怒れる泥流
ゆるさない。ゆるさない。
ひとつひとつは小さな怨嗟の囁きは、さざなみのように零夜たちに吹き寄せる。ミトラの言葉が解らない者たちも、寄せる音の波を肌で感じていた。そこには身の毛のよだつような憎悪があった。
どす黒い波紋が寄り集まり、ついには津波となったとき、沼がうねった。
動ける者は皆、誰もが泥のミトラの襲撃を予期し、それぞれの武器を構え交戦に備える。だが――憎悪の沼は彼らを素通りした。いくつもの荒れ狂う波たちが互いを飲み込み押し合いながら、黒々とした森へ向かって鎌首をもたげる。
零夜はその先を視線で追う。山肌を覆う厚い木々の層を越え、暴風に荒れた砂礫帯をも越えた、更に向こう……。彼らの意図に気が付いたとき、零夜の背中から首筋にかけてぞわりと悪寒が走った。頭に浮かんだのは最悪の想像で、そして恐らくその予感は正解だった。
「ふもとを狙う気だ!」
零夜が叫ぶのと、渦を巻いた沼が形を失って流れ落ちるのと、ほぼ同時だった。
位置エネルギーを味方につけた彼らが、意思をもってふもとへと駆け下ればどうなるか。薙ぎ倒された木々や土石は濁流の体積をいよいよ増やし、やがて沼のミトラたち自身にも止められぬ怒涛となるだろう。根ごとさらわれた巨木は家屋を押しつぶし、岩を砕く。砕かれた岩は
牧草に覆われた穏やかな沖積地は、瞬きの間に地獄絵図と化すだろう。ミトラたちは怒りにまかせ、アランジャ族を営地ごと滅ぼすつもりなのだ。
自分たちの質量それそのものを暴力として、泥のミトラたちは山津波のごとく山腹を駆け下る。砂礫帯を越え、アランジャ族が生活を営む平野を目指して。
トモルが懐から黄色い野花を取り出した。茎を千切り花がくを口に咥え、強く吹く。甲高い、耳にするだけで気持ちを不安にさせるような音が響いた。ふもとへの警告だ。襲い来る脅威、避けようのない災厄をわずかでも防ぎ、少しでも逃げろと促す警報だ。
だが、それが気休めにもならないことは一目に分かった。泥は数刻のうちに営地へ到達するだろう。アランジャの人々が牧草の向こうに驚異を認め、逃げ出すのにどれほどの時間がかかるだろう? そもそも、一体どこに逃げるというのか? 広く平坦な牧草地で、中途半端な高台に逃げたとしても、意思を持った泥は追いかけてくるだろう。あの無邪気で無力な子供たちを抱えて、一体どこまで逃げられるというのだ?
