楔のもとへ
道すがらにぽつりぽつりと歌われる歌は、楔を称え感謝する歌なのだとナランは言った。彼はとりわけ歌が上手く、よく通るテノールの「楔の歌」は耳に心地いい。馬に揺られながら聞いていると、不安すら消し飛ばしてくれるようだった。
「ゆるふと、いむにや。はるにゃむわ、かれと」
単語ひとつひとつの意味こそ分からないが、何度も聞いて、零夜も覚えてしまった。誰かが歌い始めると、零夜もそれに合わせて口ずさむ。
この地に永くあるあなたよ。あなたの地は大河のごとく、子を産む母のごとく富んでおり、私はこんにちまで生かされている。
彼らアランジャ族はこの歌の通り、長い長い間この地で楔と共に生きてきた。朝日と共に目覚め、冷たい井戸の水で顔を洗う。昼は野を駆け獣を狩り、あるいは羊を追って草地を渡り歩き、楔の歌を歌いながら糸を紡ぐ。夜は火を囲い集まって、土地の恵みに身を癒やしつつ眠りにつく。
零夜はまだ、彼らが先祖代々より連綿と営んできた文化と生活の、ほんの一端しか知らない。それでも今は――理仁を探す手伝いをしてくれるという理由とはまた別に――彼らの生活を守りたいと思う。
「あやらん、なてれと。い、ひとぅむや」
歌いながら、頑張るぞ、と気合いを入れる。一体何を頑張るのか。なぜかミトラの言葉を理解できるという能力を持っているだけの零夜に、何ができるというのか。具体的な答えは出せなかったが、やれるところまでやろうと、零夜はへその辺りに力を入れる。その気負いが伝わったのか、ヒルカンが鼻を鳴らして
その夜は岩陰に野営を張った。地面に浅く掘った穴に、営地から持ち出した灰を満たして
『ここどこー?』『さむいよう。もっと火がほしいよう』『あっ、れーやだ』『ほんとだー、れーや!』『れーや! さむいよー!』
ヒグイたちは零夜の姿を見付けると、わあわあ騒ぎ始めた。零夜が自分たちの要求を叶えてくれたことを、しっかり覚えているらしい。灰と火の中を飛び回りながら、寒い寒いとしきりに訴える。それをトモルに伝えると、トモルは二粒目の火種を放り込んだ。火種は槌で割るまでもなく弾け、炎はその勢いを増す。
『わーい、あったかい』『ありがと、れーや!』『れーやありがとー!』
どういった原理なのか、少量の薪が燃え尽きても、ヒグイさえ居れば火勢は衰えない。バータルの獲ってきた小ぶりな鹿(よく見れば目が三つあった)を開いて火であぶり、一行は夕食に舌鼓を打った。
トモルの話では、このまま順調に行けば、明日の昼前には楔の風穴に着くということだった。今のところ、護衛としてついてきているトモルとキヤの出番は特にはない。無駄な体力を使わずにいられることは幸いだった。
慣れない野営に腰を痛めつつも、零夜は眠りにつく。時が経つ感覚もなく瞬きの間に朝は訪れ、また馬に揺られる……。
間違いなく楔に近付いているという実感は、吹きすさぶ風によって嫌でも得られた。草の頭を優しく撫でるような平野のそよ風は、徐々に引き攣れた音を立て始める。足元の植物はまばらになり、砂礫が目立つようになる。行く道は僅かながら上りに傾斜し、風はその先から吹き下ろしている。
舞う砂塵が顔を打つ。零夜はバータルに譲ってもらった、風よけのついた帽子をかぶった。少し息苦しくはあるが、口の中が砂でじゃりじゃりいう不快感よりはましだ。
しかしながら生命の恵みに満ちた風も、楔の棲む風穴のすぐたもとともなれば、暴風と呼ぶにふさわしい凶悪さをはらみ始めていた。
「……馬で行けるのはここまでだ」
周囲に植物が全く見られなくなった頃、バータルが馬を停めて言った。零夜もそれにならい手綱を引く。目的の山を見上げると、風に舞う砂埃に阻まれはっきりとは見えないが、中腹のあたりに黒黒とした影が見えた。どうやらそこが、楔の棲む風穴らしい。
「トモルとキヤも、ここで待機していてくれ。何かあれば笛で知らせるから、その時は応援を頼む」
ややくぼんだ、風の直撃を受けない場所に一時退避して、零夜たちは馬を降りた。不満そうに帽子を
風よけの帽子にマント、靴は歩き慣れたスニーカーをそのまま履いてきた。腰には短刀。ティエラを助けるときに使ったものだ。これを使うような事態にならなければいいが、と零夜は内心で祈りながら鞘を撫でる。木製の鞘には
「レイヤ、気を付けろよ」
