七章 凹凸と凹凹

凹凸と凹凹①

『お前が為すべきことは三つだ』


『誰よりも速く敵陣へ斬りこみ』

『誰よりも強く翼を羽撃はばたかせ』

『誰よりも多く御首みしるしげろ』


『負けてはならない』

退いてはならない』

『勝ち進み、斬り進み、血路みちひらけ』


八咫烏ヤタガラス―我らを勝利へ導く、吉鳥なり』


・・・・・・


 目が覚めた。

 なにか夢を見ていたような気がするが、その内容はぼんやりと薄暈うすぼけて思い出せない。


 のそりと布団から上体を起こした少女―九条朱羽くじょうあけはは、小窓から差し込む陽光にかれた猫目を鬱陶うっとうしそうに細めると、己の身体を見下ろして溜め息をついた。


「まただ……」


 最近どうも寝相が悪い。悪すぎる。

 昨日は枕に頭を乗せて寝たはずなのに……今は


 朱羽あけはは小さく欠伸あくびしながら立ち上がると、姿見に背を向けた。


 しゅるり―衣擦きぬずれの音と共に、着物が肩からずり落ちる。

 頭頂から肩甲骨の辺りまで流れ落ちる、なめらかな白髪の水簾すいれんを手で束ね……はだけた背中が鏡の中に映し出された。


 細いうなじから、つややかな輪郭りんかくを描く白磁の背。

 右肩の肩甲骨から左の脇腹辺りに、翼を広げたが描かれている。



 ―いくつもの、朱色のによって。



 まるでそこを画布がふ代わりにしたような無粋ぶすいさで居座る、三つの脚に抜き身の刀を提げた烏。

 鏡の中のそれを睨み返して、朱羽はうれうように長い睫毛まつげを伏せた。


 八咫烏ヤタガラス―この国において、勝利を運ぶとされる神獣。

 それがなぜ自分の背中に―それも悪趣味なことに無数の刀傷で―描かれているのか。

 消せないあととなって残るほどの傷を付けられたのなら、嫌でも忘れないはず。

 だが朱羽の身には


 『天照あまてらす』の構成員は、身体に席次を示す紋様を彫られる—


 脳裏に蘇るのは、幕府の暗殺部隊『天照』の元機関員―虎堂琥轍こどうこてつの言葉。

 信じがたい話だが、この背中の傷が確固たる証拠でもある。


 九条朱羽の過去の記憶は、所々が抜け落ちている。

 中でも『天照』に所属していた頃の記憶はほとんど無い。

 まるで、そこだけ誰かにのように。


 覚えていることといえば、物心ついた頃の家族の記憶と、九年前に『天照』に入隊したときのことをぼんやりと。


 そして五年前、我に返るようにして目覚めたことだけだ。


 目覚めた頃には既に『天照』の解体から一年が経ち、その間は昏睡状態であったらしい。

 それを聞いたときはあまりに唐突で、実感が湧かず、御伽噺おとぎばなしの中にでも迷い込んだような心持ちになったものだ。


 失った記憶の深淵しんえんのぞこうとするたび、それをこばむように頭が痛み、不安と恐怖を駆り立てる。

 今までは頭の片隅に放置することで、その不安を誤魔化ごまかしてきた。

 だが元『天照』の刺客たちとの邂逅かいこうによって、朱羽は否応なしに過去の己と向き合わざるを得なくなった。


『変わったのね、八咫烏ヤタガラス

『覚えてない? 八咫烏ヤタガラス

『楽しませてくれよ、八咫烏ヤタガラス


 ―みな、あたしのことをそう呼ぶ。

 ―あたしは、過去に一体なにを?


