お前は誰だ
「レイヤ?」
ナランが彼の名を呼ぶ。その声に、零夜は反応しない。零夜には聞こえていたし、零夜の肉体を使っている「彼」にも聞こえていただろう。だが、無視した。
「彼」は、もう充分すぎるほどに弱りきった楔を見下ろし、さっき抉ったばかりの肉に再び指を触れた。その奥に、まだわずかな輝きが残っていることを「彼」は知っている。
「さて、封印するか」
外野がうるさくなる前に、さっさと済ませてしまおう。
反撃も逃走も叶わず、楔は巨体を大きく震わせた。満身創痍の異形のものが、小さな子供がイヤイヤをするように非力な拒絶を繰り返す。奇妙に滑稽な光景だった。「何がそんなに嫌なんだ?」と、彼は意外に優しい声で問いかける。
「確かにお前は美しい。この
楔は絶望的な瞳で「彼」を見上げた。加虐の悦びに口端を歪める男。これがミトラの王であるというならば、なんという暴君だろうか。
「恐れることはない。思い出してみろ、肉塊だった日々を。大地の下で、ただ代謝を繰り返すだけの存在だった、長閑の日々を。暗く温かな地層の寝所に、恐ろしいことなど何もなかっただろう。今のほうが、よほど何もかもが恐ろしいだろう?」
「彼」の指先が触れると、表皮はまるて焼きごてを押し付けられたように赤く腫れ焼けただれる。水ぶくれがぶちゅりと潰れ、濁った膿が垂れ落ちる。度重なる辛苦にもはや神経は麻痺し、いかなる痛覚も感じ得ないかと思われたが、現実は全く容赦がない。指は表皮から真皮へ。そしてその先へ。これまでの上をいく激痛を伴いながら、楔の体表を突破していく。
しかし第二関節が埋もれるか埋もれないかというところで、楔を侵す手を、細い雷撃が叩いた。
軽い脅かしのような一撃に、しかし「彼」は動きを止める。雷撃の元を視線で辿れば、褐色の肌に土埃と汗をこびりつかせた男がこちらを睨みつけていた。キヤは足早に近寄ってくると、零夜の――「彼」の胸ぐらを掴んだ。
「お前……誰だ?」
キヤが低く問う。「零夜じゃないな?」
「彼」が笑った。取り繕うつもりもないようだった。
「はて、人間とは見た目でのみ個体を識別する生きものだと思っていたが……存外、そうでもないらしい」
「空気が違いすぎるんだよ。もう一度訊く。お前は誰だ? レイヤに何をした。楔を……どうするつもりだ」
小首をかしげ、「彼」は襟元を掴むキヤの手を振り払う。そして次の瞬間、鈍い音をたてながら、零夜の爪先がキヤの腹に食い込んだ。
衝撃に呼吸が止まったのか、キヤは声もなく腹をかばいながら前のめりに倒れる。慌ててトモルが零夜に矢を向けるが、その場にいる誰も、弓矢が通用する相手ではないと直感していた。
(やめろ!)
閉じ込められた意識の最奥から、零夜は叫ぶ。しかし声だけでは、肉体を支配する「彼」を止めようがない。「彼」は零夜の叫びも、自分に向けられた鋭い矢先をも気にとめず、うずくまっているキヤの顎の下へ爪先を差し込み、自分の方を向かせる。
「態度がなっていないが、気概は大したもんだ。まあそう息巻くな。お前たちに力を貸しに来たんだ、ありがたく思え」
並の相手ならば、「舐めやがって、上等だ」と啖呵を切るのがキヤのやり方だ。しかしこの時、キヤの思考も身体もほとんど硬直しきっていた。それは生物としての本能に近い。圧倒的な暴力を前に、全ての自由意志は放棄される。
本能レベルの降伏に、「彼」は「それでいい」と満足そうに笑うと、視線をトモルへと送った。
「アランジャの。お前たちはどうせ、楔を討ち肉体を埋めることで簡易的な封印とするつもりだったんだろう? それじゃあ駄目だ、雑すぎる。俺が正しいやり方を教えてやろう」
「彼」は今度こそ、再び楔の肉体を抉った。
耳を覆いたくなるような絶叫。
『やめてくれ! いやだ! やめろ――やめろ!』
楔が懇願する。それがまるで聞こえていないように、彼は「骨で補強した方が良いんだが」などとひとりごちる。足元では、まだ腹を抑えてうずくまったままのキヤが、視線だけで事の成り行きを見送っている。
