凹凸と凹凹⑥
「—おらァ!!」
疾走の勢いを乗せて突き出される長棍。
狒々愧は長棍の動きを
引き戻した長棍の石突で地面を打つ狒々愧へ、
「うけけ、
宙から言葉が降り注ぎ、蒼羅の顔に影が差す。
見開いたその目に映るのは、地面と垂直に立てた長棍の上で倒立姿勢を取る狒々愧の姿。
不安定な一本の棒の上にて、片腕で全身を支える—
凄まじい平衡感覚による妙技を為しながら、空いている片手で目の下を引っ張り、こちらを小馬鹿にする余裕さえ見せる。
蒼羅が伸ばした掌底は届かず、反して振り子のごとき勢いで円弧を描いた狒々愧の踵落としが背中を打つ。
前へたたらを踏んだ蒼羅が振り返ると同時、風音が右耳を突いた。
反射的に側頭を
間髪入れず突きが迫る。
回避の勢いを転化させての浴びせ蹴りはしかし、棒高跳びの要領で飛び上がった狒々愧の身体を捉えられずに空を切った。
「オラオラオラオラ!!」
後ろへ回り込んだ狒々愧は長棍の
振り返りざま、蒼羅は臆せずに左の
暴風は手の甲に激突。すぐさま手首を返して長棍を掴み、引き寄せながら拳を振るう。
よろめいた狒々愧の
蒼羅は拳を、狒々愧は長棍を。
それぞれに握り止められ、両者の動きが
「なぁ後輩。……その左手と両足、
「……どうして分かった?」
不意に、確信に満ちた表情で問う狒々愧。
眉を
戦う中でこの手足を不審に思う奴もいたが、その正体を一発で—それも数合の打ち合いの間に—看破されたのは初めてだ。
—どうやって見抜いた?
「……筋音が全然聞こえないんだよ」
蒼羅が心中に浮かんだ疑問を口に出すより早く、狒々愧はそれに答えた。
「知ってるか後輩? 実は人間の筋肉って、動くときに音が出るんだ。……俺は耳が良い。腕や足の筋音を聴けば、どこを狙って攻撃してくるのかなんとなーく分かる」
蒼羅の拳を握り止めている左の人差し指を立て、自分の耳を指しながら得意げに笑っていた狒々愧は、その指先を蒼羅の腕や足へ向ける。
「けど、お前の左腕と両足は筋音じゃなくて、
言われ、蒼羅は
内部のカラクリが動く音だと?
戦闘中に—それこそ日常生活の中でも—この義肢は軋みひとつすら上げたことはない。
もしも義肢を動かすたび、常人には聞き取れない微弱な動作音を発しているのだとしたら。
—狒々愧は、それを聴き分けられるというのか。
「そういうこった。どーだ、俺すげーだろ!!」
心中での独白。唇ひとつ動かさず、吐息ひとつ漏らさなかったはずだが……それに対してまるで聴き取ったかのように答える彼を見て確信する。
人の身には過ぎた異常聴覚—それが奴の最大の武器。
だが、と蒼羅は小さく笑んだ。
この身体なら奴に対抗できる。義肢の動作音など、すぐに判別は付くまい。
・・・・・・
「朱羽、
「……そう? めっちゃ良い匂いするけど」
いかにも不愉快といった様子で顔を
「甘ったるい匂い、頭痛がしてくる……やっぱり貴女は嫌い」
「……腐ってんじゃないの? その鼻」
昨日、寝る前に身体に擦り込んだ椿油のことを言っているのだろう。
朱羽にとってはお
ざまあみろ、とほくそ笑みそうになるのを必死で我慢する中で、脳裏には『
—依智は鼻が利く。
『天照』第四席『犬』の
特筆すべきはその鼻。席次に冠された銘の通り—犬並みの異常嗅覚だ。
相手が発する汗の匂いなどから心理状態を読み解き、ときには次の行動さえ看破してみせる。
敵に回すと厄介極まりない能力だが……幸い今その機能を十全には発揮できない。
運動するということは、どうしても呼吸による酸素の摂取が必要になる。鼻から空気を吸えば、否応なくこの甘ったるい匂いを嗅がざるを得ない。
加えて、依智は普段からその過敏な嗅覚を抑えるため、鼻先から口元までを黒布で覆っている。口呼吸などすれば、ただ息苦しいだけ。
どこまでも好都合だ—依智の鼻から潰すか。
敵の弱点に狙いを定めたと同時、依智の足下で巻き上がる砂塵。それを視認した頃には、既に猟犬の姿は消えている。
「!」
反射的に首を横に倒すと、鋭い擦過音とともに
―速い。
歯噛みしながら、第二撃が来る前に後方へ跳んで離脱。依智はその場に立ち尽くしたまま、十字を描くように両手の刀を交差させた。
声も無く、音も無く、再び砂塵だけが巻き上がる。
ざり、と地を踏む音が遅れて聴こえた瞬間、朱羽は横へ跳ねていた。突風を
「くッ!!」
着地した朱羽は歯を食いしばり、撓めていた膝に力を込める。既に依智の姿は無く、蹴立てられた
上下左右斜め—どこから一閃が飛んでくる?
即座に反応できるように全身の感覚を張り詰めながら、油断無く構えていると。
間合いの一歩前で再び砂塵が巻き上がり、
「……ッ!?」
読みを違えたことを悟り、肌にぞくりと悪寒が走る。今度は前方からじゃなくて―
突如として背を刺す殺気。朱羽は飛び退くようにして立ち上がりつつ背後へ振り向く。
「遅い」
見えたのは銀光、
——飛び散ったのは金属音。
間一髪。身体の前に滑り込ませた小太刀が、依智の二刀と噛み合っていた。
表情を歪ませる朱羽に、依智の
「いくら甘ったるい香の臭さで隠したって無駄......貴女自身の匂いくらい、私はちゃんと嗅ぎ分けられる」
「いや、だから臭くないって。絶対、良い匂いだから」
文句とともに刀を弾いた直後、翻って挟み込むように振られる大小二刀。
対し、朱羽は下駄で地面を抉るように蹴りつけた。
巻き上げられ、煙幕となって視界を覆う黄土の向こう。目を閉じた依智は眉間の
しかし依智は鼻が利く。
視界を潰されたところで、匂いを辿ってすぐこちらの間合いに入ってくる。時間を稼げたところでせいぜい二、三秒。
―それだけあれば充分。
朱羽は
「……ほら、もっかい嗅いで確かめてみてよ? —遠慮しないで、さ」
「ん……ッ」
距離を詰めようとした朱羽に影が差す。
飛んで来たその人影が描く放物線は、このまま行けば真上から衝突する軌道。撓めていた膝のバネは、飛び退くために使う他なかった。
着地と同時に、地面に大の字で叩き付けられた人物を見て—朱羽はがっくりと肩を落とす。
「……なにしてんの?」
「日向ぼっこだよ。暖かいからな、今日」
朱羽の冷めた視線の先。
間抜けに吹っ飛んできた蒼羅は、全身の痛みを
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