謎と罠④
広間を見渡した
壁や床は新築も同然。
棚や机といった調度品も、使われた形跡が全く無い。
もしかしたら、本当に出来たばかりの旅籠で、それこそ蒼羅と朱羽は初めてのお客なのかもしれない。
物珍しさからぐるりと眺めていると、とたとたと階段を降りる足音が聞こえた。
さっきの鈴の音が、来客を示す合図なのだろう。
「いらっしゃいませ。ようこそお越し下さいました」
落ち着いた調子のよく通る声とともに、やがてひとりの少女が二人を出迎えた。
茶髪を後ろで三つ編みにした少女は頭を軽く下げ、にっこり
一見するとキツい切れ長の瞳も、笑うと目尻が垂れて人の良さそうな表情に変わる。長身を包む白い割烹着が良く似合っていた。
受付で手続きを進める間、蒼羅は少女から視線を外し、部屋の最奥にひとり
顔と言ったが、その表情までは
まるで雄牛と
常人には振るえないほど巨大な槍斧―
二尺を超えるその身は、袈裟の上からでも分かるほどの、鍛え上げられた筋肉の束で構成されていた。
まるで社寺に鎮座する仏像のような、底知れない威圧感を放っている。
この旅籠を守る用心棒だろうか?
眺めていると、突如として仮面の奥に潜む
瞬間、背を奔るのは
「……ッ!」
思わず息を飲み、蒼羅は反射的に眼を逸らした。
もう一度、恐る恐る視線だけを向けると、仮面の巨漢は再び瞑目していた。肌を刺していた殺気も
「あのぅ……」
まさか錯覚なのかと自分を疑っていると、困ったような声が上がった。
割烹着の少女に視線を戻すと、彼女は不安そうに眉を八の字に下げていた。
「……私の顔に、何か付いてますでしょうか?」
少女が見ている先は蒼羅ではなく、さっきから黙り込んで小難しい顔をしている朱羽だった。
一体なにが気に入らないのか、彼女がまとう雰囲気には、わずかに
「おい」
脇腹を肘で小突くと、朱羽は我を忘れていたかのようにびくりと身体を震わせた。
「……なに?」
「なに? じゃねぇよ……」
不安そうな割烹着の少女を顎でしゃくって示すと、朱羽は
「あぁ……いえ、なんでも」
客商売ゆえ、こういった不思議な反応をする客にも慣れているのだろう。
少女は気にする様子もなく愛想笑いを浮かべると、『では、こちらの番号が書かれた部屋にお入りください』と
札を受け取り、蒼羅は軽く頭を下げて部屋へ歩き出す。一歩遅れて横に並んできた朱羽は、どこか
「どうした?」
「別に。なんでもない」
蒼羅を
目は口ほどにものを言う―というわけではないが、何故か『あんたには関係ない』と言い竦められたような気がして、蒼羅はそれ以上の追及をやめた。
・・・・・・
「「ご馳走様でした」」
蒼羅は満面の笑みで、朱羽は瞳を閉じながら、掌を合わせて頭を軽く下げた。
質素ながらも美味な
思っていたよりも内装は小綺麗で、快適な旅籠だ。
―床板がたまに
「意外と悪くないな、ここ。『住めば都』ってこういうことを言うんだろうな」
「あたしは嫌。床板はよく抜けるし、壁は薄いし……まるで急ごしらえの木造小屋じゃないの」
満足な心地で蒼羅が床に寝転ぶと、まるで朱羽の言葉を裏打ちするように、床板がいまにも抜け落ちそうな音を立てて軋んだ。
「だいたい、なんであんたと同じ部屋に泊まんなきゃならないわけ?」
「俺だって嫌だよ。だけどあんなことがあったんだ、仕方ないだろ」
蒼羅と朱羽は、ある任務を受け『
乗っていた馬車は転覆した後、暗器で蜂の巣にされ、馬を駆る
その後どうにか襲撃者を
そしてそのときに、馬車の中に荷物のほとんどを置いてきてしまった。
荷物の中の旅費も含めれば二人分の部屋は取れたのだろうが……持ち合わせの金で一人分の部屋を取れただけでも、
しかしどうやら朱羽は不服らしい。
眉根を寄せる彼女に、蒼羅もうんざりした顔で言葉を続ける。
「嫌なら出てけばいいだろ」
「あんたが出てって。殿方と二人きりなんて、なにされるか分かったもんじゃない」
「なんもしねぇよ。なにが悲しくてお前みたいな鉄板―」
「誰の胸が鉄板だって?」
穏やかな笑顔とともに振られた一閃が額にぶつかる寸前、蒼羅は真剣白羽取りでどうにか受け止めた。
「あっぶねーだろ!!」
「せめて、夢と希望がいっぱい詰まった未開拓地と言いなさいな」
「なにが夢と希望だ、現実を見ろよ。お前とっくに成長期終わってるだろ」
「こ、これから来るの。これから」
「馬鹿言え、不毛地帯で果実がたわわに実るかよ」
