イグ・ムヮのその先へ


 鉛のように重い緊張感をはらみながらも、取り立てて事件の起こらない日常は、驚くほど素早く過ぎ去っていく。早朝に目覚めて、決められた仕事をして、食事をして、眠る。同じ繰り返しの中に、進むべき物事は滞りなく進んでいった。

 すなわち、バータルのイマジアの力もあってキヤの怪我はほぼ完治し、旅の支度がほとんど済んでしまったということ。

 すなわち、別れのときが、ついに来てしまったということ。



 その朝、珍しく雨がぱらつき、朝日が射したのはいつもよりいくらか遅れた時分だった。

 零夜は日課となった早朝の仕事を済ませ、草原の只中に立っていた。雨に濡れたやわ草の、青っぽい匂いが鼻腔をくすぐる。都会育ちの零夜には馴染みのない匂いだったが、幼い日の夏休み、ラジオ体操のために集まった早朝の公園で、こういう匂いを嗅いだ記憶が薄っすらとある。

 黒黒とした山から吹き下ろす風が、零夜の髪をかすかにそよがせた。あの山の地中深くに穿たれた、かつて神だった楔は、まどろみながらもしっかりとその役目を果たしているようだった。

 大地より吹き出した豊かな生命力は、山を降り平野を駆け巡り、風を吹かせ雨を降らせる。雨は川に流れ込み、やがて海に辿り着くだろう。大洋に溶けた雨は、海流に乗って遠く遠くまで運ばれていく。そして日に照らされて雲となり、風に煽られて陸地を覆い、土を湿らせるのだ。


 遠い地の雨に心を寄せるため、零夜は軽く目を閉じた。視覚が遮断されたことにより、草と土の匂いがむせ返るほどに濃く強くなる。それは一種の緩衝材となって、小さくも鋭い棘を発する罪悪感から、零夜を守ってくれるようだった。

 自分はきっと正しいことをした。アランジャ族の人々の命を守り、この地の営みを守り、多くのものを救った。しかしそうして納得しようとするたびに、楔の恨めしげな声と、泥のミトラの絶叫が、内耳の奥にこだまするのだ。

 小虫を振り払うように頭を振って、雑念を追い払う。

 今はただ、目の前のことに集中しよう。頭の中できっぱりと呟いて、零夜は揺れがちな己を戒めた。次に向かうプラド村で、必ず理仁りひとの手がかりを見付けよう。それに集中すればきっと、自分を責める空耳など聞こえなくなる……。


 その時、ざくざくと草を踏みしめる音がして、零夜はそちらを振り返った。「あ」と、小さな声が漏れる。いつの間にか来たダンニールが、零夜と同じ方向を真っ直ぐに見つめている。

「お、おはようございます」

 一応は挨拶をしないと失礼かと思って、零夜は律儀に会釈をしたが、ダンニールはそれを無視した。

(別に、いいけど)

 気まずい思いで、零夜は再び朝日にそよぐ草の波へと視線を向けた。何か話そうにもスパイと疑われている身では、ボロを出してしまいそうな気がして何も喋れない。


 彼、ダンニール検問副長官もプラド村へ同行すると聞いたのは、つい昨日のことだった。零夜はその場に同席していなかったが、また唐突に営地を訪れ、好き勝手に要求だけを突きつけていったらしい。異人である零夜の監視も兼ねて、検問官を一人、プラド村へ同行させよとのことだった。

「あの人たちはね、カルム様とティエラさんの遠見の能力を、なんとか自分たちの権力に組み込みたがっているのよ。遠見で得た情報……疫病の予兆だとか、豊作の予見だとか、そういうものを全て、自分たちの成果にしたがっているの。だから、カルム様が遠見の関係でどこかの村に派遣されるときは、決まってついてくるのよ。さもしい人たちだわ」

 忌々しげに語るナシパの顔には、憎悪と軽蔑がはっきりと刻まれていた。

 そのことを聞いていたからだろうか。ただそこにいるだけのダンニールが、何かよくないことを考えてここにいるように思えてならない。


 ……沈黙。

 五本足の小さなミトラが、垂れ下がった牧草の先を引っ張り、伝い落ちた朝露を飲んでいる。おいしー。つめたーい。おいしー。と呟くミトラの声は、零夜には聞こえるが、当然ながらダンニールには聞こえていない。