キヤが零夜の肩を叩く。零夜が頷くと、キヤが風よけの向こうで笑ったのがわかった。
馬を降りて目的の風穴までは、それほど距離はない。しかしなにぶん道は大きく蛇行しているし、足元が悪いので、たった数メートルを歩くのにも体力と時間を消耗する。零夜は何度か足を踏み外しながら、先頭のバータルが砂嵐の向こうに消えてしまわないよう必死についていく。
吹きすさぶ風の音に、風の音とはまた違う低い轟きが混ざるようになったころ、バータルが立ち止まった。
「あそこだ」
バータルの指差す先には、山のふもとから見えた黒い影がある。光の加減で暗く見えているだけなのかと思ったが、こうして近付いてよく見てみると、その黒さは異様な光景によって作られていた。
ほんの雑草程度の植物も見当たらない荒れ果てた周囲の中、そこだけが異常に高密度の植物群で覆われている。見上げるほどの巨木にはツルが絡みつき、巨木の合間を埋めるように葉の多い低木が密集している。そのどれもが強風に幹をよじらせながらも、しかし折れたり倒れたりすることなく捻じれ寄り集まり、渦を形成しながらしっかと根を張っている。山腹に見えた黒黒とした影の正体は、異様なまでに繁茂した木々草草の、異様なまでに濃い緑をした葉枝の密集なのだった。
「楔が噴出させる生命力は、風によって平原全体に吹き散るんだが……風穴の周りは、生命力が濃すぎるんだろうな。厄介だが、あそこを掻き分けないと楔の元へは辿り着けない」
バータルはナタを手に先へ進む。彼は何度かここを訪れてはいたが、植物たちの常軌を逸した生命力のために、毎度切り開かねば道が塞がれてしまうのだった。
低木の枝を落とし、右から左へ縦横無尽に駆け巡る
ほとんど全集中を足元へ払いながら進む零夜の耳に、風の唸りに混じった囁き声が聞こえる。
『またきたよ、にんげんがきた』『しらないやつも、いっしょだよ』『くさびがおこるよ。かえればいいのにね』『おいかえしちゃおうよ』
「あの」
零夜は前を歩くバータルを呼び止めた。バータルは怪訝そうな顔で振り返る。
「追い返そうって言ってます」
「言ってるって、誰が?」
「声が聞こえるんです、どこからか……」
零夜が辺りを見回すと、声の主らしき無数の影が、素早い動きで葉陰に隠れた。よくは見えなかったが、ハツカネズミ程度の大きさの生き物だった。
「……ミトラか」
バータルがうんざりしたように呟く。
「前にここを訪れたときも、散々まとわりつかれたんだ。なるほど、俺たちを追い返そうとしてたんだな」
しかし今は、ミトラたちは暗がりに隠れたままで、まとわりつくどころか姿を現そうともしない。
「レイヤ、彼らが何を言ってるか聞こえるか?」
バータルに促され、零夜は耳を澄ます。ミトラたちはひそひそと、何事かを話し合っている。
『おいかえしても、きっとまたくる』『くさびがおこる』『くさびがおこったら、みんなしんじゃう』
ぴちゃぴちゃ、くちゃくちゃ。囁き声には、時おり粘着質な音が混じった。ぬかるみを歩く足音のような、咀嚼音のような不快な音だ。
『ころしちゃおうか』『そうしようか』『にどとこないように』『しずめちゃおう!』『しずめよう!』
ぴちゃぴちゃ、くちゃくちゃ。びちゃびちゃ、ぐちゃぐちゃ。
音はどんどん大きくなる。それと共に、ほんの囁きに過ぎなかったミトラたちの声も、ほとんどがなり声のようになっていく。零夜は顔をしかめたが、バータルもナランも不思議そうな顔をしているところを見ると、二人には聞こえていないらしい。
声の迫力に後ずさりをしたとき、くちゃり。零夜のすぐ足元で、粘着質な音がした。砂にくすんだスニーカーの白が、黒い何かに埋没しつつある。
――泥だ。
『ころしちゃおう!』
『しずめちゃおう!』
『しずめよう!』
『しずめ!』
脳髄を震わす怒声に耳を塞ぎながら、零夜は叫んだ。「下にいる!」
足元に視線をやったバータルは、そのまま零夜の腕を掴んで走り出した。零夜はほとんど引きずられながら、足をでたらめに動かしてバータルの動きについていく。すぐあとに、ナランも続く。
さっきまで雑草に覆われていたはずの地面はいつの間にか酷くぬかるみ、逃げる三人を追い蠢く沼となっていた。体重をかければ、靴が深く沈み込む。