零夜が悲観に飲み込まれているその瞬間にも、泥は地中から際限なく溢れ出てくる。まるで大地そのものが融け出しているようだった。
「レイヤ!」
名を呼ばれて、零夜の身体がびくりと震えた。顔を上げれば、いやに落ち着いた表情のナランと目が合った。
彼が考えていることに、零夜自身も思い当たっていた。零夜の放つ青い炎は、泥のミトラを一瞬で無力化し灰にした。行く先にあるもの全てを破壊せんと流れる泥たちを、もし全て焼き尽くすことが出来たなら――。
名を呼んだ以上は、ナランは何も言おうとしない。しかし何か言われるよりむしろ、その沈黙こそが零夜を鼓舞した。
「……あの泥に追いつかなきゃ」
何か策はないか、という目つきで見回すと、ずっと後ろに控えていた男が手を挙げた。零夜たちが半日以上かけて登ってきた道を、ティエラを連れて数刻で踏破した――
「少し降りた所に馬をつけてある。馬と俺のイマジアがあれば、あの泥と並走できる」
だが、とリクザは続ける。
「速度を出すなら、乗せられるのは一人だけだ。あんた一人で大丈夫なのか?」
体格も顔つきも、見るからに頼りなさそうな零夜に不安があるのだろう。震える唇を舐め、一瞬の間ののち零夜はうなずいた。
「俺にしかできない」
異論を唱える者はいなかった。
さんざ風に煽られて、顎の留め具でようやく頭に引っかかっていたような帽子を脱ぐと、外気の清涼さに耳がじんと痺れた。出来るだけ身軽に。かなり冷えるが、上着も脱いでしまう。帽子と一緒に丁寧に丸め、ナランに手渡した。ナシパにこの上着を貰ったのが、遥か昔の出来事に思える。
目を閉じると、営地で待つナシパやユーイの顔が浮かんだ。彼女らは皆、零夜たちがきっと事態をよくしてくれると信じて、今日もいつもと変わらず火を焚き、糸を紡いでいただろう。警報を聞いて、もう避難を始めているだろうか。
彼女らの腕が、足が、無残にも泥と土の下から突き出ている光景が、幸福な彼女らの顔を上書きする。零夜は
「頼むぞ」
トモルが、零夜の手を強く握った。グローブを嵌めたように厚く硬いトモルの手のひらは、じっとりと汗ばんでいる。強張った頷きでそれに応え、零夜はリクザの後ろについて馬にまたがった。振り落とされないようにと、リクザと零夜の胴がベルトで繋がれる。
リクザが呪文を唱えると、馬ごと彼らを包むように風が舞った。
「前のめりになって、しっかり俺に掴まっていてくれ」
零夜が言った通りにしたことを確認すると、リクザは「ハッ!」と声をあげ馬を蹴った。馬は慣れた様子でいななくと、その一歩を踏み出した。途端、風景が急激に変わる。耳元で風が鳴り、身体が後方へ引っ張られる。
リクザの
見る間に森を抜け、零夜の頭上にまっさらな空が広がった。いつの間にか日は大きく傾いており、空は夕焼けに向けて西を染め始めている。
「見えたぞ!」
進行方向に泥の塊が
零夜は大きく息を吸い、右手を泥の怪物へ向けた。大丈夫だ、と心中で呟く。アイラに身体を乗っ取られたおかげで――炎の使い方は感覚で理解できた。
イメージするものは、炎の柱。
零夜の手に熱が集中し、次の瞬間、青い炎柱が怪物の尾を焼いた。泥の塊は一瞬だけ縮こまり、すぐに威嚇のため体積を膨張させる。その触肢に捕まらないよう、リクザが馬の進路を左へ逸らした。零夜がバランスを崩すと、炎は煙を噴きながら掻き消える。泥のミトラが妨害者の存在を認識した。
『じゃまをするな!』
怪物から長い腕が伸び、馬を捕まえようとする。「ヤッ!」リクザが馬の腹を踵で叩くと、馬は驚くほど軽やかに跳躍し腕の襲撃をかわす。
零夜は振り返り、たった今飛び越えたばかりの泥の腕に焦点をあてた。炎柱ではなく、もっと駆動性の高い形にしなければ、あれは燃やし尽くせない。
少し考えて、零夜は再び右手を上げた。イメージするものは、鉤爪のついた楔の触手だ。あれだけ間近に見たものならばイメージも容易に出来る。
零夜の手の平から細い炎が溢れたかと思うと、それは見る間に太く成長し、泥の怪物へ炎の鉤爪を振りかざした。
