封印


 柱が完全に骨に覆われる様子を、誰もが息をひそめて見守っていた。やがて宝石柱から漏れ聞こえていた楔の声――いやだ、いやだと拒絶するか細い声が聞こえなくなると、ティエラは大きく息を吐き右手を下ろした。

「よーし。いい子、いい子。上出来だ」

 頭を撫でられ、ティエラの肩が跳ねる。その手――零夜の手ではあるが、零夜はこんな風に不躾にティエラに触ったりしない――を払いのけると、アイラはおかしそうにクスクス笑う。

「そう邪険にするな。お前のことを気に入ったと言ってるんだ」

「お断りよ。それより、さっさとその身体をレイヤに返して。約束でしょう」

「そうだな、約束は守る。やるべきことを済ませたらな」

 離れ際にティエラの青い髪を指で梳いて、アイラは背後を振り返った。そこに立つハロの顔には、未だアイラへの非難が表れている。


「何でアイラは、いつも人間を怖がらせるの」

 追及をかわすように、アイラは肩をすくめた。

「そう怒るなって。ちゃんと楔は封印したし、核も回収しただろ」

 ハロは小さく溜め息をつきながらも、彼のもとに歩み寄り腕の中に収まる。小柄なハロを見下ろすと、銀糸の睫毛がまばたきに合わせて繊細な軌跡を描いた。

「ほら」

 アイラが呼びかけると、ハロは小さくため息をつきながらも、少し上を向いて口を開けた。零夜の唇に、温かく柔らかい感触が添えられる。


 ハロとキスをしている、と実感のないままに、零夜は身体的感覚だけを受け取っていた。

 ついばむ唇同士は唾液と体温を滲ませ合い、合間につく吐息からはかすかに海の匂いがする。零夜の指先が、ハロの滑らかな頬を撫ぜた。これまでに感じたことのないような、全身を絹地の布で包まれるような快感があった。身体の奥底から、何かがせり上がってくる。それは光であり、熱だった。

 口腔内に溢れた光を舌に乗せ、ハロの口内へと送り込んだ。少し体温が低いのか、いつまで触れていてもひやりと冷たいままのハロの肌に、ほんのりと赤みがさす。

 ちゅ、とささやかなリップ音がした。粘膜は名残惜しそうに互いに引き合いながら、ようやく二人の唇が離れる。ハロが熱い息を吐いた。

「ん……小さいけど、確かに核だ。ありがとう、アイラ」

 礼を言われ、アイラは微笑んだ。小馬鹿にした笑みでも、相手を威圧するための邪悪な笑みでもない、純粋な喜びに満ちた微笑だ。

「じゃあ、やることやったし――青いのも怒ってるし、俺は帰る。供物を受け取り損ねたのは残念だが……」

 艶めかしい行為に魅入っていた人間たちを一瞥したあと、黄金色の瞳は少女の姿を捉えた。女神の色をまとう少女は、敵意を隠すことなくそれを睨み返す。

「じゃあ、

 零夜の瞳から、輝く黄金が抜け落ちた。


 一瞬視界がホワイトアウトし、そして零夜は唐突に表側に引っ張り出された。零夜の身体は零夜だけのものであり、そこに他者は介在しない。ようやく零夜の自由意志を反映するようになった肉体は、妙に重たく感じる。

 アイラという横暴が失せ、その場に張り詰めていた緊張が融解した。ティエラとナランは倒れているバータルとキヤに駆け寄り、容態を確かめる。二人とも重傷ではあったが、今すぐ命に関わるような状態ではないようだった。

 よかった、と手を取り合う人間たちの光景に、無感情な顔をわずかにほころばせるのがハロだ。

「あの……」

 その美しい横顔に、零夜はこわごわと声をかける。「あなたが……ミトラの王?」


 ハロの、氷のように澄んだ瞳が零夜を見た。微笑んだつもりなのか、口元がわずかに釣り上がる。

「そう言う者もいる。でも、きっときみのことを王と呼ぶ者もいる。だから僕は王だし、王じゃない。きみが王かもしれない」

「えっと……」

「呼び名なんてそういうものだろう? それよりきみ、アイラが好き勝手にやって悪かったね。あれはどうにも、いたずらが過ぎる」

「いたずらって……」

 彼は、アイラは、恐らくハロが来なければここにいる人間を皆殺しにしていた。あれは悪ふざけでも脅しでもなく、完全に本気だった。それを「いたずら」の一言で済ませてしまうハロにも、アイラと同じ恐ろしさの片鱗を感じ、零夜は身震いをする。

