デア・エクス・マキナ:潜み行くもの


 どれだけの時間が経っただろうか。遠雷に似た音を聞いていた。それはもうずっと長いこと、頭の中に鳴り響いていた。

 この音はなんだ? 血液の巡る音、擦れ合う筋繊維の音、体液のされる音。

 あるいは……


 ……あるいは……?


 思考は、あまり長くは続かなかった。考えるという行為そのものが、あらゆるものがおぼろげにしか存在出来ないこの空間に適していなかった。生と死の狭間。昏く狭い土の中で身体を丸め、永遠の安寧を貪る。擬似的な死は、ひどく心地が良い。

 安心……そうだ、とても安心する。何の憂いもなく、何の恐れもない。何の脅威もなく、何の自由もない。生きていないということは、なんと素晴らしいことだろう。



 ――おや、これはこれは。ものの見事に封印されていますね。


 どこからか、声が聞こえた。



 ――封印式も、古典的だが正統な方法に則っている。これでは、多少のことでは封印は解かれないでしょうね。


 不快だった。誰かの声が聞こえるということ自体が、ひどく不快だった。あの退屈で柔らかな、肉と体液とが発するささやかな音だけ聞こえていれば、それで良かったのに。

 誰だ? 一体誰が、この胎内の楽園を脅かそうというのか?

 低い唸り声がした。それを三度聞いてからようやく、唸り声が自分のものであることに気が付いた。

 不快だ。不快だ。不快だ。失せろ。ここから失せろ。


 ――そういうわけにはいきません。誰がここまでお膳立てしてやったと思っているんです? もうひと頑張り出来るよう、力を貸してあげましょう。


 ばつん。と大きな音がした。そしてその瞬間、享受していた全ての安息が断ち切られた。

 ――苦しい!

 苦痛ただそれのみが脳を満たす。苦しくてたまらない。この苦しみから解放されるためには、何をすればいい? 何をすればいいのか、知っているはずだ。かつて当たり前のように繰り返していたこと……呼吸だ――そうだ、呼吸をしなければ。

 呼吸をするには、どうすればいい? 呼吸を……早く、酸素を……。



 レースのように美しい造形を描いていた乳白色がいびつに捻じれ曲がり、やがて圧力に屈して粉々に砕ける。封印の骨組みを破壊しながら、は大地の外へと這い出した。

 外気を吸い込む。胎児の夢から醒めた先にある、冷たい外界の空気。それを肺いっぱいに取り込んだ瞬間、まどろみの中に忘れていたあらゆる感情――怒り、憎しみ、失望、絶望――それら全てが渦を巻き、噴出し、絶叫となって溢れ出した。


 それは、人間には決して聞こえない産声だった。

 吸って、吐いて、吸って、吐く。呼吸をするたびに、泥水の泡が口から溢れて弾け飛ぶ。白い喉笛が上下して、汚水ごと唾を飲み込む。ふたつの目玉をぎょろぎょろと動かすと、不快な声の正体が、目の前に立っていた。

「へえ。そういう姿になるんですね」

 嘲笑うような目で見下され、屈辱と怒りが胃臓を突き上げた。しかし――何かがおかしい。それに気付くやいなや、怒りなどどこかに霧散してしまっていた。

 何がおかしい? 見下されている。

 ……見下されている? 視線が低い……。

 そうだ、始めからおかしかった。白い喉笛。ふたつの目玉。

 足りない。。脚も足りない。暴威そのものであった質量も、何もかもが足りない。一体どこへ行った? この男が奪ったのか?


 一歩前へ踏み出そうとして、は自らの臓物に躓いて転倒した。腹からは柔らかな肉がめちゃくちゃに溢れ、独立した生き物のように、そこら一帯をうごめいている。肉塊を身の内に留めようと伸ばした手は妙に生白く、の思考は更に混乱した。

 何が起きている? 一体、どうなっているのだ?


「その身体には慣れませんか? そうでしょうね。戸惑うのは良いですが、早めに回復しなければ、さすがに死んでしまいますよ」

 男の忍び笑う声が、本当に、心底不快だった。可能ならば、今すぐこの男を絞め殺してやりたい。だが、しかし……この男の言う通り、このままでは良くないことになる。まずは身体を休めなければ。そして、報復の機を窺うのだ。


 臓物を引きずりながら、それは森の奥へと歩みを進める。ミトラたちは恐る恐る道を開け、の視界に入ってしまわないよう、そっと身を潜めた。が、彼らが崇め畏れていた偉大なものと同一だとは、どのミトラも気付くことはなかった。

 一体どうして気が付こうか。ミトラたちはただ、そこに生きているだけである。強大な力に畏れおののき、平伏し、そして脅威が去れば、またいつも通りの夜に戻る。星を見上げ、歌を歌い、やがて眠りにつく静かな夜……。



 今夜、出生の辛苦にさいなまれながら、一個の生きものが呱々ここの声を吐き散らした。人もミトラも、その行方を知るものは誰もなかった。いや、正確には……。


「さあ、頑張ってくださいね」

 砕かれた封印の欠片をもてあそびながら、男は悠然と微笑んだ。


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