暴虐の青


 尖った熱が楔の苔を焼いていた。幾重にもなる深い緑の層は厚く、熱は肉体を脅かすほどではない。しかしそれでも、楔は動揺していた。

 目の前にいる男は、先ほどまでみっともなく泣きわめいていた男だ。見た目には殆ど変わらない。それなのに――まるで別人だ。

 何ものにも怯え身を屈めるような小心さはなりをひそめ、重心を踵(かかと)に落として軽く立つ姿は、ただ立っているだけで堂々たる存在感を放っている。

 零夜は――零夜の姿をした何ものかは大きく腕を広げ、楔に向かって両手を掲げた。


クァレ・イスタ・イムニヤ我が名をこそ讃えよ


 炎が、左右の手から蛇のように鎌首をもたげた。二匹の蛇は絡み合い螺旋を描きながら、目にも留まらぬ速さで楔の身体へと巻き付いた。楔は脚を踏み鳴らし風を起こして、それを振り払う。しかし炎の束縛を弾き除けられたのはわずかの間だけだった。炎は表皮の苔に引火し、青の中で鮮やかな橙色を発する。

 楔は炎を払うのをやめ、太い触手を何本も同時に振り上げた。狙うは炎の操者。肉体を潰してしまえば炎の侵食も止まるはずだ。

 触手は鞭のようにうなり、大地を砕いた。だが、その破壊の場に零夜の肉体は既にない。

 身軽にも高く跳躍した零夜は、空中で一度翻ひるがえり、波打つ触手のうち一本に着地する。

「動きにくいな、この身体。もっと鍛えとけよ」

 せせら笑い、「彼」は元の持ち主に文句を言う。零夜はそれを意識の片隅で聞いていた。肉体の貧相さを嘲笑われたことを、気に留める余裕などあるはずもない。


(俺は一体、どうなってるんだ?)

 零夜の意識下の声は、「彼」にも届いているらしい。「さあな」と小馬鹿にするように呟いて、彼は右手を差し出した。

 両手から伸びていた蛇のような炎は右手に集中し、本来の腕の何倍もの大きさをした、鬼神のごとき凶悪な腕の形を取る。

「よく燃えそうな身体をしてるな」

 淡白な一言ののち、「彼」は炎の腕を振り下ろした。青い腕は楔の片足を掴み、いともたやすく引きちぎる。吹き荒れる暴風の音をかき消すほどに、楔が絶叫した。

『調子に……乗るな!』

 楔が吠えると、暴風は渦を巻き、杭のごとく零夜を串刺しにしようと襲いかかる。しかし彼はひるまず、頭上の竜巻に向かって腕を上げた。

 暴風の杭に対抗すべく形成されたのは炎の杭だ。風と炎。ふたつの杭は先端から真正面に衝突し、対消滅する。

 呆気にとられる楔に挑発するような視線を送り、「彼」は指先を楔へ向け、くるりと円を描いた。楔を囲うように炎の輪が出現する。輪の内側に咳き込むほどの硫黄の匂いが充満したときには、既に退路などどこにもなかった。

『やめろ、やめ――ぎゃあ、あ、あああ、あ!』


 ――熱い、熱い、熱い、あつい!

 楔の巨体は見る間に火だるまとなる。

 意識の檻に閉じ込められたまま、零夜は楔の叫声を聞いていた。耳をふさぎ、目をつぶり、今すぐこの暴虐の場から逃げ出したい気持ちもあり……一方で、この光景に魅せられている自分がいることにも気が付いていた。

 青は創世の女神を象徴する色。これまでに零夜が顕現させた炎とは比べ物にならないほど、炎は青く美しかった。周囲の酸素を巻き込みながら噴き上がり、ことごとく有機物を炭化させる聖なる青――。

 零夜はいつしか、声を上げて笑っているのが「彼」なのか、それとも自分なのか、さっぱり分からなくなっていた。


 人差し指をついと動かせば、それに合わせて大地から火柱が上がる。さっきの仕返しだとばかりに、火柱はもう充分に焼かれている楔の身体を貫き、大樹に串刺した。楔の胴に大きな穴が開く。ヒュ、と鳴ったのは楔の喘鳴だ。熱によって倍以上に膨張した目玉が零夜を見る。

