人よ、喜び多くあれ


 朝食は肉と豆のスープ、平パンと少しのチーズ、そして果物だった。誰もが零夜を朝食に招きたがり、アランジャ救済の英雄譚を聞きたがったものの、結局は縁深いナシパが「ウチにいらっしゃい」と言えば反論は出ず、それで議論は打ち止めだった。


 ヒグイたちに元気が戻り、火力の出るようになったかまどで、スープがふつふつと煮立っている。

 喋ることを何も要求されないことは、零夜にとってそれほどありがたいこともなかった。正直に言って、楔の元で起こったことや、泥のミトラを何とか止めた経緯などを、胸躍る冒険譚に仕立てられる自信がない。

 熱いスープは、薄い塩味に肉の旨みがよく効いている。黙ってこの味を堪能するほうが、零夜にとってはよほど重要だった。


 幕家の壁には刺繍布に混じって、零夜の上着がかけてあった。砂埃は払ってあるが、それだけでは落としきれない汚れも、ほつれや破けも所々に見える。

「また繕えば着られますよ」

 零夜の視線に気が付いたのか、ナシパが言った。微笑み混じりの柔らかな声は、朝の穏やかな光景によく似合う。ナシパの母親、ガウランが睨みをきかせてくれたおかげで、「飯は終わったか、こっちに来て話してくれよ」などと催促に来るものはいない。穏やかな、のどかな朝。


 出されたものをすっかり食べきって、零夜は食後のバター茶に舌鼓を打っていた。茶と言いつつ塩辛いこれに最初は戸惑ったものの、スープのようなものだと思ってしまえば何ということもない。

「レイヤさん、これからどうするね」

 同じくバター茶を飲みながら、ガウランが尋ねる。零夜は唇についたバターをちょっと舐めてから、「分かりません」と答えた。

「友人を探して、もし見付かったら、それから……」

 それから、どうしよう。そもそも、もし見付からなかったらどうしよう。

 先行きは未定なことばかりだが、たったひとつ決めていることがある。ここを出ていく。いつまでも世話になるわけにはいかない。零夜はそれをナシパたちに言えていなかった。


「……レイヤさんさえよければ、ずうっとここにいてくれても構わないんだがね」

 零夜の考えを見抜いたかのように、ガウランが言った。「男手はいくつあっても困らないし、アランジャは他民族との婚姻は禁止していないよ」

「お義母かあさん! そんなことを言われても、レイヤさんだって困るでしょう。記憶が戻って、元いた土地へ帰ることが、一番良いに決まっているんだから」

 口論に発展しかけたところを制止して、零夜は茶碗を置いて背筋を正す。

「ここはすごく居心地が良いし、アランジャの人たちもいい人ばかりです。でも……俺は、帰らなきゃ」

 ガウランの薄い眉が八の字に下がった。「そうかね」と頷いて、ガウランはそれ以上零夜を説得しようとはしなかった。



「レイヤ! 待ちくたびれたぜ!」

 食事を終えナシパに案内されたのは、キヤたちが療養する広い幕家だった。怪我をしていない方の手を高く上げ、キヤが零夜を歓迎する。

「いやはや、一時はどうなることと思ったが、まさかお前がまるっと解決してくれるとはな! 今度こそ見直したぜ、レイヤ!」

 キヤは相変わらず元気がよく、隣に座った零夜の背中をばしばしと叩く。

「キヤ、あんまり大袈裟に動くと傷に響くぞ」

 それを牽制するのがバータルで、彼の怪我も快復に向かっているようだった。本来ならば生死を彷徨うほどの大怪我だったが、地面に叩きつけられた瞬間から癒やしのイマジアを発動していたおかげで、そう深刻な事態にならずに済んだらしい。咄嗟にそんなことができるなんてすごいな、と零夜が感心すると、バータルは垂れがちの目を細めて笑う。


「そうは言っても、レイヤの助けがなかったら死んでたさ」

「俺もバータルに助けられたわけだから、つまり俺の命を救ったのもレイヤってわけだ」

 泥のミトラに腹を割かれたリクザも言う。褒め言葉の連続に零夜が耳を染めてはにかみながら俯くと、キヤが「ほら」と得意げに言った。

「俺の言った通りだろ。レイヤは絶対恥ずかしがるって」

 からかわれて笑われるかと思いきや、バータルなどいたって真剣な顔をして零夜を覗き込む。

「きみは本当に不思議な人だ。力がありながら力に呑まれず謙虚にある。謙虚にありながら卑屈に呑まれず実直にある」

「買いかぶり過ぎだよ。俺はただ……その、多分、自信がないだけだ」

「だったら、ここでの出来事を自信にするといい」

 バータルが、痛々しく包帯を巻いた右手を零夜に差し出した。

「改めて、きみに礼を言いたい。楔との和解は叶わなかったが、きみがいなければ、我らは泥の下に滅んでしまっていただろう。

 楔を封印して、恐らくこれまで通りとはいかない部分もあるだろうが……それでも、最悪の事態は回避された。きみのおかげだ」

 零夜は差し出されたバータルの手を取り、怪我をしているかもしれないから痛くないよう、そっと握手をした。その気づかいに、バータルは小さく笑みをこぼすのだった。



 談笑はしばらく続き、零夜は朝食を食べたばかりにもかかわらずナッツやアンズを摘んだ。やがてカルムの手を引きながらナランが幕家に入ってくると、場は一層賑やかになった。これはもうちょっとした宴会に近いなと零夜は思ったが、いくらか気心の知れている面子しかいないからか、嫌になってしまうようなこともない。

