火事と喧嘩⑩
「—
腕に突き刺さったままの
なおも踏み付けられたままの那迦は、不服そうに答える。
「
「誰が太ってるって?」
朱羽は
くぐもった短い声を上げ、那迦は降参だと言わんばかりに首をぶんぶん横に振る。
朱羽が足に込めていた力をわずかに抜くと、那迦は一息ついて答えた。
「何を為していたか。……
―この女も、あたしの過去を知ってる。
自らの腕を戒めていた鎖鎌を乱暴に投げ捨て、朱羽は
「でも、今は助けるのが先。……私が、
「!」
しかし朱羽が内容を問うより早く、那迦はそれを拒絶した。
有無を言わせぬ口調と共に響いた風音に、朱羽は
細足の杭を抜かれ自由になった那迦は、
「ダメ。……燎馬は、私が、いないとッ!」
「ちょっと、待って……ッ」
逃げる那迦の姿を追い、朱羽も駆けていく。
火事の焼死体を包む
無様にもその場に膝を突き、両肩を大きく上下させて荒い呼吸を繰り返す。
「さすがに、連戦は
体力の限界に近いが、ここで倒れるわけにいかない。まだ『
変装は解いたから見つかることは無いと思うけれど、万一のこともある。意識を失うにしても、せめて
身体に
視界の奥で燃え盛る『
―素人のあたしが行ったところで、誰も救えずに焼け死ぬだけ。
無意識の内に、朱羽は
―あたしが燎馬に買われた後、彼女も別の男に買われて
―あの人、無事に逃げられたかな。
何の気なしに、ちらりと見やった簀巻きの山。
そこから、酷い火傷に塗れた手がはみ出ているのを見て、朱羽は言葉を失った。
その見覚えのある細くて綺麗な指を見て。
作り話の真っ赤な嘘を信じ切って、自分を心配してくれた彼女を思い出して。
「……嘘」
・・・・・・
「なんでも『
『疫病神』と呼ばれることはあれど、他人の運気を下げるような力が自分にあるとは、
蒼羅の視線の先で声にならない叫びを上げ、もがきながらふらつく燎馬。
その様はさながら死の
―こんな人間、
助けるために近づこうとして、心の中の暗く冷たい部分がそう
蒼羅は首を横に振り、一瞬でもその思考に同調しそうになった己を否定した。
―確かに、燎馬は救いようのない人殺しだ。
彼は過去に大勢の人間を焼き殺し、今もまた、多くの命を見殺しにしている。
己の身に
だがどんな悪人であれ、『目の前で人が死ぬ』ことを蒼羅は看過できなかった。
あの救いようのない人殺しと同類まで堕ちるなど、許容できるはずもない。
たったひとつだけ、燎馬を救うための策はある。
「俺はお前とは違う……だから助けてやる。お前には聞きたいことがあるんだ」
ずっと引っかかっていたのだ。
彼は何故、なにもかもを諦めているのだろう、と。
彼の言っていた『強運』―それが自身にとって最も良い結果を運んでくるならば、全てが都合良く、思い通りに行くはずだ。
己の強運に
だが燎馬は、全てを諦めている。初めからどこにも手を伸ばそうとしていない。
それは何故か?