『ミトラの、王……』

 王と呼ばれ、「彼」は邪悪な笑みを慈愛の微笑に一転させた。何もかもを破壊せんと荒れ狂っていた炎は、嘘のように消え失せる。


 暴風のうねりと木々のざわめきだけが響く。

 楔を取り囲む風は弱まることなく、木片や砂礫を巻き込みながら吹き荒れ、なおも零夜を牽制している。しかし巨体の深部まで届くほどの熱傷は、着実に楔の体力を奪いつつあった。獣と植物を統合したようないびつな身体を地に横たえ、楔は目の前の、さっきまでただの人間だった男を凝視した。

 「彼」は楔の視線に応えるように、倒れ伏してもなお零夜の背より高い位置にある、深い緑の目を覗き込む。眼球を覆う粘膜は乾燥しきってしまい、所々にヒビが入って剥がれかけていた。

「神と呼ばれるもの、化け物と呼ばれるもの、楔と呼ばれるもの……力を持つミトラを呼ぶ名は多くあるが、燃やしてしまえばどれも炭よな」

 軽く握った拳で楔の体表を叩きながら「彼」は言う。水分を失ってボソボソになってしまった苔が、剥がれ落ちて零夜のスニーカーに降り積もる。


 楔は己を気丈に保ちながらも、今や確かに恐怖していた。長く神と崇められ、人間たちに恐れ敬われてきた生きもの――人間を見放した今となってもなお、有象無象のミトラたちの頂点に立つ一個の強大な生きものは、純粋な生命の危機におののいていた。

 自意識というものが生まれたとき、「生きる」という行為に対して感じる漠然とした恐怖――搾取され、侵害され、陵辱され、被食され、殺害される恐怖が、確かな実体を持って目の前に立っている。

 生命いきものとしては、青炎に焦げた尻尾をくるりと巻いて、身を引きちぎってでも命からがら逃走するのが正解なのかも知れない。しかし楔はまだ、それが虚栄と呼ばれる滑稽な意地だったとしても――楔と呼ばれ、神に等しいちからを持つ存在であるという自負を捨てられずにいた。


『ミトラの王よ。なぜ、ヒトの肩を持つ』

 楔は、精一杯の敬意をこめて尋ねる。

『あなたが真にミトラの王であるならば……どうかお力添えを。ヒトを滅ぼし、真に真なるミトラの世を今一度取り戻すため……どうか……』

 命乞いよりも優先すべきは、助力の懇請。

 さっきまで人間に慈悲を請われていた楔は、今は別の、もっと強大な存在へ同じことをする。このすさまじい力、暴力そのものとも言える青い炎が味方につけば、大山風おおやまじの楔が望む世界は瞬く間に仕上がるだろう。ミトラの王であれば当然、ミトラの繁栄をこそ願うだろうと楔は確信していた。

 楔が望む答えはただひとつ――だが、零夜の姿をした「彼」は一笑した。

「ミトラの世を今一度、か。悪いが、そんなものに興味はない」


 「彼」は楔の正面に周り、苔が燃え尽き露出した、ゴムのような皮膚を手のひらで撫でさする。熱傷から体液が滲み出し、零夜の腕を伝って肘から滴り落ちる。

「霊長のいただきに上り詰めたとて何とする? 今や全のうちの個が無数に分かれたお前たちに、種としての頂など幻ではないか」

 風が鳴った。楔が起こした風ではなく、ただ純粋に山を吹き抜けた風だった。

『馬鹿な。……う、裏切りだ。ミトラの王よ、それほどの力を持ちながらなぜ……! 裏切り者め、裏切り者め!』

「死にかけの身体でそれだけ吼えられるなら、ついでに俺の質問にも答えてくれないか?」


 途端、「彼」を中心に、空気が張り詰めた。周囲の気温が急激に下がったような寒気に、楔は身を震わせる。その震えは冷気のためではなく、確かに楔の体内――心中より漏れ出た恐怖の身震いだった。

 先ほどまで浮かんていた微笑は拭い去られ、「彼」は無表情に見開いた目で楔を睨む。

「この矮小な人間の持つ核は、確かに俺が与えたものだ。だが……お前も同じものを持っているな? お前の体内にもわずかにある、微小な核の欠片……それは元々、お前のものではないはずだ。誰から奪った? あるいは……譲り受けたのか?」

 純粋な怒り。「二度は訊かんぞ」と、くらい眼に射抜かれて楔は萎縮するが、しかし口を開こうとはしなかった。もはや自分の――ミトラの味方をする気などないらしい横暴な王に、捧げるべき言葉など何もない。沈黙のみが楔に出来得る抵抗だった。