「ああ、あった」
零夜の腕は根本まで楔の肉に埋まり、指先は小さな粒を掠めた。
核と言うには余りに拙(つたな)いが、同じ輝きを持つ熱い粒。あと千年か……それ以上の年月を積み重ねれば、核とも並ぶ力を持ち得る、生命の根源。
『王……ミトラの王よ……どうか、御慈悲を……』
ついに楔が命乞いの言葉を口にした。もはやすすり泣きに近い声に神としての威厳など少しも残っておらず、場の危機的状況さえなければ、人間たちも楔に同情を禁じ得なかっただろう。『王よ……我らの王よ……』
「彼」は右手を楔の身体に埋めたまま、顔を寄せ、火傷に覆われた表層に唇を近付けた。植物の焼ける匂いが鼻先をかすめる。その香りに含ませるようにひっそりと、「彼」は呟いた。
「悪いが――ミトラの王は、俺じゃない」
そして、指先に触れていた小さな生命の粒をつまみ、一気に引き抜いた。
楔の断末魔は、長く大気を引き裂いた。ミトラたちは――沼のミトラだけでなく、山や平原に住む大小様々のミトラたちは皆、その叫びに身を強張らせた。夜に聞く怪鳥の声のような――或いは、誰も居ないはずの暗がりから聞こえる衣擦れのような――原初の恐怖を煽る音。
あるミトラは固まったまま本能的擬死状態となり、あるミトラは素早く巣穴に身を隠す。木々までもが、その葉をすごすごとしぼませ、脅威から身を引いたように思える。そんな叫声だった。
生命としての本質を引き抜かれ、楔の肉体は見る間に形を失い、溶け落ちていく。表面には象牙色の液胞が泡立ち、弾けては溶け、膿んだ肉塊へと成り果てる。
「この世界は不安定だ。自と他、内と外、生と死の境界は常に浮動している。それを繋ぎ止めるものが楔。世界を正しい姿として固定し、境界を保つための神の道具に過ぎない。それが身の程知らずにも自我を肥大させるから、無為な苦痛を味わう羽目になる……」
微笑む「彼」の指先で、緑色の宝石の粒が光っている。先ほど胃臓に収めた核とは比較にならないほど小さいが、確かに規則的な脈動を繰り返している。
「彼」は粒を高く掲げ、
するとそれに呼応するように、煌めく緑の粒は細く長く形を変える。先細りのそれは、まさしく楔のようだ。
「彼」は地に膝をつき、ナメクジのように這い逃げようとする肉塊へ、緑の楔の先端を向けた。
楔の先端が肉塊に触れた瞬間、木槌を叩くような、軽やかな音が響いた。
その音は長く反響し、四方へとこだまする。澄んだ緑の四角錐は、つい今しがたまで神であったはずの肉塊を貫き巻き込みながら、地面に吸い込まれるように埋没していく。
『いやだ……』
すすり泣く声をかき消して、木槌の音が鳴る。無情に、無機質に。深く穿たれるたびに音は大きくなり、波紋のように広がっていく。
何打目からか、木槌の音に高く清らかな鈴の音が混じるようになった。それが合図であったのか、四角錐は地上へ向かって触肢を伸ばし始める。それは互いに絡み合い捻れ合って、見る間に澄んだ緑の石柱に変化していく。
地下へ。同時に、地上へ。地と空を繋ぎ止めるように楔が穿たれる。
神を封ずる工程を、ナランたちは固唾を呑んで見守っていた。「彼」の威勢に圧倒され動けないのではない。封印の言葉を紡いだ「彼」の声、所作、木槌と鈴の音、そして高くそびえる透明な緑の柱……その全てが余りに神々しく――ただただ、魅了されていた。
やがて最後の一打を終えると、全ての音が途絶え静寂が戻る。風の音、ミトラの蠢く音すらない、真の静寂だ。
「封印された……のか……?」
恐る恐る呟いたのはトモルだ。「楔はどうなった? この地は……どうなるんだ?」
答える者はない。否、答えられる者がいなかった。ただ一人の男を除いて。
「もちろん、封印されたとも。封印というより正しく穿たれたと言うべきか。本来、ただの道具である楔がああして動いて喋ってる方が不自然なんだ」
満足げに笑いながら、「彼」はトモルの疑問になんなく答える。
