黎明の囁き
「何が、そうだね、なの?」
また少女の声が、今度ははっきりとした音声として耳に届いた。目を開ける。視界に、美しく青い髪がふわりと揺れる。
「……ティエラ」
名を呼ばれ、ティエラは頬に笑みを乗せる。手には青白く光る鉱石灯を持ち、零夜の顔を覗き込むように身体を傾げた彼女の影が、幕家の中に濃い闇を落としている。
「おはよう、レイヤ。まだ明け方だけど」
上体を起こすと、身体のあちこちが軋むように痛んだ。早朝の静寂と肌寒さが、襟元を伝って二の腕の辺りを冷やしていく。何だか状況が掴めずに、零夜は何度か強く瞬きをした。
「さっき、あの子守唄、歌ってた?」
まだ夢の中のような心地で尋ねると、ティエラは気まずそうに肩をすくめて下を向く。
「ごめん、それで起きちゃった? 鼻歌だったんだけど」
「あっ、いや、そうじゃなくて……夢の中まで、聴こえてたから」
好きなんだ、あの歌。と零夜が言う。私も。とティエラが返す。沈黙の中に、随分と早起きな羊の鳴き声が呑気に響いた。
「ずっと起きてたの?」
「まさか。早く起きすぎちゃって、それから眠れないでいたの」
「そっか……」
ベッドの周りを見ると、床に
「あのさ、色々聞きたいことがあるんだけど……」
零夜はぽつぽつと、結局聞かずじまいになっていた疑問を口にした。例えば、どうしてティエラがあの山へ来たのかとか、ハロというあの得体の知れない人物と、どうやって合流したのかとか。
「レイヤたちが出発してすぐ、遠見をするようにってカルムにお告げがあったの。声が聞こえるのね。
ハロって人が来たのはその時。まるで遠見の結果を知っているみたいに……ううん、きっと知ってたんだと思う。『早く行こう』って、私に行ったの。誰も、あの人が誰なのか、どこから来たのか……一体いつ、遠見の幕家の中に入ってきたのかも、全然分からなかったの。
勿論、警戒すべきだし、何人かは武器を向けたわ。でも……」
ティエラの言いたいことがよく分かり、零夜は同意するように頷いた。
ハロという人物の、あの人間離れした美しさ。目の前の現実を超越し、より高尚な何かを見通すような、悟ったような視線と口調。あれに向かって瞬時に警戒心を向けるというのは、戦闘の訓練を受けた者にも難しいだろう。
「あの人は、アランジャ族が置かれた状況も遠見の内容も……レイヤのことも、全部知ってた。だから私たち、思ったのよ。もしかしてこの人はレイヤと同じ……女神さまがアランジャをお守りくださるために遣わされた、使者なんじゃないかって。まさかあんな凶暴な人の仲間だなんて、思わなかったけど」
ティエラがフンと鼻を鳴らした。凶暴な、というとアイラのことだろう。それを思うと、零夜の胸がずきりと痛んだ。
静けさの中に、トトン、トトンと規則正しい鼓動が並ぶ。外界と同様に零夜の肉体も静寂そのもので、今はどこを探しても、あの横暴な魂の片鱗すら見付けられない。
零夜はしばし、自分の中に自分以外のものがいない安心感に浸った。気を休めている零夜を気づかってか、ティエラも口をつぐんで零夜と同じ方向を見る。黎明の光が、幕家の飾り窓の輪郭をぼんやり浮き立たせている。
牧草の青い薫り、まだ寝ぼけているような家畜の鳴き声、幾何学模様のように組まれた幕家の骨組みと、それを彩る刺繍の鮮やかさ。目に入る何もかもが穏やかで平静そのものだ。どれも零夜にとっては異風景のはずなのに、その全てがどうしようもなく日常だった。
「……終わったんだよな」
ティエラに尋ねたのか、それとも独り言なのか零夜自身にも分からない言葉がこぼれた。ティエラはそれを律儀に拾い、「終わったよ」と言う。
「レイヤ、ありがとう。夜が明けたら、きっとたくさんの人がレイヤにお礼を言うと思う。その前に……私は、アランジャ族の一員としてじゃなくて、ティエラ・スチェスカというひとりの人間として、あなたに感謝の言葉を伝えておきたいの。営地を守ってくれて……私の命を救ってくれて、ありがとう」