 ミトラと話せることは、ゼーゲンガルト人には黙っていた方が良いと、誰もに言われた。ゼーゲンガルト出身者、特に役人たちは、トリディア教の教義に厳しい。ミトラはトリディア教では、穢れた生き物とされ忌み嫌われている。ミトラの言葉が理解できるなど、良い印象を持たれるわけがない。

(俺は、ただのミトラ学者。ちょっとミトラに詳しいだけの、ただの学者だ)

 改めて、自分の「設定」を脳内で反芻する。零夜自身の安全のため、そして何より、零夜を守るための「設定」を用意してくれた人々の恩に報いるためにも、こればかりは気を抜くわけにはいかなかった。


「おい」

 突然声をかけられ、考え事に集中していた零夜はびくりと肩を震わせ、反射的に「はいっ」と良い返事をしてしまう。ダンニールは零夜の小心を軽蔑するような目を向けて、「馬を走らせてくる」と言った。

「私が戻るまでに、出発の支度と別れを済ませておけ」

 それだけを言うと、ダンニールはきっぱりと踵を返した。

(あれを言いに来ただけ?)

 彼が何を考えているのか全く分からず、零夜はただその背中を見送った。ダンニールの着る服は、アランジャ族の人々の着るものとはかなり違う。綿のシャツに革のベルト、折り目のきっちりついたスラックスといったスタイルは、零夜が現代日本で目にしていた社会人の服装にかなり近い。

 今は防寒のための上着を羽織っているダンニールの後ろ姿は、神経質そうな早足で遠ざかっていく。

 ミトラが、零夜の靴をよじ登り始めた。傷付けないように軽く足を揺すると、驚いてどこかへ走り去ってしまう。それを見届けて、零夜は朝露の草原に背を向けた。



「では、行って参ります」

 身支度を整えたカルムとティエラが、見送りの者たちに声をかける。馬の背には物々交換用の荷物がどっさりと乗せられている。刺繍布や糸や綿、生乳やチーズ、食器類。これがプラドに行けば、穀物や小麦粉や野菜類に替わるという。

「いや、よくよく世話になった。良い刺激ももらえたしな」

 冗談なのかそうでないのか分からない軽口を叩くのはキヤだ。彼の荷物もアランジャの人々が持たせた土産で大きく膨らみ、至極満足げである。

 零夜はというと、ここへ来た当初は正真正銘着の身着のままであったにもかかわらず、やはりキヤ同様に、抱えきれないほどの荷物を携えていた。そんなにたくさん持ちきれないと一度は断ったのだが、特殊な植物で編んだ荷袋とロープで荷造りをしてしまえば、たちまち荷物は圧縮され、ついでに重量も半分以下となった。そうして零夜も無事に「無一文」を脱したというわけだった。


 荷物の中の、食料やら食器やら、布類やらを提供してくれた人々にお礼を言い、あちこちに頭を下げてまわる。バータルやナランとも別れの挨拶を済ませ、最後にようやく族長アルヌルに挨拶をしようという時には、なんだかひと仕事終えたような気すらした。

 少し枯れた声を咳払いで直す零夜を、アルヌルは黄昏の空に似た視線で見下ろした。別れの寂しさ、親愛、そしてどこか悲しげな瞳。零夜自身もまた、同じ目でアルヌルを見上げる。

「レイヤ殿、どうぞ息災で。貴殿から受けた恩義を、少しでも返せたのなら良いが」

 重々しく言われた言葉に、零夜は恐縮して「そんな」と返す。

「こちらこそ、最後までお世話になり通しで……ここの人たちの助けがなかったら、今ごろどうなってたか。本当に、感謝してます」

「そう言ってもらえるならば幸甚だ。この先、我々アランジャ族とレイヤ殿との縁が切れることは決してない。また困り事があれば、どうか遠慮なく頼ってくれ」

「はい。ありがとうございます」


 族長との挨拶が終わったと見るや、わっと寄ってきたのは子供たちだった。

「レイヤ、レイヤ! また来てね!」

「元気でね! 風邪ひいちゃだめだよ!」

「女神様のご加護がありますように!」

 零夜にまとわりついて、口々に別れの言葉を贈る。リツハ、トッカ、テテイ、まだよちよち歩きのメリノイ。そして、今にも泣き出しそうなユーイ。

「レイヤさん、さようなら。私のお守り、大事にしてね」

 ユーイに言われ、零夜は微笑みながら自分の胸のあたりを叩いた。ユーイのお守りはちゃんと首から下がって、服の下で零夜を守っている。

「さようなら。ユーイも、元気でね」

「うん……また会いたいな」

「また、機会があったら」

 別れの挨拶を交わすと、ユーイはすぐに零夜に背を向けた。「あれえ、ユーイ泣いてるの?」と、小さな子供たちが彼女を取り囲む。「泣いてないよお」と言い返すユーイの声は潤んでいて、零夜の鼻の奥がツンと痛む。


