大山風の楔
仄かな光に、自分の鼻先すら視認できないほどの闇が掻き消された。洞窟の壁を薄緑の燐光が覆い、零夜と、闇に潜んでいた巨体とを照らし出す。
そのミトラ――
人の頭ほどの大きさもある眼球がぎょろりと動き、零夜を品定めするように睨め回した。視線は零夜の手足から顔の痣へ。そして何者でもない零夜の、枯茶色の瞳で止まる。
『いや、お前は……ミトラの王ではないな』
夢中のうちにここまで進んできてしまった零夜に、楔の思惑は分からない。しかし会話が成り立ちそうな知性の片鱗を楔に感じ取り、零夜は意を決して口を開いた。
「は、はじめまして。俺……」
『ヒトの名などに興味はない』
事前にバータルから「先に名乗るのが礼儀だ」と聞いていたためにその通りにしたのだが、楔は零夜の礼節を一言で切って捨てた。しかし名前に興味はないと言いつつも、零夜自身に興味はあるようだった。
『答えよ。お前はなぜミトラの言葉が解る? お前はヒトか、ミトラか?』
「俺は人です。言葉が解るのは……何でだか、自分でもよく分かりません」
『アランジャの者ではないな。いずこより来た?』
「…………」
言葉に詰まる。
『答えられぬのか、答えぬのか。どちらだ?』
楔の追求は言葉以上のものを用いない。しかしそれでも、零夜の身体は恐怖に硬直した。回答を間違えば終わりだ。それは動物的な直感だった。
「……ここではない、別の世界から来ました」
楔に嘘は禁物だと判断した。苔むした楔の身体の奥から、コポコポと泡の弾けるような音がする。どうやら感心して喉を鳴らしているらしい。
『別の世界。そこは神の国であるか』
「違います。俺はただの人間で……」
『ただの人間だと? では、なぜお前は
楔の胴体から長い触手が伸びる。灰白色にひび割れた管の先には鉤爪がついており、その鋭さに零夜は一瞬身を引くが、楔の威圧がそれを許さない。
『再び問う』
鉤爪は零夜の右目の痣に触れ、肌を軽く引っ掻きながら首元へ降りる。ヒッと首筋を引きつらせる零夜を一笑し、楔は触手の先で零夜の心臓辺りを指した。
『ミトラの光……神たる因子。我々ミトラに、女神と同じ姿を与えうる奇跡の核心。
言葉こそ穏やかだが、楔の態度には尋問じみた圧力があった。
零夜は必死に考えを巡らせる。そう言えば――この異世界に来てすぐ灰色のミトラに襲われたとき、確かあのミトラも「ミトラの光」がどうとか言っていなかったか。
大山風の楔を納得させ得る答えがどこかにないか、記憶を探る。楔の鉤爪は零夜の心臓の真上に突き立てられ、楔の力加減ひとつで今にも突き破られそうだ。
心臓を突き破られる――その痛みの予感が、零夜の頭の隅を刺激した。
心臓って、どれだっけ。
そう言ったのは誰だっただろう。声と激痛だけが思い出される。ただでさえ死にかけているところ、これでもかというほどに内臓を掻き回され、それでも零夜は生き残った――なぜ?
「……核を、分けてもらった」
痛覚の奥にぼやける記憶を呼び起こすと、そうとしか思えなかった。
ミトラの核というものが具体的にどういうものなのか、零夜には分からない。しかし瀕死の重症から傷一つ残さず回復したことも、青い炎を操れることも、ミトラの言葉を理解できることも、全ては零夜に移植された「核」の効力なのではないか。そう考えると腑に落ちる。
零夜は、自分の身に起きたことをつまびらかに話した。死にかけていたところを、謎の人物に救われたこと。その人物が「核」という単語を口にしていたこと。それ以降、不思議な力が使えるようになったこと。
説明が終わると、楔は頷くように身体を上下に揺すった。
『……なるほど。お前は何者かに核を分け与えられ、命を救われたと言うのか』
胸に突き立てられた触手が楔の胴体へと戻っていく……零夜が安堵しかけた瞬間。
『そんな馬鹿な話が、あるわけがない!』
零夜の首に触手が絡みつき、力任せに締め上げた。
『それほど強大な核を持つ者は、ミトラの王のほか有り得ぬ! ミトラの王がヒトを助けたと? 我らミトラの危機には姿を現しすらしない王が! 我らミトラが求めてやまぬ核を! よりにもよってヒトに分け与え、命を救っただと!』
楔の怒りは風となり、狭い洞窟の中を吹き荒れた。一体何が楔を逆上させたのか全く分からないまま、零夜は口を大きく開き酸素を求めた。
呼吸と血流が阻害され点滅する意識の中、零夜は触手を引っ掻いていた右手を前へ伸ばした。あの炎を出して、触手を焼き切ってしまえば――しかし、青い炎を顕現させる前に零夜の脳裏を掠めたのは、幾ばくかの不安だ。
炎をがむしゃらにぶちまけることは出来ても、コントロールすることは不可能だ。こんな狭い洞窟で、あんな規模の炎を放ってしまって大丈夫か? 炎は風に乗って洞窟内を駆け巡るだろう。自分は無事でも、入り口からなんとか奥へ向かおうとしているであろうバータルとナランは、果たして無事で済むのだろうか?