どこか高い場所へ。走りながら頭上を見回し、バータルは息を飲んだ。濃い枝葉の密集するどこからも、大小様々なミトラの視線が降り注いでいる。ミトラの言葉が解らないバータルにも、彼らが何を考えているかは肌で感じることができた。疎ましいもの、忌まわしいものを見る目付き。樹上へ避難することは出来ない。
泥に足を取られ、向かい風に煽られながらも全力で走る。足を止めれば即座に沼に沈んでしまうか、背後から追いかけてくる泥の手に捉えられてしまう。
『しずめ!』『しずめ!』『しずめ!』
泥のミトラの怒声はもはや轟音に近く、うるさいという感覚すら分からなくなる。さながら頭を殴られ続けるような衝撃に、零夜の身体がふらつく。
「しっかりしろレイヤ! 頑張れ!」
怒声の合間に聞こえたバータルの叱咤に、零夜は頭を振ってしっかと前を見据えた。聴覚でなく視覚に集中し、引き攣る太ももを無理に上げ足を前に出す。視界に現れては消えていく、奇妙に捻じれた歪な巨木たち。波打つ根の向こうに、闇がぽっかりと口を開けているのが見えた。
「飛び込め!」
バータルが叫んだ。目の前の太い木の根を飛び越え、三人は砂礫の大地に受け身を取った。
「くそ、来るなら来い!」
バータルが矢を構え、ナランが腰の剣を抜いた。しかし――泥のミトラは、零夜たちに飛びかかろうとはしなかった。太い根の手前で身体をくねらせ、二の足を踏んでいるように見える。
零夜に聞こえていた轟音もいつしか沈黙し、耳には風の生む音だけが届いていた。息を整えながら来た道を見れば、いくつもの目や手足や唇を湛えた、異形の沼がそこにあった。恨めしげにこちらをにらむ瞳は、どれもが緑色の瞳をしている。
『……くさびにころされちゃえ』
捨て台詞を残して、泥のミトラたちは姿を消した。まだ早鐘を打つ心臓を落ち着かせようと、零夜は何度か深呼吸をする。バータルとナランはさすが冷静で、慎重に辺りの様子見をしている。
「レイヤ、ほかにミトラの声は?」
「今は……何も聞こえない」
山を吹き下ろす風に木々がざわめく。遥か頭上で風が鳴る。静寂には程遠い嵐だが、しかしミトラたちは沈黙していた。
零夜のため息が、耳の脇を通り過ぎて根の奥の闇へと吸い込まれていく。大きな口を開く洞窟の入り口には、灰白色の鍾乳石が牙のように垂れ下がっている。
「楔の風穴だ。ミトラたち、ここに近付きたくなかったのか」
バータルはつがえた弓をしまい、ナランも剣を鞘へとおさめた。風穴から吹き出した妙に生暖かい風は、零夜の耳元を不快にくすぐる。かと思えば吹き出したばかりの風は、すぐまた洞窟の中へと吹き帰っていく。その風の往来は、規則的に断続的に繰り返されていた。
「洞窟が、息をしてる……」
呟いて、零夜は背中に嫌な汗が伝うのを感じた。つい自分の呼吸を意識してしまう。吐いて、吸って、吐いて、吸う。その繰り返しの入り口……巨大ないきものの鼻先に立っているような感覚は、生物としての本能的な恐怖を掻き起こす。
『アランジャの者が……また……来たか』
洞窟の吐息と共に。低い声が這い出づる。風の音に似ているが、風の音とは明確に違う音。バータルもナランも反応していない。ミトラの声だ。そしてこの奥に居るミトラといえば……正体は決まりきっている。
「楔の声が……する……」
恐怖に棒と化していたはずの零夜の足が、無意識に前へ出た。バータルが零夜を引き留めようとするが、忠告は零夜の耳には届かない。
『俺の言葉が解る者がいるのか? ヒトか……それとも』
生暖かく土の匂いのする風が、ひときわ強く闇の奥より流れ出た。その風にバータルとナランは押し戻されるが、零夜はふらつきすらしない。誘われるように、洞窟の奥へと歩き出す。
「レイヤ、勝手な行動はよせ。レイヤ!」
風に阻まれ前へ進めないバータルが、零夜の服を掴もうと手を伸ばす。しかし既に零夜は、その指先が届く範囲にはいない。奥へ――闇の中へ。
『俺は知っているぞ。その光……眩しく輝く、ミトラの光……』
零夜の視界には闇しかなく、ミトラの声と風の音だけが鼓膜を震わす。進めば進むほど呼気の温かさは増し、吸気はより強く零夜を引き寄せる。
『……ミトラの王』
気が付いた時には、零夜の目の前には緑の瞳があった。それはゆっくりとまばたきをする。風穴の奥の奥に棲まう
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