 乾いた鼻をすすると同時に、子供たちの向こうに立つ女性と目が合った。一瞬、零夜は彼女の内に異様なまでの神秘を見た。しかしまばたきの後、それが錯覚に過ぎないことにすぐに気が付く。

 彼女は――ナシパは、ただ朝日を背に立っているだけであり、その逆光がいわば後光のような役割を果たし、まるで彼女が実体のある神性であるかのような幻視を、零夜に与えたのだった。

「ナシパさん」

 彼女に声をかけ、零夜は子供たちの間を進む。

「お世話になりました。あの……」

 零夜の言葉は途中のままに、柔らかな拘束に遮られた。日に干した布団にも似た匂いを間近に嗅ぎながら、零夜は少し躊躇い、ナシパの身体を抱きしめ返す。

「ごめんなさいね、レイヤさん。馴れ馴れしいとお思いでしょう。ですけれど、どうか、今だけは……」

 抱擁は、ほんの数秒だけのことだった。それ以上続けていると、いよいよ別れ難くなってしまうことを、ナシパはよく分かっているようだった。


「おい、まだかかるのか?」

 別れの空気に横槍を入れたのは、針のように容赦のない尖った声だった。いつの間に戻ってきたのか、ダンニールが苛立った様子で、零夜の後ろ姿を睨めつけている。ナシパの表情にさっと影が落ち、零夜の手を握る指がこわばる。その変化があまりに痛々しく、零夜はダンニールの存在をなるべく無視し、ナシパに微笑みかけた。ナシパは、悲痛にも思える固い微笑みを返し、握ったままの零夜の両手を彼女の額へと寄せる。

「どうか、道中お元気で。あなたの望みが、全て果たされますように。青き女神の加護があらんことを」

 彼女の持つ全ての幸運を零夜に注がんとするように、萌葱色の瞳が閉じられた。

「ありがとうございます。ナシパさんも……お元気で」

 零夜もまた、心の底から彼女の幸運を祈る。零夜のことを知るもののいない異世界で、彼女は間違いなく零夜の心の拠り所だった。

 どうか、目の前のこの女性のもとに、いかなる不幸せも訪れませんように。

 それが困難な祈りであることは、零夜自身もよく分かっていた。それでも祈らずにはいられない。それがきっと、祈るという行為の本質なのだ。



 雨雲は空の果てに吸い込まれ、朝日を欠片も遮らない。草原は天から地まで全てを光の薄布に包まれ、黄金の筋雲が描く風の軌跡は、零夜の外套にほどこされたアランジャ刺繍にも似た美しい曲線をなぞっている。

 名残惜しさはいくらでもある。しかし二度は急かされないうちにと、零夜はヒルカンの背にまたがった。この精悍な馬もまた、アランジャの人々に渡された多くの贈りもののひとつだった。

 数歩の歩みを進めてから、零夜は馬上で営地を振り返る。黄金の土地。美しい、豊饒ほうじょうの風が吹くイグ・ムヮ。

「元気でなー! レイヤー!」

 大きく手を振るナランに手を振り返し、その隣に立つバータルに会釈をする。

 これで、もう本当に最後なのだ。そういう実感をもって、零夜は立ち並ぶ見送りの人々をゆっくりと見渡す。

「さようなら!」

 普段はあまり出さない大きな声は、広大な草原の中に放り出され、何に反響することもなく風の中に溶けていった。


 目指すはここより南東。丘を下った先にあるプラドという小さな村だ。ティエラとカルムを乗せた馬を先頭にして、一行は歩みを進める。

 零夜にとってここが見知らぬ土地であることに変わりはないが、それでも確かな愛着が芽生えていたのは確かだ。哀愁を胸に、零夜はアランジャの営地をあとにした。

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