雷神と狂獣④

 吹き飛ばされた蒼羅そらの身体が、大木の幹に叩き付けられる。

 生体反射で閉じていた目蓋まぶたをこじ開ける。見えたのは、揺れるこずえから降り注ぐ落葉と、


 それらを撥ね散らしながら迫る琥轍こてつの姿。


「ッ!!」


 倒れ込むように避けた蒼羅。その肩をかすめて打ち込まれる拳。

 着弾の衝撃で幹を大きくたわませる――だけに留まらず、容易たやすみせた。


 立ち上がるもふらつき、別の大木に背を預ける。間髪入れずに襲い来る追撃の回し蹴り。

 蒼羅は咄嗟とっさ下肢かしの力を抜き、へたり込むようにして屈んだ。頭上の空間を両断する琥轍の脚が、まるで唐竹を割るかのように軽々と大木を叩き折る。

 一瞬でも判断をたがえば、折られていたのは木ではなく自身の背骨。散っていたのは葉ではなく己の血肉。


 倒木の轟音。激震。揺れる腐葉土ふようどを転がって立ち上がる。見渡す景色は一変していた。

 地面は巨大な獣が爪を立てたかのようにあちこちがえぐれ、木々は嵐が過ぎ去ったかのように薙ぎ倒されている。

 それらの光景を生み出したのは自然の脅威ではなく、眼前で愉悦を浮かべわらう男ただひとり。


 人身を超越した暴虐でもって、全てを蹂躙じゅうりんせしめる怪物——その威容に改めて畏怖いふを覚える。


 だが、琥轍の身体も限界は近い。

 拳の皮はめくれ、削られた肉から湧き出た血で赤黒く染まっている。

 悠然と歩を進めるその度に、その身からおびただしい量の血が滴り落ちる。表情に浮かぶのは余裕だが、顔色は失血死する寸前の蒼白。

 予備動作を見てからかわせるほどに、攻撃速度は目に見えて落ちてきている。


 既に限界など通り越している。

 一瞬でも気を抜けば意識を持っていかれる。

 それでも身体を動かし続けられるのは、針の穴ほどの小さな突破口が見えているからだ。

 勝機は必ず来る、光明は必ず差す、窮地は必ず打破できる——そう自分に言い聞かせる。震える膝を、慄く身体を、折れそうになる心を、わずかな気力と最後の意地で黙らせる。


 歩み来た琥轍との間合いが接触。獣の鉤爪かぎづめじみた掌底を半身になり躱し、振るう左腕。

 受け止める琥轍の掌に伝播でんぱする衝撃——その瞬間。

 肉が千切り裂かれるような音が響き、隆々りゅうりゅうとした腕は破裂するように血をブチける。

 それを皮切りに、水風船の破裂するような音とともに全身各所から濃血が噴き出した――ついに限界を迎えたのだ。


 仁王立ちのまま眼を見開き、唖然あぜん呆然ぼうぜんと己の身体を見下ろす琥轍。握り止めていた五指の拘束こうそくが緩む。


「おおおおおッ!!」


 しぼり出す気勢、振り絞る膂力りょりょく

 土手っ腹に突き入れる右の貫手ぬきて、会心の一撃。

 さらに踏み込む一歩、強く握り込む拳、零距離ゼロきょりで打ち込まれる寸勁すんけい。爆ぜる雷電とともに打ち込まれるのは渾身こんしんの電流。


 新たに刻まれた全身の裂傷に、蒼雷の蛇がう。かれた傷口は瞬く間に黒く染め上げられ、肉の焦げる嫌な臭いが鼻腔びくうを突き刺した。


「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■——ッ!!」


 如何いかに痛覚を遮断しようとも、全身を揺さぶる高圧電流の衝撃からは逃れられない。琥轍は最早もはや意味をなさない音の羅列を吐き出しながら、身体を痙攣けいれんさせてった。