 摘むものがなくなればナランがどこかに姿を消し、すぐ何か食べ物の乗った器を持って帰ってくる。キヤとリクザは酒が飲みたいと言ったが、怪我人に酒は良くないとバータルにきっぱりと止められた。

 火を囲み、軽食の皿を囲みながら、色々なことを話した。身体が癒え次第ここを去ろうと思う、と零夜が話しても、彼らはティエラのように「なぜ」と問うたりはしなかった。「そうか」とバータルが言う。「寂しくなるな」とも。淡々としたものだった。けれどその淡白な会話の方が、別れを惜しむどんな凝った言葉よりも、ずっと胸が絞られた。


 それから、最も重要なこと――カルムと、彼の遠見を受けてイグ・ムヮの周囲で情報収集をしていた者たちが集めてくれていた、理仁の手がかりについても話した。

 イグ・ムヮに点在する他のアランジャ族のどの営地にも、理仁らしい人物はいなかったということ。しかしカルムの遠見では、確かに理仁の痕跡はイグ・ムヮの周囲にある。そうだとしたらアランジャのコミュニティ外にいるのだろうから、よりゼーゲンガルトに近しい村々を当たってみると良いこと。

 そういった程度の情報でも、零夜の焦りをいくらか緩和させるためには役立った。営地から最も近いのは、丘を南東へ下ったプラドという村だという。地理的に、零夜が乗馬の練習をしているときにすぐ近くまで行った、小さな農村に違いなかった。


「プラドへは我々と共に行きませんか?」

 そう零夜を誘ったのは、ほかでもないカルムだ。なんでも定期的に物品の交換におもむいたり、遠見による神託をゼーゲンガルト貨に替えたりと、深いやりとりのある村なのだという。

「今期ぶんの遠見で、少し気になるものが視えたので、直接行って警告をせねばと思っていたんです。どうせ目的地が同じならば、共に行った方が何かと良いでしょう」

「でも、さっきも言いましたけど、俺はいつみんなを傷付けるか分からないし……」

「一緒にいるのがほんの少し伸びるだけだろ。そう変わらんさ」

 キヤの後押しもあって、零夜は迷ったすえ、嬉しいような困ったような気持ちでその誘いを承諾した。

 心に決めた別れ――それはもちろん、プラドへ行かずここへ残る人々とは、恐らくは永遠の別れになるだろうが――しかしアランジャの全ての人たちとの別れを覚悟していたところにこの提案が来たもので、ちょうどさっき挨拶を交わした者と路地の先でまた出くわしたような、そんな気恥ずかしさがあった。けれど、異世界をひとりで行く心細さが、零夜に素直に頷かせる。縁があると思えば良いのだ。いずれにせよ、プラドへ発つまではここに厄介になるしかないのだし……。


「よし、決まりだな!」

 なぜかいつの間にか場を仕切っているキヤが、無事な方の手で膝をパシンと打った。「連れが増えるのは良いことだ。俺もプラドに行こう」

 当てどなく旅をしている彼の身はどこまでも自由だ。自由には指標が必要で、それはどんな些細なことであっても良い。今回の指標は、つまり「わけが分からなくて本当に面白い」零夜についていこう、ということだそうだ。

 アイラに乗っ取られていたとはいえ、零夜は彼に危害を加えた。それが恐ろしくないのかと問えば、「俺は喧嘩に二度は負けないのさ」と、キヤはなぜか得意げに大口を叩いた。

「そういえば、キヤはどうして旅をしてるんだ?」

 ナランの疑問に、キヤは「性分みたいなもんさ」と答える。「目的がないわけじゃあないが、旅をすることそのものが目的でもある……」

「キヤって、案外詩人だよな」

「案外は余計じゃないか?」

 どうやらキヤとナランはすこぶるテンポが合うらしい。軽快なやりとりに零夜もバータルも、カルムですら声を立てて笑う。湿っぽい話題の去った幕家の中に、また宴会に似た活気が戻る。



 それに誘われてか、木戸の隙間に見知った青色が覗いた。

「良いなあ、男の子たちだけで楽しそう」

 ティエラがニマニマ笑いながらそこに立っていた。「じゃあ、入ったら」とバータルが許可を出すや否や、ティエラは戸を大きく開け放ち「みんな良かったね、入っていいって!」と背後に呼びかけた。

