ミトラの王
ティエラは小さく舌打ちをした。矢を二本も受け、なお平然と対処されるとは思ってもいなかった。
「
ティエラが呟くと、彼女の手の中に三本目の矢が現れる。自らのイマジアによって生み出される矢は、あらゆる障害を切り裂いて飛んでいくことをティエラは知っている。彼女に迷いはない。
矢が弦を離れ真っ直ぐに飛んでいく。純白の矢は、しかし零夜の抜いた短刀により軽く弾かれてしまった。
「やっぱ不意打ちじゃないと駄目か」
彼女の視界には倒れ伏したキヤと、外周から援護をかけようとする同朋たち、そして彼らの前に敵として立つ「零夜」の姿が映っている。
「ティエラ、どうしてここに!?」
ナランが、ほとんど叫ぶように言う。「営地からここまで、半日以上は――」
「事情は後! とにかく早く楔の所に行けって言われたから、速歩(はやあし)のリクザに乗せてもらってここまで来たの」
「言われたって、誰に?」
「カルムの遠見よ! それから――」
もう! とティエラは切羽詰まった声を上げる。
「事情は後だってば。今はあれを何とかしなきゃ。そうでしょ?」
白磁の矢に狙われながらもなお、「彼」は余裕を纏ったままフンと鼻を鳴らす。
「またずいぶん活きのいいやつが来たな。供物が増えて、俺としては喜ばしいことだが」
挑発的な言葉にもティエラはひるまない。それどころか威勢を前面に押し出して零夜を――零夜の姿をした「彼」を睨みつける。
「ティエラ、手を出すな! 敵う相手じゃない!」
トモルが忠告するが、ティエラは狼狽えない。「手を出すなって言ったって、もう三本も撃っちゃったもの!」ティエラが叫び返す。
「私、知ってるわ。あなたはレイヤじゃない。あなた……『アイラ』でしょう」
零夜のこめかみが小さく痙攣した。
「なぜ?」
なぜそう思うのか。なぜ知っているのか。「彼」は、意味をどうとでも取れる曖昧な問いを口にする。
「教えてもらったのよ」とティエラは肩越しに視線を投げた。彼女の背後には、ここまで彼女を連れてきた、
子供かと思えるほど小柄な影。
「放っておくと、アイラは何をするか分からないからね」
その声を聞くなり、「彼」――アイラは、これまでの威厳と風格はどこへやら、一転して子供のように幼稚に口を尖らせる。
「何だよ、待ってろって言ったのに。結局来たのかよ、ハロ」
「やっぱり骨があった方が良いと思ったから、追いかけたんだけど……来て正解だった。アイラ、この人たちのこと殺そうとしてたでしょう」
小さな影が、顔を隠すフードを取った。黒い布の下から出てきたのは――美しい相貌だった。
月並みな表現だろうと、「美しい」のほかに表現すべき言葉がないほどに美しい。
銀色の髪は月明かりの煌めきを帯び、顔の左半分を覆い隠している。髪の隙間から覗く瞳には、氷河の重なりのごとく澄んだ蒼が、清廉に佇んでいる。肌は陶器に似てきめ細かく透き通っており、そこにほんのりとさした血色が、見る者に無垢と妖艶とを同時に訴えかけた。
何より外見だけでなく、その瞳、醸し出す空気そのものに、吸い込まれそうな引力があった。深い海を覗き込んだとき、底の底の方から手招きをされるような――泡とバクテリアの渦巻く温かな潮流に、心ごと溶けて混じり合ってしまうような――昏くも、抗いがたい魅力……。
苦しさを覚え、意識が弾けるように、ナランは大きく息を吸い込んだ。呼吸を忘れていた。心臓は早鐘を打ち、血流は音を立てて全身を駆け巡る。魅了の海から引き戻されてしまえば目の前の存在は、あまりに美しすぎるがゆえ、得体の知れない、恐ろしい何者かに見えてならなかった。
後ずさると、足元で小枝が弾けて音を立てた。その音に、隣にいたトモルがビクリと肩を震わせる。きっと誰もがナランと同じ、恍惚と恐怖とを感じているに違いなかった。
「駄目だよアイラ、無闇に人間を殺したら。可哀想でしょう」
「可哀想なもんかよ。人間なんて
ハロに睨まれ、アイラはばつが悪そうに口をつぐむ。何ものをも踏みにじるような横暴さはすっかり消え失せ、ふてくされながらもすっかり素直だった。
アイラは零夜の姿のまま、自分に向けられた人間たちの視線――とりわけ厳しく光る、青い瞳を流し見た。彼女の持つ弓には、いつの間に顕現させたのか、四本目の矢がつがえられている。
「レイヤの身体から出ていきなさい」
「言葉遣いがなってねえな」
ティエラに突っかかろうとするアイラを、彼の名を呼ぶハロの声が牽制する。アイラは露骨に舌打ちをし、ティエラに向かって手招きをした。
「返してほしけりゃ……お前、こっちに来な」
「……」
有無を言わさぬ態度に、ティエラは逡巡ののち一歩を踏み出した。ナランが彼女の名を呼び警告するが、ティエラはそれを横目に流す。「大丈夫」と、ナランに言ったのか自分に言い聞かせたのか、彼女の唇がそう動いた。
嘲るように笑む瞳を真っ直ぐ睨みながら、ティエラは弓を降ろし、零夜の顔をした暴君に歩み寄る。
