神との断絶
瞬きをすると目がジャリジャリと痛み、身体は涙でそれを洗い流そうとする。零夜は砂混じりの涙を袖で拭い、立ち上がった。
……自分では立ち上がったつもりだったが、膝が地面を離れる前に不格好に転がってしまう。身体が思うように動かせない。耳の奥でボーンと奇妙な低音が鳴り響いている。
何かを言いながら駆け寄ってくるキヤの姿を見て、零夜はようやく自分が洞窟の外へいることに気が付いた。また立とうとしてよろけたところをキヤに支えられる。彼は零夜を見て、自分の耳を指で叩いて示した。つられて零夜も自分の耳を触ると、プールの後で耳に水が入ったときのような、くぐもってざらついた音が響いた。どうやら風圧に鼓膜がやられたらしい。外耳道からは細く血が垂れている。
キヤが何か言った。よく聞こえずに「なに?」と聞き返すと、「だ、い、じょ、う、ぶ、か?」
大きな声ではっきりと、キヤは同じことを繰り返した。結局その声も完全には聞き取れず、零夜はキヤの唇の動きを見て彼の発した言葉を察する。大丈夫か?
「だい、じょ、ぶ」
反射的にそうは言ってしまったが、一句一言を発するたびに両耳が酷く痛むし、吐き気も酷い。鼓膜だけでなく三半規管まで傷が及んでいるためだろう。キヤの手を借りて何とか立ち上がると、背後から零夜の肩を叩く者があった。バータルだ。髪は風と汗に乱れ、身体のあちこちに傷こそあるものの、無事なようだった。
バータルは零夜の耳に手を添えて、ほとんど口を動かさずに詠唱した。耳の奥で虫が
「ありがとう、バータル」
治癒の礼を言っても、バータルはそれどころではないといった風に視線を辺りにさまよわせた。
それを追って零夜も周囲を見回すと、零夜たちからほど離れたところで、トモルがナランの介抱をしていた。様子を見るにナランも大した怪我はしていないらしい。
「何があった?」洞窟の方を注視しながら、キヤが問う。「駄目だったのか?」
バータルが重々しく頷いた。
「楔は俺たちを殺そうとした。恐らく、あの風が直撃していたら全員が死んでいただろうが、寸前でナランが風を斬ってくれた」
へえ、とキヤが感心する。
「剣のイマジア……というより、『斬る』という行為そのものを操るイマジアだ。ナランは何でも斬れる」
零夜たちが見ていることに気が付いて、ナランがこちらに手を振った。それに応えてから、バータルが疲れた息を吐き出した。
「ともかく、全員無事で良かった。一度営地に戻って、楔の封印には改めて人をやろう」
バータルの示す方針に異を唱える者はいなかった。洞窟はごうごうと風を吐き出している。崩れかかった入り口より先は静けさに包まれ、その奥に怒れる楔がいるなど想像もつかない。零夜は情けなくわびしい気持ちで、その
交渉は決裂した。
(じゃあ、どうなるんだ? あの子は――ティエラは?)
とてもそれを訊ける空気ではない。不安を誤魔化すように、零夜はまだ疼く右耳を拭った。手のひらに半分乾いた血液が付着する。
「バータル、だったら早く山を降りよう」
トモルが洞窟を警戒しながら言った。いつまた楔が襲ってこないとも限らない。むしろなぜ襲ってこないのか――うす気味が悪かった。
「楔は未だこの地に穿たれ、山に縛られたままだ。山を降りさえすれば手出しは……」
トモルの言葉はそこでぷつりと途切れた。不吉なものを目にしたためだ。楔の生命力をたっぷり吸って、山肌にこんもりと枝葉を盛り上がらせた木々の隙間から、何者かが彼らを睨みつけている。
無事に下山などさせるものかという、ねっとりとした悪意の絡みつく視線。来る時にさんざ零夜たちを邪魔した泥のミトラたちが、今度こそ招かれざる客の息の根を止めてやらんと、殺意に瞳をギラつかせていた。
「……そうだな、山を降りられさえすれば」
キヤが声を噛み潰しながら皮肉を
悪意の沼は洞窟と零夜たちとを取り囲み、次第に包囲の半円を狭めていく。このままだと、再び洞窟に逃げ込まざるを得なくなる。
「……俺たちが沼を斬る。道が出来たら走れ。俺たちは後から追う」
トモルが剣を抜いた。続いてナランも、同じ
バータルは何か言いかけたが飲み込んで、零夜の腕を掴んだ。零夜は咄嗟にキヤに視線を送る。どうするのか、と問われる前に、キヤはにやりと笑って「俺はこっちに加勢するぜ」と肩越しのナランを親指で指した。「俺の雷も飛び道具みたいなもんだからな」
「でも、ここに残していくなんて……」
「おい、なんて顔してやがる」
トモルの怒声が、二の足を踏む零夜を打った。「俺たちゃあんたを無事に連れ帰ると約束してるんだ。誇り高きアランジャの民に、約束を違わせるなんて
バータルが零夜の腕を強く引っ張った。沼の包囲網はすぐそこまで来ている。視界の端で、トモルが笑った。
「行くぞ!