考えを巡らせている場合ではないはずだが、そんなことばかり考えてしまうのが、真糸零夜という人間だった。
零夜が躊躇している間にも、伸ばした右腕にも、楔の触手が絡みつく。締め付けられ、骨がみしりと嫌な音を立てる。いよいよ視界は暗く狭くなり、全身から力が抜けていく。脱力して垂れ下がった左手が、何かに触れた。その感覚で、零夜の意識に輪郭が戻る。
波打つ意識のふちに、
「うわあああ!」
がむしゃらに叫びながら、手探りのまま左手で短刀を抜いた。迷いのない切っ先は、鋭く触手に突き刺さる。ロープを切るような感触と共に、触手は思いのほか容易に切断され、零夜は地面に投げ出された。
何度か咳き込んで、零夜は短刀を右手に持ち替える。かなり痛むが、幸い骨は折られていない。
「お、お願いです、俺の話を、聞いてください」
楔は零夜の抵抗にいくらか意表を突かれていたが、それでも小うるさい悪あがき程度にしか思っていないようだった。
『何を聞くことがある? 小僧、お前の光は目障りだ。俺もまた核を得た身ではあるが、その微小な核ですら、俺にこれまで以上に強大な力と、新たな思考の自由を与えた。
それに比べ、お前の核は一体何だ? 余りに――余りに大き過ぎる。その光は、お前ごときが持つべきものではないのだ』
再び――今度は明確な殺意をもって、鉤爪は零夜の心臓を目掛けて光った。迎え撃とうと、零夜は腰を落とした。しかし……
両者が触れ合う寸前に、空を切って飛んできた矢が触手を貫いた。矢の飛んできた元を見る。バータルが弓に次の矢をつがえ、真っ直ぐに楔に向けている。
『……アランジャの者か』
楔は触手を引き、風を弱めて彼らを迎え入れた。酷い逆風の中を突き進んで来たのだろう。バータルもナランも、髪がめちゃくちゃに乱れている。
「御身に弓を引く無礼、どうかお許しください」
バータルの詫びを、楔は『相変わらず、つまらぬ男だ』と鼻で笑った。
未だ短刀を握りしめたまま、その場に固まっている零夜の肩を叩いたのはナランだ。途端、零夜の身体から過剰な緊張が抜け去っていく。
「レイヤ、大丈夫か?」
「あ、ありがとう。助かった」
「楔とは話せたか?」
「……それが」
ナランに事の次第を話す。楔の質問に零夜が答えるばかりで、こちらから話をするタイミングは、とてもではないが見計らえなかったこと。それを謝罪すると、ナランは人懐こい笑顔を見せて零夜の頭を撫でる。
「レイヤの首と胴体が、繋がったままで良かった」
実際に零夜の首と胴体は離別の危機だったので笑えない冗談なのだが、ナランとしても冗談のつもりではないようだ。ナランの指が零夜の首に触れると、ひりつく痛みがある。触手に締められたときに擦れたのだろう。この傷がもっと深くなっていれば、首が引き千切れていたのだと思うとぞっとしない。
「まだやれるか?」
ナランが零夜を気づかうのは、ナシパも言っていたような、行きずりの零夜を大事に巻き込んでしまった後ろめたさからだろう。確かに、アランジャの行く末の一端を握っているという重圧には耐え難いものがある。しかし、対価を貰っている以上は責任がある。
「やれる……というか、やるよ」
長く細く息を吐いて、心を落ち着ける。
楔は興を削がれたのか、ひとまず怒りをおさめ、緑の目を軽く閉じバータルの話に耳を傾けていた。アランジャ族へは、それなりの寛容をもって接するつもりらしい。バータルは楔の正面へ立ち、もう何度目か分からない説得を試みていた。
ゼーゲンガルトが各地の楔を殺しているが、アランジャ族は決してその潮流に乗るつもりはないこと。いざとなればアランジャ族の総力をもって、ゼーゲンガルトを迎え撃つ準備もあること。しかしそのためにはこれまで通り、楔の力によって土地を富ませてもらう必要があること。
楔の知能水準からして、バータルの話を理解できていないとは思えない。話が一区切り着いた頃を見計らって、零夜は短刀を鞘へ戻し、バータルの隣に立った。楔が零夜に、どこかうんざりとしたような視線を送る。