間合いに入るや否や、彼の手はティエラの手首を捉えた。強く腕を引っ張られ、ティエラは前のめりに倒れ込む。それを受け止める胸板を押し返そうとするが、抱き寄せる腕が拒絶を許さない。
「は、離して!」
「顔をよく見せろ」
乱暴に顎を掴まれ嫌々上を向くと、黄金色の瞳が、ほとんど覆いかぶさるようにティエラを覗き込んでいた。零夜の瞳は、もっと冬の乾いた下草のような枯茶色だった。
人食いのミトラから助けられたときにも、同じ腕に同じように抱きとめられたことを思い出す。瞳の色を除いて、見た目は全く同じ。それなのに今は、どうしても背筋のひび割れそうな怖気を振り払えない、ティエラは細い喉を上下させ、生唾を飲んだ。
「……女神にはあんまり似てないな。色だけか」
無遠慮にじろじろとティエラを眺め回したあと、ようやくアイラは彼女を捕まえていた両手を放し、背を一突きした。「きゃっ!」と短い悲鳴を上げて、ティエラは地面に倒れ込む。そこはちょうど、楔の封印された宝石柱の目の前だった。
「このままでも充分ではあるんだが……封印を完遂するには、女神の骨が必要だ」
「ほね……?」
「そうだ」アイラは片側の口端をやけに釣り上げて笑った。「お前の骨さ」
へたりこんだままのティエラの顔に、それを見下ろすアイラの影が落ちる。逆光の中に浮かび上がった彼の背には、弱者をいたぶる悪意の影がくっきりと頭をもたげている。
「あ……」
殺される。
そう直感したティエラが後ずさろうとしたとき、パシッという小気味の良い音と共に「あいたっ」とアイラが後頭部を押さえた。
「ハロ、痛い」
振り向いて抗議をするアイラに、いつの間にかアイラの背後に忍び寄ったハロが呆れ返った顔で溜め息をついた。
「アイラ、わざとやってるでしょう」
返事を待たず、ハロはティエラに手を差し伸べる。
「怖がらせてごめん。きみの命を脅かすようなことはしないよ」
その手を取る。黒い手袋をしたハロの手は、布地の上からでも華奢なのだろうことがよく分かる。
「いいかい、楔は既に封印されたが、それが解かれないようにするには『女神の骨』……きみのイマジアが必要なんだ」
「私のイマジア?」
驚きのあまり訊き返すと、ハロは静かに頷く。「だからわざわざ、きみをここに連れてきた」
「でも……女神の骨、だなんて……私、今までそんなこと言われたことないわ」
「ぼくたちしか知らないことだから。前の骨は、もう朽ちてしまって使い物にならなかったから、きみを見つけられてよかったよ」
ティエラのこめかみにハロの指が当てられた。「目を閉じて」と言われるままに、ティエラは瞼をおろす。
不思議な感覚があった。カルムの遠見をするときに、対象と接続する際の感覚に近い。自分と世界とが溶け合っていく。そうしてティエラの脳裏に割り込んできたのは、鮮明な視覚情報だった。
青――青い光の中に、まさにここにあるような巨大な宝石柱がそびえ立っている。ただ、その宝石柱は緑色ではなく青色だ。周囲が青いのか、それとも宝石柱が発する光により何もかも青く染められているのか、どちらなのかは分からない。硬質な乳白色が、青の表面に網目を描いて広がっている。それは柱を支えているようにも見えたし、成長を続ける青を抑え込んでいるようにも見えた。
「分かった? あれが女神の骨。楔の封印を確固たるものとし、楔が自我を持たないように押し込める
こめかみから指が離れると、脳裏に描かれたイメージも霧散する。ティエラは目を開け、目の前の宝石柱を見上げた。
古くからアランジャ族を守ってきた神が、ここに封印されている。
ティエラは楔と直接の接触は持たなかったが、
「そうしなきゃ、アランジャ族は生き残れないのね?」
「多分ね。根を張った憎しみは、そう簡単に消えることはない。生半可な封印ではいずれ力ずくに破られ、増長した怒りが再びきみたちを襲うだろう」
「……分かったわ」
ティエラは視線をナランとトモルに向けた。本来ならばバータルに意見を求めるべきだが、彼はまだナランに支えられたまま意識を取り戻していない。二人とも、無言で頷いた。選択の余地はない。
再び宝石柱に向き直る。表面を触ってみると、わずかに温かく脈打っている。
(生きてるんだわ)
目尻から溢れた涙が、ティエラの柔らかな頬を伝った。
「
震える声で唱えると、ティエラの手を起点に、乳白色の「骨」が顕現する。ハロに見せられたイメージの通りに。格子状に広がり宝石柱を包み込む白は、丁寧に編まれたレースを彷彿とさせる。
もし自分が、こんな山奥の、深く暗い地中に封印されたら……。誰の記憶や記録の中からも、やがて擦り減り目減りして忘却されるほどの永劫の時を、たったひとりぽっちで刻んでいく。静謐な拷問とも言える時間を過ごすことになったら……。
そんな「もしも」を想像し、ティエラはふたすじ目の涙を流す。
牢獄か、あるいは墓所か。骨のレースは、ひとつの自我を大地の奥底へと押し込めるべく、美しく繊細なひだを伸ばし続けた。
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