怪物は怒りに支配され、もはや意味をなさない絶叫だけを吐き出し続けていた。自分が何のために原を駆け下りているのか、それすら忘れているのかもしれない。ただ憤怒と破壊衝動のままに突き進み、目の前の小蝿を押しつぶさんと猛追する。
零夜は炎の鞭を掴み、大きく横に振った。火の粉を散らしながら
「リクザ!」零夜が叫んだ。「跳んで!」
一、二歩の遊びのあと、馬が再び跳躍した。タイミングを合わせて、零夜は全身の力を込めて右手を引く。濁音混じりの悲鳴が響き渡った。
縄状の炎に締め付けられ、外殻を持たない泥の怪物は弾け千切れる。小さな塊は青に燃え尽き、いくらか質量を持って千切れた塊は、背を炎に舐められながら牧草の影にぼたりと落ちた。
――静寂。
「やったか……?」
リクザは減速しながら馬を旋回させ、来た道を振り返った。
あちこちから煙が上がり、風があるにも関わらず、腐った泥の嫌な臭いが辺りに充満している。緑の牧草を、赤っぽい橙の夕日が照らし、そこに零夜の青い炎がちらつく。混ざり合う色彩の中に、泥は少しも動かなかった。
「……やったみたいだな。良かった、どうなることかと」
安堵の溜め息をついたリクザの言葉は、不自然に途切れた。彼の身体が大きく傾ぐ。
「うわっ!」
腰に繋がれたベルトに引っ張られ、零夜も彼と共に滑りながら落馬する。
一体どうしたのかとリクザを支える手に、生温かいものがべっとりと付着した。彼の肩から腹にかけて、傷口の荒い裂傷が分厚い上着を染めている。リクザが発作のような咳をすると、草地の上に赤い斑点が散った。
「リクザ! しっかり……」
狼狽える零夜の頭上を影が覆った。顔を上げれば、いくつにも千切れたはずの泥は寄り集まって再び塊となり、零夜を見下ろしている。零夜は声もなくそれを見上げた。泥の中に無数の目玉が蠢いている。
ぎょろり。目玉は零夜の姿から視線を逸らし、夕日が沈みゆく西の空を見た。逆光の中に、白いテントがいくつも立ち並ぶ。アランジャの営地は、もう目視で確認できるほど近い。泥は何度か瞬きをすると、零夜を無視して営地目掛けて走り出した。
考え込んでいる暇などない。腰の短刀を抜き、リクザと自分とを繋いでいる頑丈なベルトを切断する。リクザがまた血液混じりの咳をした。さっきよりずっと弱々しい咳に、零夜の後ろ髪が引かれる。しかし、迷っている場合ではない。
両手を限界まで伸ばし大地を蹴った。泥を振り乱し走り出した怪物の尾に、全身でしがみつく。感覚が鈍いのか、あるいは怒りに支配されているためか、怪物は零夜に気付くことはない。かなり目減りしたとはいえ未だ暴力的な質量を伴い、大地を踏み散らかしながらアランジャの営地へ猛進している。
零夜は振り落とされないよう慎重に、しかし出来る限り急いで、怪物の背に這い登った。泥は硬い部分と柔らかい部分とにムラがあり、零夜の腕は何度か肘まで泥に埋没した。それを引き抜き、また登る。汗が目に入りそうになり、それを拭えば、泥なのかミトラの体液なのか分からない液体が顔を汚す。
ようやく怪物の背に登りきったとき、眼前の営地に人の影が見えた。男たちが横並びに列を作り、迫りくる泥流に弓矢を向けて迎撃の瞬間に備えている。
(そんなものは、こいつには効かない! みんな死んでしまう!)
零夜は短刀を振りかぶり、泥の怪物の頭頂に突き刺した。泥は絶叫しながら反り返り、表層の異物を振り落とそうと身震いをする。突起とも言い難い泥の凹凸にかけていた指が、呆気なく外れた。
零夜の身体が宙を舞う。身長の何倍もの高さに放り出され、夕方の薄ら明かりに混じり始めた星々が、視界に光の線を描く。
胃が持ち上がる浮遊感を覚えながら、しかし不思議と恐怖や焦りはなかった。何をすべきか、それがよく分かっていた。
「
ほとんど直感的に、しかし確信をもって、零夜は呪文を唱える。熱い風が巻き上がった。
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