終結
空に、青い羽根が
高く放り出された零夜の身体は、落下することなく宙に留まっていた。飛んでいる、というより浮いている。その奇妙な事実を、零夜はどこか非現実的な認識と共にあっさりと受け入れた。
青く炎々と燃え盛る炎の羽根は、羽ばたきのたびに地上に熱風を送る。全身を炙られ、泥の怪物は動きを止め、無数の瞳で零夜を仰ぎ見た。
『あ……かみさま……』
緑の瞳に広がった恐怖と畏敬が、みるみるうちに怪物の憤怒を塗りつぶしていく。羽ばたきをもう一度。怪物の周囲の草が自然発火し、橙色の火の粉を飛ばす。営地で弓を構えていたうちの数名が、炎を指差して何かを叫んだ。が、その声が零夜に届くことはない。零夜の耳には怪物の絶叫と泥の跳ねる粘着質な音、酸素を巻き込み空に立ち上る炎のごうという唸りしか聞こえない。
零夜は空中に静止したまま、泥の怪物に向かって両手を差し出した。
あれを、燃やし尽くさなければ。
零夜の意思に従って、背の羽根は空を覆い尽くさんばかりに燃え広がり、まどやかな動きで怪物の全身を包み込んだ。
『あああ、やめて、やめて、やめて……』
泥の怪物は泣きながら、癇癪を起こした幼児が地団駄を踏むように、何度も身体を起こしては大地に打ち付けた。炎はそれを
泥は水分を失い土となる。その土すら熱に負け、砕けて砂となり灰と化す。数秒前までは確かに生き物の身体の一部だった粒子は、炎が作る上昇気流に乗って空を舞い、湿った煙と共に風に吹き散らされていく。零夜はそれを、おぞましく、どこか心細いような気持ちで見つめていた。
これは間違いなく殺戮だ。言葉を話し、悲鳴を上げるものを焼き、命を奪う。人間を殺すのと何も違わない。自分の言葉や指の動きひとつでそれが叶ってしまうことが、零夜には恐ろしかった。しかし、やらねばならない。
両腕を差し出したまま、拳だけを握る。炎の羽根は、ただ一箇所――怪物が泥を固めて生成した、即席の心臓へと収束する。心臓は金属のように赤熱し燃焼への抵抗を幾らか見せたが、やがて膨張し、ポンと間の抜けた音と共に破裂した。
ギャッ、と泥のミトラが発した音は、零夜にのみ理解できるような言葉ではなく、誰の耳にも明確に響いた。それはつまり、踏み潰されたカエルが発する音であり、限界まで絞りきったクリームの包みが発する音であり、熱によって腫れ上がり狭くなった気道を空気が押し通る、そういった物理的な辛苦の声だった。
そして、怪物は完全に沈黙した。千切れた泥の塊が蠢き再生することももはやなく、物言わぬ物体として地面にひしゃげる。
長く細く息を吐くと、零夜の背から生えていた炎の羽根は徐々に小さくなり、やがて軽やかに渦を巻いて消滅した。地上から一メートルほどの高さから、零夜もまた軽やかに着地する――かと思いきや、地に足が着くと共に全身の力が抜けてしまい、零夜は草地の上に倒れ込んだ。
人の声が聞こえる。アランジャの営地から、緊迫した声が近付いてくる。声は零夜の周りを行ったり来たりし、ぶつぶつ呟いたり、何かをがなったりした。
「大丈夫か?」
聞き慣れない声が零夜に問いかける。「向こう……」零夜はすっかり言うことをきかなくなった身体を何とか動かして、気がかりだった方を指差した。「怪我してる……早く行かないと、し、死ぬかも……」
あとはもう、何も言えなかった。疲れ切っていた。男たちは慌ただしい動きで、零夜が示した方向へ馬を走らせる。
泥混じりの汗が沁みたのか、目がいやにごろごろする。まばたけばまばたくほど視界はぼやけ、零夜はそれ以上の視覚情報を得る努力を放棄した。やるだけのことはやったのだ。泥の怪物は死に――自分に出来ることはもう何もない。零夜は目を閉じた。疲れた……。
「レイヤさん……レイヤさん!」
柔らかな手に抱き起こされたのが分かった。閉じた目を開けようとするが、瞼は鉛のように重くままならない。しかし声だけで、それがナシパだと分かった。
「ああ……レイヤさん。無事で良かった……」
ナシパの腕に抱きしめられる。そんなふうにしたら、汚れるのに。零夜はぼんやり思ったが、ナシパは気にしないようだった。
泥と汗と体液にまみれ、疲れに弛緩した身体に、ナシパの体温が沁み通ってくる。急ぎがちな鼓動と呼吸が、ナシパのそれに合わせて次第にゆっくりと落ち着いていった。どれほどの間そうしていただろう、酷く心地良い時間だった。
やがて遠くから、男たちの呼ぶ声がした。「こっちに人を寄越せ! 怪我人を運ぶ!」
「ゆっくり、ゆっくりだ。あんまり動かすな――」「大丈夫だ、誰も死んでない。誰も――」
会話の断片を聞き取って、零夜の喉から嗚咽が漏れた。誰も死んでいない。
「良かった……」
ナシパの腕の中で、零夜は救われたように破顔した。疲れの後を追ってやってきた強烈な眠気が、零夜の意識を深層へと引っ張る。それに抗う気は起きない。とろけるような睡魔に身を預けると、寝息を立てるまでに時間はかからなかった。
夕焼けの最後の
その日イグ・ムヮの一画で起こった変革――楔という名を与えられ、せいぜい千年にも満たない時を神として生きたものの封印は、その地に住む二足の生き物たちにとっては、後々まで語り継がれる出来事となった。
しかし、もっとずっと小さな生き物たち――淡い燐光を放ちながら風のままに流され、時おり葉や小石の上に着地しては小さな目玉で周囲を伺うのみの木っ端のものたちには、知らず関わりのない些末に過ぎない。神が居ようと居まいと続けられる代謝のままに、好き勝手な色にぼんやりと光りながら浮遊するものたち……。
それらのうち何匹かが、葉より厚く小石より柔らかな、温かいところに降り立った。微笑の痕跡を残し、すうすうと寝息を立てる少年の頬で、羽虫の姿をしたミトラたちは何度か点滅をして体温を楽しんだあと、また気まぐれに飛び立つ。夜風がそれをさらっていった。
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