にあることに、彼は気付いてさえいない。
現に琥轍の身体から止め処なく滴る血は、蟠る影のようにその足下を赤黒く染めていく。
痛覚麻痺と、膂力の増大。
それは確かに彼にとっての切り札でありながら、同時に
蒼羅は自身の両手——黒い義肢の左手と、白い肌の右手を一瞥し握り込む。
右手に
この義肢なら奴の攻撃にも耐えられる。
雷撃を受ければ、痛みを感じなくとも生体反射でその動きは一瞬だけ硬直する。
言うなればそれは盾と矛。雷を操る
破壊的な威力をたった一瞬、ごくわずかでも削ぐことで凌ぎ、一秒でも長く“延命”する。
そして
――あの攻撃速度を見切れるのか?
――常軌を逸した膂力を受け止め切れるのか?
――もし失敗したらどうする?
幻聴となって思考を邪魔してくる様々な不安要素を黙殺し、蒼羅は
奴の身体が壊れるのが先か。
俺の身体が壊されるのが先か。
根比べは得意な方だ。やってやろうじゃないか。
息を吐きながらゆっくりと構える蒼羅を見て、琥轍も己を誇示するように両手を広げ、口の端を吊り上げる。
「見つかったかァ? ……俺を倒す
・・・・・・
『
そこは多くの店が軒を連ねる、街で
新鮮な魚を手にした魚屋の
包丁やら鉄鍋を自慢げに見せびらかす
賑わう人々の中に、一つ結びの黒髪を背に垂らし、長身を小袖に包んだ女性がひとり。その姿を見た魚屋の店主が、物珍しそうな顔をしながら近付く。
「誰かと思えば、
「やだもー、誰が仙人ですか誰がー」
姐さんと呼ばれた女性――
苦笑しながら後ろによろめく――のではなく『うッ』と痛切な呻きを漏らしてうずくまる偉丈夫を
ご
朱羽の負傷にかこつけた久しぶりの豪勢な食事に浮足立っている――わけではない。断じて。
朱羽ちゃんあんな怪我だし、
蒼羅も最近なんか元気ないし、
ここはやっぱり精の付く食べ物を――
「すみません、ちょっとよろしいですか」
緋奈咤が振り返った先には、軍服姿の男が数人。先頭に立つのは、海藻類のような髪を左右に垂らした、いやに
「……?」
しばらく目をぱちくりさせた後、魚屋の店先へ向き直る。優男の視線の先に誰もいないことを確認した後、再び振り返って目を丸くした。
「……あ、私?」
「え、えぇ……少しお尋ねしたいことが。――この男、近くで見かけませんでしたか?」
調子を狂わされたのか、浮かべた笑顔に冷や汗を垂らす優男。
彼が懐から取り出し、ばさりと広げる紙切れ――そこに描かれていた不幸面の少年の似顔絵に、緋奈咤は『まー!』と口元を押さえた。
「うちの
歓声を上げながらずずいと近付き、紙が破けんばかりに両手でがっしと掴み、食い入るように見つめる緋奈咤。
獲物を
「えっえっすごい、ほんとにそっくり。誰が描いたのこれ、ねぇこれもらっていい?」
鼻先まで近付けて見たり、
腕を伸ばして離して見たり、
頭上に掲げて陽光に透かして見たり――
人相書きが優男の手から離れたのを良いことに、様々な角度から好き勝手に眺め続けていた緋奈咤は……あまりにわざとらしい
「あの、彼とはどういう?」
「
「僕、
胸に手を当て、顔を曇らせる優男。その様がどこか
――蒼羅のお友達なら、悪い子じゃないでしょう。
――朱羽ちゃんだって見た目は冷たそうだけど、優しい娘だったし。
「あの子ならいま、
家までの道順を思い出そうと視線を外した緋奈咤は気付かない。
目の前の優男――葦切統逸が、口の端を吊り上げていることに。
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