―朱羽に刃物で
―口から火を吐いたり、足に火を付けたとき、運良く火傷を負わなかった。
―最上階の爆発に巻き込まれたとき、運良く服が燃える程度で済んだ。
燎馬の言葉や姿を思い返し、蒼羅は確信した。
この男の『強運』は、自分の身に危害を加えられたときしか発動しないのだ。
もし自分の攻撃にも『強運』が発動するなら、蒼羅は今頃、攻撃が偶然急所に当たって倒れていてもおかしくない。
だがこの男の攻撃で、蒼羅が致命傷を負うことはなかった。
もし『強運』により全てが都合良く進むなら、そもそも
だが裏賭場の存在は露見し、濡れ衣を着せて殺そうとした蒼羅は未だに生きている。おまけに自慢の大楼閣は、何者かが仕掛けたらしい爆弾により燃え落ちている始末だ。
燎馬の『強運』は、彼の命を護るためにしか働かない。他者や物に対しては作用しない。
そして恐らく、『強運』によって身に降りかかる幸運には―限度がある。
『強運』が彼の命を護るために働くなら、こんな非常事態は起きないはずだ。
全身に火焔を纏う燎馬の切り札はきっと、『強運』によって無効化できる不運の限度額を全て使い果たしてしまう代物なのだ。
命を
そこで運に見放された男を救う方法は、ただひとつ。
蒼羅は己の左腕―焼け焦げた着物の穴からのぞく、黒い表皮を見遣った。
普通ではないこの手なら、奴が纏う火焔にも触れられる。
危機と好機は紙一重。ツキは蒼羅へと回ってきた。
大きくよろめいた燎馬の身体は、意図せず先ほど自分で蹴り砕いた欄干の近くへ向かう。
その瞬間、蒼羅は燎馬へと一直線に駆けた。もちろん、激痛に
大きく隙を
このまま燎馬へ
火焔の鎧さえ
一塊の火の玉となって落下していく燎馬。その真上へ躍り出た蒼羅は、左腕を
—けれど所詮、危機と好機は紙一重。
『強運』を持つ福男と、
『悪運』の強い疫病神。
どちらに『幸運の女神が微笑む』のかは、明白だった。
燎馬はもがきながらも、空中で身体を
放たれた横薙ぎの蹴りが蒼羅の脇腹に食い込む—だけに留まらず、その威力は両者の身体をぐるりと
景色の天地が百八十度入れ替わる。上に燎馬、下に蒼羅。
そして蒼羅の眼前で火焰は—間髪入れずに爆裂した。
熱波に吹き飛ばされ、蒼羅の身体は炎に包まれながらあえなく墜落。爆発じみた派手な着水音とともに、
「ぶぁ、はッ……!!」
水面から上半身を起こし、蒼羅は水に濡れた犬のように首を振った。
空気を
―肺が少し焼けたか。
「残念だったなぁ少年。俺には『強運』がツイてるんだ、自分の炎で死ぬわけないだろうが。……まぁ、さっきはちょっと危なかったけどな」
弾かれるようにそちらを
燃え盛る火焔の逆光により、その姿は影一色で塗りつぶされている。
「しかし、さっきまで命を狙ってた奴を助けようとするなんて、お前も
「―燎馬……ッ」
新たに響いたのは、
立ち上がった蒼羅の視線の先—太鼓橋に別の人影。宝飾人形めいた少女が燎馬へと駆け寄ってくるのが見えた。
「燎馬、身体が」
「ん、心配するなって」
「
「
「……そっちじゃない」
「……ん?」
「診てもらうのは、頭の方。いつも言ってる。……
「しょうがないだろ……俺の切り札は、いつも着物が犠牲になるんだ」
今頃、あの新入り遊女のところにも『蛇』が行ってるだろう―
燎馬の言葉を思い出し、脳裏に朱羽の顔がちらつく。
アイツはどうした? あの人形のような少女がここに来たということは、まさか―
「分かった分かった、諦めるよ那迦。―おい少年、今回は痛み分けだ……見逃してやる」
蒼羅が思考に浮かんだ最悪の可能性をねじ伏せて平静を保とうとしていると、声が上がった。
呼びかけた燎馬は既に腰掛けるのを止め、こちらに背を向けて欄干に
「代わりにひとつ忠告しておこう。なにかを守りたいなら、それは自分の両の掌で掴めるものだけにしておけ。じゃなきゃお前は……なにも守れずに死んでいくことになる」
それだけ言い残して、歩き去ろうとする燎馬。
後を追うために動こうとした蒼羅の耳に、風音が飛び込んだ。
咄嗟に伏せた瞬間、頭上を
回避する間もなく、蛇の息吹めいた音を立てながら腕に
「が……ッ」
全身を震わす衝撃に受け身も取れぬまま、蒼羅は川面へうつ伏せに衝突する。
痛みを堪えて立ち上がり、ようやっと太鼓橋まで戻った頃には—燎馬と少女の姿は、影も形も消え失せていた。