 しかし怯んでいる場合ではない。彼らには訊かねばならないことがたくさんある。なぜここへ来たのか。なぜ楔の封印に力を貸してくれたのか。なぜ――


「俺を助けてくれたのは、あなたたち、ですよね」

 問うと、ハロは嬉しそうに目を細めた。

「そうだよ。僕の核をあげるつもりだったんだけど、アイラが嫌がったからアイラの核を分けたんだ。上手く適合したみたいで良かった」

「……どうして」

「どうして?」

「俺がどこから来たか……何者か、知っているんですか」

「知らないよ。でも、きみを探してる人がいることは知ってる」

 零夜の頭は、一瞬混乱した。人探しをしているのは零夜の方だ。しかしハロは、零夜「を」探している人がいると言った。この異世界に……。

「誰が、俺を?」

「……イヴ」

 二人の間を風が吹き抜けた。湿った冷たい風は木々を揺らし、ナランやトモルたちの声をやけに遠くに引き離す。


「イヴ?」

 ありきたりだが初めて聞く名を復唱すると、ハロが頷いた。

「知らない? ……そうか。僕はてっきり、きみたちは知り合いなのかと思っていたけれど」

「ま、待って! その人が俺を探してるんですか? なぜ? その人は今どこに? もしかして俺が――俺たちがこの世界に来たのは、その人が何か……」

「さあ」

 矢継ぎ早に浴びせられる質問に、ハロは短く答えた。「僕は知らない。でもきみが無事だと分かれば、きっとイヴは喜ぶ」


 蒼い瞳からは何の表情も読み取れない。隠し事をしているのかいないのか、その目星すらつけられなかった。

 狼狽うろたえている零夜に、ハロもどう接していいのか分かりかねているようだった。困ったように眉根を寄せると、壊れ物を扱うように優しく、零夜の頬に触れた。あの時――腹を破られ死にかけたまま、草原に打ち捨てられていた零夜に慈悲の手を差し伸べた、あの手の感触だった。

「楔を封印するんだ。楔はここだけでなく、世界中あちこちに存在する。楔を大地に打ち込んで――この世界を正しい姿に戻すことが、きっときみにとって良い結果をもたらす」

 ハロは唇を寄せ、零夜の頬に触れるだけの口づけを落とした。ついさっきのキスを思い出し、零夜は耳まで真っ赤に染まる。

「じゃあ、また……ね」


 零夜が瞬きをした、ほんの一瞬の出来事だった。ハロの姿は忽然と消え、あとには潮の薫りが残るのみだ。まるで夢を見ていたような虚無感に襲われ、零夜は脱力し膝をつく。

「あれ?」その音に、バータルの手当をしていたティエラが顔を上げた。「ハロさんは? 私、あの人にお礼を言わなきゃって思ってたのに……」

 零夜は力なく首を横に振った。楔を封印するんだ。ハロの言葉が呪詛のように、零夜の頭の中に渦巻いていた。


(ああ、でも、終わったんだ)

 零夜は脱力した重い身体を引きずり、気がかりだったキヤの元へと行く。彼の腹を蹴り上げた感覚や、彼の腕を折った感覚が、まだ生々しく身体に残っている。

「キヤ……」彼の名を呼ぶと、キヤは額に脂汗を浮かべながら「よう」と応じた。

「ようやく戻ってきたかよ」

「ごめん、俺……」

「お前じゃない」キヤは短く言った。「お前じゃなかっただろ」

 救われる思いと、罪悪感とが拮抗する。確かにキヤを傷付けたのは零夜ではないが、一番間近で見ていながら止められなかったのは、間違いなく零夜だ。ごめん。繰り返す謝罪の言葉は虚しく響く。

「お前、すぐ謝るよな」

 呆れたように、キヤが笑った。



 怪我をした者にはある程度の応急処置を施し、誰にも命の危険がないことを確認した。誰もが、困難はもう全て終わったものだと決めつけていた。いくらか安堵した空気が戻り、さあ山を降りようとしたその時、楽観的な期待を裏切るように、ふいに森がざわめいた。

 ナランが手負いのバータルをかばいながら、注意深く周囲に視線を巡らせる。森の木々の向こう、日の届かぬ濃い緑の闇の中に、怒りに浸されたものたちがいた。

 緑の目玉をぎょろつかせ、興奮状態のためか、泥の表層はふつふつと泡立っている。弾ける気泡からは、黄土の色がついているのではと錯覚させるほどの濃密な臭気が溢れ出す。充満する、虫や小動物やミトラの死骸とが腐って混じり合ったような、醜悪な臭い。

 泥の奥底から湧き出した「死」そのものが、地上の生あるもの全てを妬みそねんでいるようなおぞましい臭気が、地を這って零夜たちを覆い込む。

『くさびがいなくなった…』『われらのかみが』『にんげんに、ふういんされた』

 零夜のおとがいを汗が伝う。神の喪失に、森全体が嘆き憤っていた。

『ひどい』『ひどいよ』『わるいにんげん』


 ぼたり、と零夜のすぐそばの地面に何かが落ちた。黄土色の泥の塊だ。

 上を見上げ、零夜は「うっ」と呻いた。木々の梢から身を乗り出すように、無数の瞳が――泥のミトラたちが、楔のかたきを見下ろしていた。

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