朱羽は穏やかな笑顔のまま、鼻先まで顔を近づけてきた。背筋が凍るような怒気が肌に刺さる。
「弱者って自分が優位に立つと
「武力行使しなきゃ反抗も出来ないお前よりかは、こうして対話での和平を試みる俺のほうがよっぽど強者だろうよ」
「え、なに? 聞こえなーい」
「……なぁ、手鏡とか持って来てくれよ。いま俺の目の前に、『極悪非道』の良い見本があるんだ。お前にも見せてやりたい」
「ふぅん、これが『極悪非道』ねぇ。確かに悪い顔してる。特に目許のクマなんかは見てるだけでこっちが不幸になりそう」
「待て、それは誤解だ。俺が言ってるのはな、白い髪の―」
「あーあー聞こえない聞こえなーい」
しばらく
「―ふぁ、ぁーぁ。もうやめにしよこれ、疲れるし」
「元はといえばお前の所為だろ……なんだってこんな真似すんだよ」
「試したの。こんなとこで死んでたらこの先、命がいくつあっても足りないもの」
「嘘つけ!!」
全くもって必要の無い争いがやっと終結した。
疲労の
「―なぁ、昼間の“
真剣な調子の問いに、こちらを見る朱羽の目も
「あれで終わりだとは思えない。あたしたち二人をまんまと逃がしてるわけだしね……次の襲撃は必ずある」
「問題はそれがいつなのか、ってところだよな」
蒼羅の言葉に
「相手は確実にあたしたちを殺しに来てた。二回目の襲撃まで、あまり時間を置かないはず」
「だけど、敵に俺たちの場所が分かるのか?」
「
朱羽は一度言葉を切ると、蒼羅の方を一瞥して何故か黙り込んだ。
「あるいは?」
「いや、なんでもない」
蒼羅がその続きを
その表情には、わずかにこちらを気遣うような、それでいて少し煙たがるような色があった。
胸に引っかかるものを覚えながらも、なるほど、と蒼羅はひとりごちた。
「最悪の場合、次の襲撃は早くて今日の夜か」
ふわあ、と二度目の欠伸をした朱羽が首を縦に倒す。
「うん、だから交代で仮眠を取りながら、見張ろうと思う。……まさか嫌だなんて言わないよね?」
「それこそまさか。賛成だ」
蒼羅はむしろ『あたしは寝るからあんた見張っといてよ』とか言われないか冷や冷やしていたのだ。
さっそくどちらが先に見張りをやるか話し合おうとして、朱羽がこっくりこっくりと船を
「おい、朱羽?」
不安に思って朱羽の顔を
案の定、きりっと吊っていた双眸は眠たげにとろりと垂れ、焦点が定まらずぼんやりとしていた。今にも寝そうな勢いだ。
「…………ぅん」
ようやく
かと思うと急にふらりと体勢を崩し、蒼羅の方へとしなだれかかった。
「っておい、待て待て待て」
立ち上がろうとしていた蒼羅の膝の上に頭が乗る。ちょうど膝枕のような体勢だ。
朱羽は倒れたきり動かず、まるで死んだように眠っている。
穏やかな寝息を立てるその様は、
―本当に、黙っていれば美人なんだけどな。
蒼羅は困ったように頭をかく。このままでは動けない。
起こさないようにどかして、布団を引いて寝かせてやるか……そう思って朱羽の身体に触れようとしたとき。
「―失礼致します。入ってもよろしいでしょうか?」
突然、目の前にある
返事をする前にからりと襖が開き、部屋へと入ってきた割烹着の少女は、まぁ、と驚いたように口元を押さえた。彼女の視線の先には、蒼羅の膝の上で眠る朱羽。
「かなりお疲れのご様子ですね。ちょうど良かった。お布団の用意をしに来たんです。すぐにお敷きしますからお待ちくださいね」
「あ、あぁ……ありがとうございます……」
なんとなく気まずさを感じ、引きつった笑みを浮かべる蒼羅をよそに、少女は押し入れから布団を引き出し、慣れた手付きでてきぱきと整えていく。
「ごゆっくりお休みください。では、私はこれで」
最後に少女は愛想笑いとともに一礼。襖をそっと閉めていくのを見送ると、蒼羅は改めて慎重に朱羽の頭をどかし、背中と両膝の裏に腕を差し入れ、それこそお姫様のように抱きかかえる。
—この高さから落とせば、目を覚ますだろうか?
布団の近くまで運んだあたりで、悪魔の閃きが鎌首をもたげるが、蒼羅は首を横に振った。
どうせ、機嫌を悪くした朱羽に八つ当たりされるのがオチだ。
大人しく寝かせ、毛布をかけてやる。しばらくすれば目を覚ますだろう。
「……さてと」
こっからが本番だ。
部屋の中央に陣取った蒼羅は、窓から見える夜空を
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