 朱羽は震えを抑え込むように己の身体をかき抱く。

 不明瞭な過去への不安に押しつぶされそうになる彼女を嘲笑あざわらうかのように、脳裏に蘇るのは神峯毘沙かみねひさの言葉。


「貴女は、あんなにも多くの人を―


 幻聴を打ち消すように耳を塞ごうとして、朱羽は部屋に近付いてくる足音に気付く。

 急いで着物を羽織り直して前を閉めると、まるで見計らったかのようにふすまがそっと開けられた。


 部屋に入ってきたのは、直視するのもはばかられる

 下瞼したまぶたに分厚いクマをこしらえた三白眼に見つめられ、朱羽の表情筋が思わず引きつる。


「なんだ、起きてたのか」


 朱羽の姿を見咎みとがめて、少し驚いたような声を上げる少年―獅喰蒼羅しばみそら

 朝の鍛錬でもしていたのだろう、その表情は一汗かいた後の晴れやかなものだった。数週間前に受けた傷が塞がったばかりだというのに、随分ずいぶんと熱心なものだ。


 ―また変な無茶をして、傷が開かないといいけど。


 そですそから覗く左腕や両足は、黒鋼くろがねの表皮が露わになっている。

 過去に手足をうしなった彼のためにこしらえられただ。もうバレてしまった手前、いまさら隠す気もないのだろう。

 着物の前はわずかにはだけ、そこからは締まった腹筋が覗く。

 思わず、朱羽はそれをまじまじと見つめていた。


 蒼羅そらの裸は、傷の手当の際に否応なく一度目にしているが……あのときは治療に必死でゆっくり眺める暇などなかった。


 改めて意識して見てみると、よく鍛え上げられた身体だ。同年代の男子でもここまで鍛錬している者はそういないだろう。

 冴えない顔からは想像もつかない立派な肉体。朱羽はちょっとした驚きを覚え、少しばかり見惚れていた。


「どうしたんだよ、俺の方じっと見て」


 目をぱちくりさせる蒼羅の言葉で我に返る。じっくりと眺めていたのが急に恥ずかしくなって、朱羽はそっぽを向きながら言葉を返す。


「……首から下はまともよねぇ、あんた」

「朝の挨拶がか、良い趣味してんな。お前も外面そとづらだけは随分な上物だよ」


 鼻で笑う蒼羅にそう返されてやっと、朱羽は己の失言に気付き歯噛みした。

 蒼羅に対して、だなんて……皮肉だとしても悪趣味だ。

 —こういう減らず口しか叩けない自分が、たまに嫌になる。


「……ごめん」

「気にすんな。慣れてる」


 自己嫌悪に陥る朱羽の心中を察したのだろう、蒼羅はなだめるような声を上げる。

 それになんと返したら良いか分からず、朱羽は話題を切り替えてお茶をにごすことにした。


「……ていうか、着替えようとしてたんだけど?」


 着物のえりを掴んだままだったのを良いことに、わずかに前を開けてわざと肌を見せる。

 蒼羅の視線は一瞬だけ細い鎖骨に釘付けになった後、布に包まれた身体の輪郭を流れていき、足下に落ちている着物の帯に落ちた。


「あーっ……悪い」


 宙へ投げた視線を右往左往させながら、しどろもどろに答える蒼羅。朱羽はからかうように鼻で笑った。


「あたしの裸なんて見たら、あんた鼻から血を噴いて死ぬだろうから。さっさと部屋から出た方が身のためよ」

「はっ、よく言うよ」

「前に言ったでしょ? 着痩せする方だって」

「いや、脱いでも人並みじゃねぇか、お前」


 小馬鹿にするような蒼羅の言葉に、朱羽の周りの気温が下がった。


「………………?」

「………………いや」


 うたぐるような半眼を作って距離を詰めていく朱羽に、ばつの悪そうに目をそらす蒼羅。


「………………ねぇ、見たの?」

「………………………………」


 鼻先まで近付き、冷たい声色で問い詰める朱羽。蒼羅はそっぽを向き冷や汗を垂らし始める。


「し、心配するような場所までは見てねぇって」

「っ!! 見たんじゃん……っ!!」


 朱羽は上擦うわずった声で小さく叫んだ。顔が熱くなるのが分かる。

 いま鏡を振り返れば、だこのように真っ赤になった自分の顔が映ることだろう。

 失言に気付いた蒼羅は息を詰まらせ、しばし目を泳がせた後、


「しょうがないだろ、姉ちゃんにだまされたんだ」


 表情を一転。きりっとした、いっそ清々すがすがしい表情で朱羽へ向き直った。


「俺だって被害者だよ。情状酌量じょうじょうしゃくりょうの余地くらいは―」

極刑きょっけい

「待って」


 朱羽の無慈悲で冷たい宣告に、開き直ろうとしていた蒼羅はあわてて諸手もろてを上げる。


「あーもー、いいから出てって……っ!!」


 蒼羅の肩を掴んで無理矢理に後ろを向かせ、その背を突き飛ばすと、朱羽は彼を拒むようにぴしゃりと襖を閉めた。


・・・・・・


「なにやってんだ、あれ?」

「知らない」


 黒を基調とした軍服姿の少年―蒼羅と、白い着物に短い赤袴あかばかまの少女―朱羽は、通りに出来た人混みに立ち往生させられていた。


 獅喰しばみ家をち、数週間ぶりに二人の身体を包む街の喧騒けんそうは、なにやら刺々とげとげしい。

 乱闘騒ぎでも起きたのかと思っていたが、よく見れば何人かの警官が野次馬を押しとどめているのが見える。

 警察機関まで出張でばるとは只事ただごとではないだろう。妙な胸騒ぎを感じ、朱羽の方を振り返る。


「ちょっと話聞いてくる。とりあえずお前はここにいろ」

「—ん、分かった」


 意外にも朱羽は素直にうなずき、ふらりと歩き出してすぐそばの長家の壁に背を預けた。

 特に不満はなかったのか、それとも元から興味や関わる気がないのか。

 なにかしら反発されるものだと思っていた蒼羅は、珍しいものを見たような気分になり、ほうけたように朱羽を見ていた。


 すると朱羽は猫目を鬱陶しそうに細め、『さっさと行きなさいよ』とでも言いたげに顎をしゃくって人混みを示す。

 さもこちらが悪いかのように睨みをかせる朱羽のそばを、蒼羅はなにか釈然しゃくぜんとしない心持ちで離れた。

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