 それを悟ったのだろう。「彼」は冷たい怒りをまとったまま、楔に向かって手を伸ばし――

「分かった、もういい」

 楔の皮膚へと、深く指を食い込ませた。


 再び楔が絶叫した。鋭い爪などないはずの人間の指先が、いともたやすく表層を貫き、楔の深部をまさぐる。

 楔を守るように吹いていた風の渦が乱れ、ついには崩壊した。風は渦を形成する余裕もなく滅茶苦茶に吹き荒れ、木々を薙ぎ倒し地面をえぐった。

 「彼」はそんな恐慌じみた暴風など意にも介さず、なおも右腕を楔の身体に沈み込ませていく。

 零夜は「彼」の意識の奥から、その感触をじっとりと感じていた。指先が肉を分け臓腑を分け、温かな命を侵食していく。粘着質な体液と肉片がまとわりつく感覚に、胃の中身を全て吐き戻してしまいたいような怖気と、脳髄が痺れるような快感とが同時に襲い来る。


 指先が硬い何かに触れたとき、楔が一層大きく身悶えをした。その動きを感じたのか、「彼」は行動の凶悪さとは裏腹に、驚くほど穏やかな笑みを零夜の顔に浮かべた。

「案ずるな。この核は、俺たちが上手く使ってやる」

『いやだ……核を……ようやく手に入れた核を……それがあれば、ミトラの世が、再び……』

 核は楔の体内にありながらヒヤリと冷たく、それでいて楔の鼓動とは全く独立した脈を打っていた。まるで核それだけがひとつの生きものであるかのように、むしろ楔の脈拍が弱く不整になればなるほど、核の脈動は強くなっていく。

 核は零夜の手のひらに容易に収まる大きさで、掴んで引っ張ると少しの抵抗を感ずる。すじと肉、神経と血管とをもって楔の身体に連結しているそれを、「彼」は思い切り引っ張った。


 ――ぶち、ぶち。

 切れる。離れる。大いなる力の根源は楔より引き剥がされ、荒れ狂っていた風はみるみるうちに勢いを失っていく。零夜の右腕が、楔の体内より引き抜かれた。手には深く澄んだ緑色の塊が握られている。

『か、え、せ……俺の……おれの、核……』

「お前のじゃないだろ。まあ、俺のでもないが」

 「彼」は急速に衰えつつある楔を足蹴にし、木々の合間から漏れた陽の光に核をかざし、そして――口に含んだ。

 躊躇なく噛みちぎれば、生臭いような独特の風味が口いっぱいに広がる。核は鉱石のような見た目と手触りをしているが、その触感は明らかに脈打つ生命の肉だ。

 生焼けのレバーを頬張っているような血と内臓と生肉の味が、口内から鼻腔を通じて頭蓋の内までも蚕食する。

 不快な匂いと味であるにも関わらず、零夜はそこに至高の美味を感じていた。咀嚼し、嚥下する。身体の奥に力が満ちていくのが分かる。視界の隅でまだ楔が蠢いていたが、もはや奪われた核を取り戻す余力もなく、ぜいぜいと喉を鳴らすのみだった。


 最後のひとかけを飲み込んだとき、楔は意識のあるまま動けなくなっていた。あれほど吹き荒れていた風も、すっかり大人しくなっている。

 楔の無力化に伴い、泥のミトラたちも勢いを失ったようだ。ようやく合流し駆けつけた三人――ナラン、トモル、そしてキヤは――あり得ない光景に目を疑った。


 控えめで大人しく、時に見ているこちらが苛々してしまうほどに主張の薄い男――零夜の目の前に、楔が倒れ伏している。膝を折り巨体を土に溢して、ちょうど命乞いをするものが圧倒的強者の前に跪くように、恭しくこうべを垂れている。そしてその目前で、零夜は邪悪とも取れる薄ら笑いを浮かべているのだ。

 状況から見て、零夜が楔に致命的な一撃を与えたことは彼らにも分かった。分かりはしたが……彼らの誰も、わかることができなかった。

「レイヤ?」

 呼びかけたのは誰だったか。「彼」の意識の奥底で、零夜は声を張り上げる。

 ここだ、ここにいる。そいつは俺じゃない!

 その声は外界に届くことなく、肉体の内側に虚しく反響するのみだった。

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