トモルとナランが同時に、全く同じ呪文を唱えた。振り下ろした切っ先から、白っぽい空気の尾を引いた斬撃が放たれる。それは蠢く沼の一端を削ぎ落とし、無形のそれらに確かな決裂を生じさせた。――道がひらけた。
「走れ!」
叫んだのはナランだった。その声を待たずに走り出す。沼はすぐに道を塞ごうとしたが、続いて飛来した雷撃に打たれ形を崩した。
沼が大きく身を捩り、零夜の背後で誰かが苦痛に声をあげた。零夜はそれを無視して走った。振り向くことは、彼らへの裏切りに思えた。
森の外へ!
彼らの
希望を手繰り寄せるように、手も足もがむしゃらに前に出した。その脇を、ひとすじの風が軽やかに吹き向けていく。
『そう簡単に、逃すわけにはいくまいよ』
低い地鳴りと共に、零夜のすぐ耳元でそれは囁いた。
視界が傾く。突如盛り上がり塚を築いた足元に、零夜とバータルは呆気なく宙に放り出されていた。地中から伸びた木の根――楔の意思と接続(リンク)した太い根が、二人の胴体を捉え高々と持ち上げた。
状況を理解しようと、零夜は宙ぶらりんのまま、ぶれる景色に目を凝らす。必死に走ったと思ったのだが、風穴からはあまり離れていない。楔の姿はどこにもなく、ただ地中から現れた太い根のみが、零夜とバータルを捕獲している。
「くそ……くそっ! くそっ!」
短刀を何度も振り下ろすが、硬い木の皮は細かく削れるばかりで何の手応えもない。風に乗って、楔が嗤う鼻息が聞こえた。
『待っていればヒトが増えるかと思っていたが……たった二匹増えただけか。食いでのないことよ』
声は風にのって不気味に転回する。背後から聞こえてくるようでもあったし、正面から聞こえてくるようでもある。一貫して、その声には状況を楽しむような残酷な調子が含まれている。
「バータル!」
零夜の声が裏返った。「逃げなきゃ……楔に喰われる!」
被食の恐怖は何にも勝る。早く逃げなければ。ナランたちも逃さなければ。じっとりと苔むした、あの湿気た巨体は、零夜たちなど骨ごと咀嚼し、ひとかたまりの肉塊として呑みこんでしまうだろう。
焦りが身体を震わせた。それはバータルですら同じらしい。
「なぜだ! 俺たちが、あなたに何をした!」
バータルの口から、初めて私情が
「俺たちは……俺は! この地に生まれ、あなたの恵みに生かされてきた。その対価は支払っていたはずだ!
土地を正しく整え、外敵があれば対処した。あなたが飢えぬよう恵みを循環させ、あらん限りの敬意を表してきた。これ以上、俺たちは何をすれば、あなたの怒りを鎮められたのだ!」
バータルの叫びに応じるように、生温かい重たい風が拭いた。森が不穏にざわめく。
零夜たちからは見えようがなかったが、風穴の前に残った三人には、楔の触手が指のように曲がり、洞窟の入り口を掴む様子がしっかりと見えていた。
沼のミトラの殴打を受け、トモルは額から血を流している。ナランとキヤも生傷を増やし、血と泥にまみれている。未だ戦闘は続いており、彼らを沼の底へ鎮めてしまおうとする悪意から、目を逸らすわけにはいかないはずだ。しかし視線は、否応なく風穴へと惹きつけられた。
触手の引っ掛けを支えとし、風と共に楔の本体が外界へと顔を出した。その姿は、薄暗い洞窟の中で見たものと、印象が全く異なるものだった。
緑の瞳は宝石のように煌めき、乳白色の角と蹄は遊色の美しさを放つ。体表の湿った苔は、木漏れ日を受けて青々と透き通っている。
そこにあるのは重鈍で陰鬱な洞窟の主ではなく、確かにアランジャの人々が永年崇め親しんできた、温厚で老成された
幸いだったのは、楔か姿を現すと同時に泥のミトラたちも動きを止めたことだ。そうでなければ、楔の威圧に硬直した三人の人間は、重い泥にのしかかられあっさりと制圧されていただろう。
静寂と静止の間を、楔は悠々と歩んだ。三人の人間を素通りし、楔は自らを呼んだ張本人の元へと向かう。
彼の姿が見えたとき、楔はごうごうと喉を鳴らし、明確な敵意を示した。バータルもまた、針のような突き刺す気配を感じ取った。根に絡め取られ脚を宙に投げ出したまま、身体の芯から震えがせり上がる。
「楔よ……」バータルの口から、悲痛な懇願が絞り出された。「あなたは誇り高き、アランジャの守り神ではなかったのか……」
楔の大きな瞳に、バータルは情けなく泣き出しそうな自分の顔を見た。吸い込まれるような樹海の緑。楔と対峙しているのか、それとも自分自身と睨み合っているのか、認識が曖昧になる。
苔が揺れた。楔はゆっくりと、かぶりを振った。
『俺は神ではない。お前たちが「神」と崇めるだけの――ただのミトラだ』
バータルを捉えた根が、高く振り上げられる。
「あ――」
零夜が何か言うよりも速く、楔はバータルを地面に叩きつけた。
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