「……クソッ!!」
怒り、
様々な感情の撃鉄に打たれて振り上げた拳はしかし、橋の欄干へ叩き付ける以外に行き場所などなかった。
・・・・・・
無惨にも焼け落ちた『綺艶城』—その剥き出しの骨組みには、未だに炎がしがみついていた。
まるで、仕留めた獲物を骨までしゃぶり尽くそうとする、
「―しぶといのね、まだ生きてたの?」
聞き覚えのある声。
蒼羅が振り向いた先には、
身に纏う
それでも精一杯の強がりのように、皮肉げな顔をしてみせる朱羽。
細い首に残っている
「今にも死にそうな奴がよく言うよ。……悪かったな、簡単に死ななくて」
「……そうね、すごく残念」
「なんか言ったか?」
「すごくすーっごく嬉しい、って言ったの」
ぼそっと付け足された嫌味に
しかし次の瞬間には、文句と不満がその端正な顔を歪めさせた。
「……あんた『綺艶城』でなにしてたの? こっちはあの根暗な蛇女に襲われ―」
反射的に走り出そうとした蒼羅はしかし、朱羽によって肩を
「離せよ」
振り返った蒼羅は朱羽を睨み付ける。
その
「もう間に合わない」
「そんなの行ってみなくちゃ―」
轟音が、蒼羅の声を
枯れ木がまとめて
その様を
「……どうして止めた」
「行ったら、あんたも下敷きになって死んでたよ。それに、ひとりで救える数じゃない……焼死体がひとつ増えて終わりでしょ」
返す朱羽の言葉は、どこまでも乾き切っていた。
事実を淡々と突きつけられ、蒼羅は拳を握り締める。それを
「誰も彼もを救える力なんてない。あんたにも、あたしにも……他の誰にも」
奥歯を割れんばかりに噛み締め、蒼羅は
―分かっている。そんなことは理屈として理解している。
ただ納得できなかった。
手を伸ばせば、救えたかもしれない。
己の命を捨てれば、活かせたかもしない。
それらの可能性に目を
「あんたが犬死にする必要はなかった、って言ってんの。……これでも慰めてるつもりなんだけど、不満?」
ぶっきらぼうな口調に反して、その裏に込められた思いはひどく優しい。
答えない蒼羅に眉根を寄せて頭をかきながら、朱羽は苛立ちの混ざった吐息をひとつ。
と、蒼羅は乱暴に両肩を掴まれ、無理やりに朱羽の方を向かせられた。
「―ねぇ、あんたは誰かを助けたいの?」
対面した彼女の左目には、確かに熱が灯っていた。
それは遠くで燃え盛り、半面を照らす炎が映り込んだだけなのか、それとも。
「―それとも、カッコつけて死にたいだけなの?」
光差さぬ青白い半面。冷たく睨み付ける右目には、
光と影の色彩を乗せた
その問いに蒼羅は言葉を詰まらせ、やがて目を逸らした。
朱羽が発したその言葉に。提示された可能性の後者に。
自分でさえ意識していなかった、自分の願いに。
心の弱く
「助けたいと思うのも、死にたいと思うのも勝手だけど……あんたの英雄ごっこにあたしまで巻き込まないでよ。迷惑だから」
長い
その背を
楼閣は既に焼き尽くされ、跡形も無く崩れ落ちていた。
残る
「俺、は……」
視界の奥で燃え盛る炎を
・・・・・・
青白い月光が夜の
薄暗い路地裏から、鈍い破砕音が響いた。
崩れた
彼の周囲では、取り巻きと見られる複数の
「―ったく。ここらで一番強ェやつだって言うから、売られた
傾奇者たちはびくついた様子でその声の方向を見やった。
彼らの視線の先、頬に二条の傷を付けた男は、
「
傷の男が
ごきりごぎり、と威圧的に骨が鳴った。
「……で、次はどいつだ?」
ぎらついた刃のような瞳が、次の獲物を
傾奇者たちは揃って頭から爪先までをぶるりと
彼らが巻き立てた土埃が晴れた頃には—
傷の男だけを残して、人っ子ひとりいなくなっていた。
男は落胆の息を吐いた後、路地裏のある一点に鋭い視線と声を飛ばした。
「隠れてねェで出て来いよ」
「―分かっていたか」
月明かりの届かぬ暗闇の中から、闇よりなお黒い
男か女かも分からない明らかに不審な人影に、傷の男は思わず眉を
そんな反応など意に介する様子もなく、黒衣の人影は
「依頼だ。元『天照』第二席―『虎』の
「……へぇ」
傷の男—虎堂琥轍は人相書きをひったくると、思案するように顎を
やがてその笑みは
値踏みするような視線の先。
人相書きに描かれているのは―白髪の少女。
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