 寸勁の衝撃に、両足が地から離れて吹き飛ぶ――


?」


 ――ことは無く、琥轍は後ろ足を引いて踏み留まった。仰け反っていた身体を戻し、おどけたように笑ってみせるその姿に思わず総毛そうげつ。


「……なんッ、で、だよ。お前も限界の、はず」


 我知らず、震える声が口から漏れる。

 琥轍は高熱で白濁した目を得心行ったように細め、上向きに引きらせた口の端から沸騰した黒血を垂れ流していた。

 常人であれば――否、常人でなくとも――命に関わる重傷を追いながら、表情に悠然とした余裕を湛えたまま。肌の一部が火傷やけどすら、気にしている様子も無い。


「ぐばァはッ……んなもん、俺にとっちゃあから捨て置いたんだよ」 


 その言葉の直後、蒼羅は目をいた。己の双眸そうぼうが映し出す超常の光景に、目を疑った。


 炭化した皮膚がぱらぱらとこそげ落ちていき、

 欠けていた肉が泡立あぶくだつように盛り上がり、

 血管組織が根を張り巡らせ、やがて皮に覆われていく。


 雷電の高熱で白濁した眼球。

 破裂した筋組織の隙間から、砕けた骨がのぞく無惨な状態の腕。

 修復不可能に見えたそれらの損傷も、わずか数秒で再生していく。

 生理的嫌悪をもよおす異音が止んだ頃には、目も当てられないほどのひどい火傷は――


「だから言ったろ、ってよォ。俺を殺すつもりで戦っていれば……こうなる前に倒せたかもな」


 のだ。

 まるで時間を巻き戻したように。あるいは、自然治癒の様子を極限まで早回ししたように。

 筋力の制限解除による肉体の自損でさえも、即時に再生されていく。だからこそあの埒外らちがいの膂力を振るい続けられる。

 いうなれば、破壊と暴力の永久機関。


 興奮物質の異常分泌で痛覚を吹き飛ばしても、筋力制限を解除し規格外の膂力を手に入れても、

 愕然がくぜんと青ざめる蒼羅の前で得意げに笑った琥轍は、土手っ腹に火傷のあとを誇らしげに、そしてどこか愛おしそうにでる。


「俺にを出させた奴は久しぶりだ……この傷は記念に残しておいてやるよ、堕神おちがみ


 身体中に未だ残る赫々あかあかと染まった古傷たちは、驚異的な治癒能力でもっても治らない深手ではない。

 彼自身が己の身に刻んだ勲章くんしょう虎堂こどう琥轍こてつの生涯で相見あいまみえた、強敵との死合しあいの歴史。

 血沸ちわにくおどる戦にえた、不死身の狂獣けだもの――それこそが、虎堂琥轍の本当の姿。


「……有り得ない」

「くはッ、野暮が。から『異能』なんだろうが」


 ようやく絞り出した震え声を、琥轍は鼻で笑ってみせる。その言葉に、反論など微塵みじんも浮かびはしなかった。

 蒼羅はただ首を横に振っていた。

 膝を震わせ、歯の根を鳴らして、おびすくむ子供のように、目の前の光景を必死に拒絶しようとしていた。


 どうすればいい? 打つ手がない。次の手なんてまるで思いつかない。

 思考が乱れる。先ほどまで組み立てていた戦法など、既に白紙に戻っていた。


 ――無茶苦茶だ。こんなバケモノに、勝てるわけがない。

 人を超えた怪物に徒手空拳としゅくうけんで挑むことの、なんと無謀なことか。

 どうして戦えると思った?

 どうして渡り合えると思った?

 どうして勝ちの目があると思った?


 人の身では、この怪物を決して倒せはしない。

 言葉ではなく、理屈ではなく、生物としての本能でそれを理解し……そして


 すると、思考は自然と逃避の選択肢を模索し始める。

 いかに逃げるか、いかにこの場を生き延びるか。肉食獣ににらまれた草食動物のように、ただ逃げることだけを最優先に戦術を組み立て始める。


 ゆっくりと足が下がっていく。

 それを踏ん張って留める気力さえ、今の蒼羅には無かった。


「あーァ、か。お前なら楽しめると思ってたが……見込み違いだったみてェだ」


 興をがれた様子の琥轍は、失望をありありとにじませた大きな嘆息たんそくひとつ。

 握り込んだ右手をゆっくりと引き絞る。規格外の膂力が充填じゅうてんされ、注連縄しめなわのような筋肉がさらに隆起していく。


 蒼羅にはその光景が、一門の巨大なを目の前にしているように見えた。


手向たむけだ、受け取れ……たのしかったぜ」



 ――死。



 実に単純で、明快なが頭をよぎる。

 それに対して、なにか行動を起こす余裕も無かった。

 琥轍の右腕がかすんだ瞬間、


 意識も、

 思考も、

 感覚も、


 全てを衝撃が吹き飛ばした。


・・・・・・


 野次馬のように集っていた黒雲たちがぽつりぽつりと涙を流し始めたかと思うと、瞬く間に遠雷がとどろくほどの豪雨となる。


 虎堂琥轍は荒れていた呼吸を静めながら、己の足下に刻み込まれた放射状の亀裂と、その中心で仰向けに倒れ気絶している少年――獅喰しばみ蒼羅そらを、無感動に眺めていた。


 眠るように目を閉じる彼の胸元は、吐き出された血で赤く染まっている。口の端からは未だに、濃血が細い糸のように漏れ出ていた。

 琥轍は彼に最後の一撃を叩き込んだ瞬間を回顧かいこする。


 殴り飛ばすよりも確実に叩き潰す。

 そのために着弾とともにもう一歩踏み込み、拳の向かう先を蒼羅の身体ごと真下へ方向転換させて地面に叩き付けた。


 その直前。死の恐怖に怯えながらも、蒼羅は咄嗟に姿を取っていた。胸の上で十字に組んだ腕は、その名残なごりだ。

 頑丈な義肢で受けることで衝撃を少しでも減らそうとしたのか。

 あるいは、単に命の危険に対する反射的な行動だったのか。


 今となっては真意を語る者は居ないが……それが先から琥轍の思考に引っかかる。


 ――本当に、これで終わりか?

 ――なのか? 堕神の力は。


 目を伏せた琥轍は心残りを振り払うように首を振り、きびすを返していく。

 勝負は決した。余興は終わったのだ。次は面白くもないだ。


「さてと、『八咫烏ヤタガラス』を殺しに行くか。……瀕死の重傷なら、俺が楽にしてやるよ」


・・・・・・


 目に映る景色は薄ぼけて霞む。

 口の中には鉄錆てつさびの味が広がる。

 締め付けられるように頭が痛む。


 全身各所から響く激痛。身体が痛むというより、痛みが身体をかたどっているように感じられる。

 意識は蜘蛛くもの糸のように細く、今にもぷつりと切れそうな不安定な均衡きんこうの下に保たれていた。


 辛うじて生きている――

 それが幸か不幸か、今の蒼羅には判ずるだけの余裕は無かった。


 白く霞がかった思考の中で、感じていたのは安堵あんどだった。

 視界の最奥にぼんやりと映る狂獣は、こちらに背を向けた……戦いは終わったのだ。更なる酷薄こくはくな痛みに耐える必要は無くなった。

 全身に張りつめていた力が抜け、思考は段々と闇色の泥沼どろぬまに浸かっていく。意識の糸は微細に震え始め、今にも千切れて――



 気付けば蒼羅は、明々あかあかとした夕焼けの中に立っていた。

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