誰がための讃歌


「バータル!」

 零夜の絶叫は、泥のミトラたちの歓声にかき消された。

 バータルはかろうじて意識を保っていたが、身体は全く自由に動かせないようだった。虚ろに開いた唇の端からは赤黒いあぶくが垂れている。その体液の味見をするかのように、楔の根がバータルの顔を撫ぜた。

『ヒトの味とは甘美なものよ』

 楔は胴体の下から触手を伸ばし、バータルに近付けた。鉤爪のついた触手とも違う、妙にぬらついた肉っぽい触手。それがバータルの手首を捉える。

 焼けるような痛みに、バータルは朦朧とした意識の中でわずかな抵抗を見せた。粘性のある体液はバータルの服を溶かし、その下の皮膚を爛れさせている。

 あの触手に捕まって引きずり込まれれば――あとはもう、咀嚼されるのみだ。直感的にそれに気付き、零夜はバータルの名を呼びながらもがいた。


「くそっ……バータルを、離せぇっ!」

 絶叫と同時に、零夜の身体を青い炎が包んだ。炎は感情に呼応するように燃え上がり、太く頑丈な根を一瞬にして焼き尽くす。

 根の戒めから自由になり、柔らかな下草の上に落ちた零夜の意識を離れ、炎は自由勝手に回りのものを舐め回す。草木は発火し、逃げ遅れた泥のミトラは、瞬時に乾燥して灰となる。高温の青は零夜を起点として、またたく間に同心円状に広がっていった。その先には楔もおり、そして――バータルもいる。

「だ、駄目だ!」

 バータルに這い寄る炎を止めようと、零夜は手を伸ばした。青い炎はボッと籠もった燃焼音を立て、一瞬だけ球状に大きく燃え上がり、全て消失する。


『核を使いこなせていないな?』

 含み笑いの声が言った。『やはりお前には過ぎたる物だ』

「ぎゃあっ!」

 楔の鉤爪が、零夜の手の平を貫いた。そのまま背後の大木に右手を縫い付けられる。

「な、なんで……」

 痛みに流れる涙が、頬の砂埃を洗っていく。嗚咽を押し殺しながら、零夜は問う。

「なんで、どうしてこんなことするんだ。アランジャの人たちとあなたとは、ずっと上手くやってきたんだろ」

 なぜ。何度となく楔へ投げかけ、そのたびに答えの得られなかった問いをなおも口にする。そうせずにはいられなかった。破壊、殺戮、憤怒の理由を知りたかった。知ったところで、零夜にはどうしようもない事情なのだとしても。

「人間が身勝手だってことは……なんとなく、分かる。でも、だからって、こんなことしなくていいだろ!」

『分かる? いや、お前は分かっていない』


 これまでの調子とは一転して、楔の声は酷く穏やかになる。

『創世の神話を知っているか?』

 老輩が孫へ向かって、絵本の内容を尋ねるかのような優しい声だった。零夜は聞きかじりの神話を思い出す。

「生の女神が世界を作って、死の女神がそれを壊そうとして……それで、人間は生の女神の味方をしたけど、ミトラは……」

『ミトラは青き貴き、生の女神を裏切った。その罪のため女神と同じ姿を奪われ、卑しい下等な生命へと堕とされた……そうだ、その通りだ。だがそれは、お前たち人間が都合よく改変した神話に過ぎない。真に女神を裏切ったのは……』

 楔は言葉を切り、続くべき言語の代わりに風を唸らせた。


 深い悲しみを湛えた緑色の目を、零夜は困惑しながらも凝視する。苔に覆われた異形の顔貌。そこに表れた気色を人間の感情に当てはめるならば――引き攣るような風の音。わずかな木漏れ日を受けて、水面のように波打つ瞳の緑色……楔は、きっと泣いている。

『真実を知っていたならば。人間の裏切りを、ミトラの無実を、もっと早くに知っていたならば! 俺はお前たちの道具になど、最初からならなかった! お前たちの信仰を許し、お前たちを庇護し、お前たちの文明を富ませることなど、決してなかった!』