『こやつは、いつも話が長い……それも、何度も聞いた話を繰り返す』
「あなたの言葉が解らないから、こちらの言葉が正しく伝わってるかどうか確かめられないんです。だから……」
『俺の言葉が解るお前が駆り出されたわけか。つくづく、煩わしいものだ』
「それで、あの……」
『俺の答えか? 怒りを鎮めよ、善き神であれかし、か……。
……馬鹿馬鹿しい。
楔は淡白に言い放った。有無を言わさぬ調子に怯みつつも、零夜は楔の答えをバータルに伝える。バータルは眉をひそめ、ただ一言「なぜ」と問う。
『なぜ? ……解らぬか。いや、解らぬだろうな』
苔の下から吐き出された生暖かい風は、楔のため息だっただろう。雨の前に香り立つ土の匂いが、零夜の鼻をくすぐる。
『お前たちは、何を目的に生きている?』
「え?」
問いの真意が分からず、零夜は楔の言葉をそのままバータルに繰り返した。表情から察するに、バータルも零夜と同様、楔の言わんとすることを測りかねているようだ。しかし楔は、目の前の人間たちに具体的な答えを求めたいわけではないらしい。『お前たちは』と、言葉を続ける。
『極めて些末な生き物だ。たった百年も生きられず、飢えや病があればすぐに死ぬ。お前たちにとって生きることは、それそのものが目的となりうるのだろう。
だが俺は違う。長い生には目的が必要だ。ただ「生きる」ほかの目的が必要なのだ。俺にとってそれは「神で
楔の声が一段低くなる。
『俺は気付かされたのだ。俺は、お前たち人間に裏切られていた。お前たち人間は、心底では俺を神などと思っていない。俺を嘲り、見下し、俺を利用しているだけだ……そうだろう?』
楔から吹き付ける風は不快に生温かく、零夜の首筋に鳥肌が立った。息を呑んで突っ立っている零夜に『どうした、俺の言葉を伝えよ』と楔が通訳を促す。
「……人間に裏切られたことを怒ってる。本当は神と思っていないんだろう、利用しているだけなんだろうって」
零夜がバータルに言うと、バータルは縋るような視線を楔へ向けた。
「違う! 確かにあなたには、ゼーゲンガルトの楔殺しは人間の裏切り……信仰からの離反に見えるのでしょう。
しかし奴らはそもそも、ミトラ信仰を認めない、都の者たちです。我らアランジャ族は奴らとは違う。あなたはこの地に産まれた、全てのものの親たる存在。どうして、子が親を裏切ることがありましょう!」
切羽詰まったバータルの声が、洞窟内に反響した。その残滓が消えるまで、楔は微動だにせずバータルを見つめていた。しかし、やがて洞窟内に静寂が戻ると、呆れたように首を振った。
『無知は罪ではない。俺も無知であった。だが無知を受け入れぬ傲慢は罪だ。
お前たちが何と言おうと、お前たちの信仰は偽りなのだ。俺はお前たちにとって、用意された道具に過ぎなかった。生命としての俺は搾取され、尊厳を奪われ……そして、いずれ物言わぬ「現象」と成り果てるまで殺され続ける。
ならば俺は、お前たちの神で在ることなど捨てる。道具であることを放棄する』
楔の語る意味が分からなかった。どう通訳していいものか戸惑っている零夜に、楔は緑の視線を向けた。
零夜をその場に射止めるような視線は、通訳は不要であると言外に示している。聞き分けの悪い子供を諭すような、呆れと苛立ち、そして諦めに満ちた深い苔色の瞳。
通訳は不要――なぜならば、今さら何を言おうと、楔の心が揺れることはありえないためだ。
零夜の肩にバータルの手が置かれ、軽く後方へと引かれた。「下がれ」という合図だ。
「俺は説得を続ける。レイヤは先に洞窟を出てくれ」
「でも……」
もはや説得できる余地など微塵もない。楔の意図や詳しい事情は分からずとも、それだけは確信できた。楔は頑なに、人間を拒んでいる。
しかしバータルは諦めるつもりなどないらしい。ここで引き下がり楔との交渉が決裂すれば、楔を封印し、大地に生贄を捧げなければならない。その生贄となるのは――ティエラだ。