 わあわあはしゃぎながらなだれ込んできたのは子供たちで、バータルが「しまった」という顔をするも時すでに遅く、ティエラはしてやったりと鼻を鳴らす。

「男の子たちだけ仕事しないで、宴会しててずるいのね」

 だから子守くらいしろ、ということらしい。「こっちは怪我人だぞ」とバータルが弱々しい抵抗を口にするが、そんな言葉は微塵も効きはしない。

「良いじゃない。おいたはしないわよ。ね、テテイ」

 バータルのすぐ隣に座ったテテイは「うん!」と元気よく返事をし、懐から羽飾りを取り出した。小さく呪文を唱えると、テテイの指先に風が渦巻き、羽飾りが宙を舞った。

「バータル兄ちゃん、イマジアの稽古をつけてよ」

 普段は営地の外に行く仕事ばかりのバータルたちに、こうして甘えられることが嬉しいらしい。テテイだけでなく、手を触れずに羊の毛を狩ることができるリツハも、汚れた水を浄化するトッカも、それぞれの練習具を手にイマジアの稽古をねだる。

 バータルはすっかり諦めた様子で――キヤとナランはそれなりに乗り気だが――子供たちの相手を始めた。さあ、目標物をしっかり見て。集中力を途切れさせないように……。


 零夜の隣にはユーイが座った。ティエラより少し年下の彼女は、背伸びをしたおすまし顔で「見てて」と言う。彼女が呪文を唱えると、細い指先に仄かに光が灯った。手に持った白い綿は指先の繊細な動きに導かれ、みるみるうちに糸となっていく。

「糸紡ぎのイマジアよ。とっても綺麗でしょう」

「うん、すごく綺麗だね」

 零夜が褒めると、ユーイはまだ幼いふっくらした頬に赤みをさし、嬉しそうにはにかんだ。「ユーイったら、レイヤが私とカルムを助けるのを見てから、レイヤにすっかりお熱なのよ」とティエラがナランに囁いたが、それは零夜にもユーイにも聞こえなかったようだ。



 やがて誰かが歌い出した。アランジャ族の人々はたいてい陽気らしく、何かあるとすぐ歌ったり踊ったりを始める。ティエラが彼女のイマジアで真っ白な弦楽器を顕現させ、歌に合わせて爪弾き始めた。

「まさに喜び多き人々、だな」

 テテイの羽飾りをいじりながら、キヤが呟いた。テテイはイマジアの稽古などすっかり放り出して、歌に合わせて身体を揺らしている。

「喜び多き人々、って?」

 零夜が問うと、キヤは羽飾りを宙に投げ、また空中で器用にキャッチする。

「アランジャ、ってのは古い言葉で『よく喜ぶ人々』とか、そういう意味らしい。その通りだなと思ってさ」

「ふうん……」

 喜び多き人々。確かに彼らを表すのに、これ以上うってつけの言葉はない。「こら、稽古はどうした」などと真面目に叱っていたバータルさえも、いつしか呆れつつも歌の輪に入っている。

 幕家の中は当初そうだったように、また宴会の様相を呈し始めていた。天窓から陽光がさし、天然のスポットライトとして踊る彼らを照らす。日差しの中に埃が舞って、舞台の演出のようにきらきらと煌めき舞う。


 一曲終わると、ゆったりと伸びやかな曲調が、テンポの速い跳ねるような調子に変わった。

「ねえレイヤさん、踊りましょう!」

 ユーイの小さな手に引かれ、零夜は立ち上がった。

「踊りなんて、知らないんだけど……」

「踊るのにやり方なんてないわ。歌に合わせて身体を動かすだけよ。ほら!」

 小さな身体はくるりと回り、伸ばした指先の軌跡を追うように糸が波打った。踊りながら糸を紡ぐユーイと、彼女に手を引かれる零夜の周りに、紡がれたばかりの柔らかな糸が優美な円を描く。


 ユーイがリズムに合わせて足を踏み鳴らし、音の流れに合わせて手足を動かすと、糸は不思議と絡まることなく、彼女の意思のままにたゆたい踊る。

 零夜が見よう見まねで踊ってみると、ユーイは鈴を転がすように笑った。

「あはは、レイヤさん上手!」

 こんなふうに身体を使ったのは初めてだった。決まった動きがあるでもなく、模範解答があるでもなく、ただ音楽に合わせて動くままにする。回って、跳ねて、時々つまづいて。

 案外楽しいな、と思ったときには、気が付けば零夜は声を立てて笑っていた。



 喜び多き人々の里を、穏やかな風が吹き抜ける。天窓から吹き下ろし布戸をはためかせていった風は、きっと陽気な歌声を運んでいっただろう。

 この異世界のどこかにいるはずの親友の元に、あの風が吹いて行けばいい。零夜がここで無事であることを伝えて、理仁に、ここに来るように言ってくれたらいい。

 夢物語のような願望はもちろん本心ではない。けれど今は――今だけは、そんな甘えた願いさえも許されるような、そんな気がした。



【『不可説のミトラ』第一章・完】

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