返すべき言葉が喉元でつかえて、零夜は咳払いをした。どうして守ったなどと思い上がることが出来るだろう。零夜はただ目の前のことに必死になっていただけだ。自分自身と、周囲のものたちとを傷付けながら……。
平穏に浸りきってしまえば安心するかと思ったが、自分に潜む凶悪の影は、平穏の中にあればこそ一層濃く浮き彫りとなった。たった今、零夜の内奥からあの灼熱の悪意が鎌首をもたげ、目の前で微笑む少女を
沈黙があった。予想に反して沈んだ表情の零夜に、ティエラはかけるべき言葉に迷っているようだった。思いついたように脈絡もなく、零夜の脚を覆う掛け布団の刺繍模様について、やけに細かく説明したりする。
「綺麗でしょう。これはヤクトニプツェルっていう神獣の模様よ。あらゆる厄災……特に水の厄から守ってくれる刺繍なの。その隣のはアンズの実。こっちの模様は……」
「ティエラ」
沈黙を恐れるように溢れ出すティエラの言葉を、零夜が静かに遮った。
「色々ありがとう。俺、ここを出ていくよ」
青い瞳が満月より丸く見開かれた。なぜ、とティエラが問う前に、「怖いんだ」と零夜は胸中を吐露する。
「キヤの腕を折った感覚、まだ覚えてるんだ。いつまた身体を乗っ取られるか分からない。ここにいる人たちにも……危害を加えるかもしれない」
「そんなの、レイヤのせいじゃないでしょう?」
「違うんだ!」
思いのほかに大きな声が出て、驚いた様子のティエラに「ごめん」と慌てて謝る。「でも、そうじゃないんだよ」
「誰のせいとかじゃなくて……親しい人が傷付くとこを、見てることしか出来なかった。それも……手を下したのは自分なんだ。嫌だと言っても……聞き入れられない。どんなに怖くて……苦しかったか」
俺は、もうあんなのは嫌だ。零夜はきっぱりと言い切る。
「でも、出ていくって言ったって、ほかに行くところはあるの?」
「ないけど、理仁の行方について分かっている限りの情報を貰ったら、あとは自分で何とかする」
「何とかって……」
ティエラは絶句するが、零夜の意思は硬かった。遠見により理仁の行方を視てもらった時、ティエラを襲う激痛を看過したくないがために続行を拒否した、あの頑固さの片鱗が、疲れた横顔に貼り付いている。
「……分かったわ」
長い沈黙の後、ティエラは言った。
「でも、身体がしっかり休まるまで……二、三日は必ずここにいて。必要なものがあったら遠慮なく何でも言って。レイヤがどう思っていようと、あなたはアランジャ族の恩人なのだから」
それから日の出までの短い間、零夜はティエラの語る、アランジャ刺繍の持つ様々な意味に耳を傾けた。草花や穂先の模様は豊穣を、波打つ模様は水や風の豊かさを、星や月は行く未来の明るさを祈り施されているという。
その全てに意味があり、歴史があり、生活がある。ティエラの説明に感心したり納得したり、そうするたびに、守ることが出来たものの尊さを実感し、零夜の心は少しずつ満たされていくのだった。
やがて日が昇り始めるより少し早く、アランジャの人々は起き出してそれぞれの生活を開始する。何はともかく零夜の様子をと幕家の前に集まってきた人影に、零夜は少し前髪を直してからおずおずと出ていった。
笑顔や歓声に出迎えられ、口々に体調を気遣われ、困ったようにはにかんでもみくちゃにされる零夜を、ティエラは黙って見つめていた。細く白銀の朝日が彼の顔を照らし、日の中に右目の痣がよく目立つ。
ティエラが日光に目を細めたとき、引き寄せられるように零夜と視線が合った。零夜は何か言おうとしたが、ぜひ朝食をウチで食べてくれと誘う男たちの腕に押され、振り返りつつも遠ざかっていった。
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