零夜は数日前を思い出す。ティエラを生贄になどさせないと、はっきり口に出したのはナランだけだ。バータルはむしろその発言を咎めたが……しかし彼にとっても間違いなく、ティエラは仲間であり家族であるはずだ。彼女の命が捧げられることを、望んでいるはずがない。
「バータル。楔はもう、こっちの話を聞く気なんてない」
「分かっている。だが……やれるところまでやりたい」
おとがいに冷や汗の粒を伝わせながら、バータルは楔の説得を続ける。譲歩し得る限りのあらゆる条件を提示し、永劫の忠誠を約束し……その全てを黙って聞く楔は、零夜の目にはバータルをせせら笑っているようにすら見えた。
逃げ渋る零夜の腕を引くのはナランだ。
「酷い殺気だ。ここを無事に出ることを第一優先にする。さっき笛を鳴らして、入り口にトモルとキヤを呼んでおいた。一度合流してから……」
ナランは言葉を切って、零夜の横顔をじっと見た。零夜は楔と、楔を説得するバータルから目を離せずにいた。口を真一文字に結び、荒い息をおさめるように無理に鼻で呼吸をしている。
「レイヤ」
名前を呼ばれても、ナランを見ようともしない。ナランには、零夜の未練のわけが分かっていた。自分の存在を意識させるように零夜の手首を強く掴み、努めて平坦な声を出す。
「レイヤはよくやってくれた。ここからは俺たちアランジャ族の問題だ。どんな結末になろうとも、レイヤが責任を負う必要はない」
ついに零夜の視線が楔から外れ、ナランへと向いた。不安と後悔と自責が混じった瞳に、ナランはいつもの人懐こい笑顔を映す。この酷く小心な男を、少しでも安心させたい一心からの笑みだった。そしてそれは、いくらかでも成功したらしい。零夜はナランに腕を引かれるまま、洞窟の出口へ向かって一歩を進める。
なおも食い下がる一人と、その後ろで逃走を図ろうとする二人とを、楔は意外に穏やかな瞳で見つめていた。その凪の奥に冷えた怒りが渦巻いていることに、もう誰もが気がついていた。それが暴発しないのは、ひとえに楔の理性ゆえだ。しかしそれも長くはもたない。楔はまもなく意図して理性の堤防にヒビを差し込み、極めて理性的に、憤怒の大河を氾濫させる。
「楔よ、大山風の偉大なるミトラよ。どうかお願いです。我らアランジャ族に、イグ・ムヮに生きる全ての者たちに……今一度の御慈悲を」
バータルの懇願は、楔の聴覚器官に虚しく響く。
『……ヒトとミトラの蜜月はまもなく終わる。いや、とうに終わっていた』
「どうか。我々の懐にあるものならば、いかなるものでも差し出します」
零夜を介さなければ、楔の言葉はバータルには解らない。
交わることのない両者の言葉こそ、アランジャ族と積み上げてきた月日の虚しさであると、楔は考えた。一方的で押し付けがましく、ひと欠片も解り合えない――。
『これより先、地上に満ちるものはお前たちヒトではない。我々ミトラだ』
楔はゆっくりと言葉を紡ぐ。バータルらに聞かせているというより、それは楔の独り言であり、氾濫への秒読みでもあった。
誰一人逃さないとでも言うように、洞窟の入り口から奥へと向けて風が吹く。空気の塊が押し寄せるような、異様なまでの風圧。楔の声と風の音が混じり合い、ひとつの大きないきもののうめき声となる。
『お前たちに責任を求めても仕方あるまい。だがヒトとしてヒトの文明を享受している以上、報いは受けてもらう。……恨むな、アランジャの者よ。俺は永く、善き神であっただろう?』
それが、決定的な一言だった。
「バータル、もう駄目だ、逃げろ!」
零夜が叫び、苔の向こうで、楔が大きく顔を歪ませて笑った。
バータルの後ずさりとナランの抜刀、そして世界を引っくり返すような暴風。その全てが同時に起こった。
舞い狂う砂塵の中、一度、二度。頭を殴られるような衝撃を感じ――そして、轟音。咄嗟に頭をかばう。暗闇の中で胃が持ち上がる感覚に、身体が宙を舞うのが分かった。
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