「青き女神を裏切ったのは、ミトラじゃなくて人間だったってこと? でも、そしたらあなたは、どこでその事実を……」

『…………』


 楔は沈黙したのち、土の匂いがする息を深く深く吐いた。

『お前が人間であることが、つくづく残念だ。人間でなく、そのような脆弱な肉体と精神でなかったならば……お前はまさしく、ミトラの王であっただろうに』

 どこまで本気か分からない言葉を吐き、楔は一息をもって、苔の表層に乗せていた穏やかさを吹き消した。そのあとに残るものは、憤懣ふんまんそれのみである。

『諦めろ、異邦の者よ』

 諭すように、楔は言った。

『そこでおとなしくしていろ。この男を喰ったあとに、その核ごとゆっくり喰ろうてやる』

 ――風。怒れる暴風が零夜の髪を逆撫でていく。樹木はざくざく揺れ、楔の眷属である泥のミトラたちは、木々の動きに合わせて揺れながら歌い始める。聞き覚えのあるメロディは、ここへ来るときに馬上で歌った、楔の歌だ。


 ュルフト イムニヤこの地に永くあるあなたよ

 ハルニャムヮ カレトあなたの地は大河のごとく アヤラン ナテレト子を産む母のごとく富んでおり

 イ ヒトゥム ヤ私はこんにちまで生かされている


 クァレ讃えよ クァレ讃えよ クァレ讃えよ エ ィャメ偉大なるあなたの歌

 クァレ讃えよ イグムヮ我らの大地を イグムヮ我らの大地を ミトラ小さな生命たちを


 入り交じるモザイクのように高く低く、ミトラは歌う。楔を讃え、大地に生命が満ち満ちる喜びを旋律に変える。それは今や人間のための繁栄の歌などではなく、ミトラのためだけの讃歌だった。

 楔は全身の苔を震わせてその礼賛に応え、生贄のごとく横たわるバータルを見下ろした。


 クァレ讃えよクァレ讃えよクァレ讃えよ

 呼応し、共鳴し、山そのものがビリビリと震える。楔は恍惚とした様子で天を仰いだ。

『アランジャは滅び、そののちに我々ミトラがこの地に栄える。太古より繰り返されてきた駆逐と繁栄の層が、今日をさかいにひとつ多く重なることとなるのだ!』

 右手を貫く激痛に顔を歪めながら、零夜は悪あがきに左手をもがいた。打開の一手に至る炎は、影すら現れない。集中できない。

「ちくしょう……」

 伸ばした手のひらに、マッチの先ほどの小さな炎がようやく灯った。しかしそれすら、泥のミトラのひとさしの仮足により、ぺちゃりと潰し消されてしまう。泥のミトラが薄い舌をもって、零夜の目尻から垂れた涙を舐める。「やめてくれ……」零夜は呟いた。「お願い、やめて……」



 ――やめてじゃない、「やめろ」と叫べ。


 零夜はハッと目を見開いた。自分の声でも、楔の声でもない。しかし確かに聞いたことのある声が、零夜に呼びかけている。


 懇願するな、命令しろ。お前には、それが許されるだけの力がある。


 声は零夜の耳元で囁かれ、こめかみに吐息のかかるような錯覚すら覚える。挑発するような妖艶な声。その声色に引っ張られてのことなのか、零夜は熱に浮かされたようにぼうっと声に聞き入ってしまう。


 俺が教えてやろう――蹂躙とは、こうするんだ。


 神経が、意識が焼けるような感覚がした。チリチリと小さくよじれるような音を立てて、何かが焼き切れ――そして、誰かの手に渡った。


「あれだけの力を与えてやって、よくもまあ、ここまで無様にやられたもんだ」

 零夜の身体を覆うように青い炎が顕現し、火の粉を散らしながら燃え上がる。手を縫い付けていた鉤爪は跡形もなく灰となり、泥のミトラたちは細切れの悲鳴をあげながら燃えたり、炎の上昇気流に吹き飛ばされたりする。


 零夜はその光景を、意識の外側から見ていた。視界も、呼吸をするたびに上下する胸部も、手のひらが撫でる樹皮のおうとつも、全て自分の感覚として享受できる。ただ意識だけが枠外にある。零夜でない何ものかが零夜を支配し、零夜の身体を操っている。

 楔から受けた傷はまたたく間にふさがり、痕すら残らない。圧倒的な生命力が、身体の隅々まで満ち満ちている。


「よう、お前が親玉か? 楔なんて大層な名で呼ばれてるそうじゃないか」

 楔の巨体を見上げる零夜の瞳は、黄金に輝いている。とうてい零夜ではありえないような言葉を流暢に紡ぐ彼は、やはり零夜ではありえないような不敵な笑みを浮かべた。

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