「本来あるべき姿に戻っただけだからな、土地が痩せることもないだろう。生贄を捧げる必要もない。良かったな」
「……」
閉口し、トモルは零夜の姿をした何者かを睨んだ。生贄を捧げようとしていたことは、アランジャ族の中でも一部の者にしか知らされていないはずだ。そのことまで知っているとは、この男は一体何者であるのか。考えても、その正体に一切の心当たりがなかった。
「さて、それで……」
口元に笑みを残したまま、「彼」は言う。
「あとは、お前たちが死ねば万事解決というわけだ」
軽く流すような言葉に、その場にいた全員が自らの耳を疑った。「何だって?」トモルが訊く。
「物事には対価が必要だ。要は――供物だな。まさか労せず恩恵のみを得たいなど、厚かましいことは言うまいな?」
子供に当然の摂理を言い聞かせるように、彼は穏やかに言った。表情はそのままに、口の中だけで「うるっせえな」と呟いたのは、彼の意識の奥で身体の持ち主が抗議したためだろう。しかし「彼」はそれを意にも介さない。その手に青い炎が宿った。
「じっくり時間をかけて
冗談のつもりなど毛頭ないであろうことは、まとわりつくような殺気と悪意によって嫌でも理解させられる。
「……っクソが!」
零夜の足元にうずくまっていたキヤから、白い閃光が
「
空気を引き裂く音と共に雷光が放たれる。零夜の身体を直撃する軌道を描いていたそれは、しかし青い炎の噴射によりあえなく霧散する。
「彼」は無駄な抵抗を嘲笑いながら、キヤが伸ばしていた右腕を、零夜の足をもって思い切り踏み抜いた。鈍い音と共に、肘の関節がおかしな方向に折れ曲がる。
「……なるほど、一番手に名乗り出るとは健気なもんだ」
矢、斬撃――キヤを救わんと放たれたあらゆる援護は、全て青い熱の前に無力化される。
痛みに呻きながら、キヤは自分を見下ろす男に視線をやった。右目に痣を持つ、軟弱で気弱な青年。ここ数日を共に過ごし、作り笑いの下にある人となりをようやく覗けるようになってきた。卑屈なまでに控えめで、人見知りの激しい――しかし優しい、優しい青年。
今、彼の瞳には彼のものではない人格が宿り、彼の肉体をもって殺戮を行なおうとしている。
「レイヤ」
死の実感に背筋を焼かれながら、キヤは「彼」の奥の彼に呼びかけた。
「レイヤ、頼む……目を覚ませ」
「彼」の意識の奥で、零夜はありったけの力を振り絞って叫んでいた。命乞いをしていた。自分の手で彼らを殺させないでくれと、懇願していた。
しかしそれが聞き届けられることはない。「彼」の支配を振りほどくほどの力も、零夜は持ち合わせていない。ただ子供のように、狂人のように泣き叫び喚き散らすことだけが、今の零夜に許された自由だった。
手のひらの炎が、いっそう青く燃え上がった。その熱は間違いなくキヤを捉え――
――やめろ!
意識下で、零夜が叫ぶ。
その叫びに呼応するように、「彼」が動きを止めた。「彼」が零夜の懇願に応じるはずがない。「彼」はただ、炎を宿す右手を凝視していた。いかなる攻撃も焼き尽くすはずの青い炎を貫通して、右手のひらには鋭い矢が突き刺さっている。
「何だ? 誰が――」
二の句を継がせぬ間に、二本目の矢がヒョウッと音を立てた。「彼」が身を守ろうと燃え上がらせた炎をものともせずに、まっすぐに飛来する象牙色の矢は、しっかと「彼」の肩に突き刺さる。
意識の片隅にある零夜も、矢じりのもたらす痛覚を感じていた。身体の支配権が零夜にあったならば、零夜は痛みに声を上げうずくまっていただろう。しかし「彼」にとっては、痛覚など取るに足らない感覚でしかないようだ。
二本の矢を乱暴に抜くと、やはり傷は瞬時に塞がる。幾らか流れた血液を気に留めることもなく、「彼」は辺りを見回して射手の存在を探る。
果たしてその網膜に映ったのは、青い髪をなびかせる少女の姿だった。
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