プラド村
ダンニールが同行しているというそれだけで、一行は不自然に無言のまま道を急いだ。談笑すら憚られる空気は、身体の周りを煙のように付き纏って離れない。時々ヒルカンがダンニールの馬を気にして、頭を振ったり、苛立ったように鼻を鳴らしたりする。そのたびに零夜は、ヒルカンの首を何度か優しく叩いた。
気候は良く、風は乾いている。ぼうぼうと耳元で鳴る風の音に、高い音が混じった。ティエラが口笛を吹いている。そのメロディは楔の歌だ。馬の歩調に合わせて軽やかに紡がれる旋律が、重たい沈黙をさらって上空へと投げ散らしてくれる。
しかし何分も経たないうちに、「その歌をやめろ」とダンニールの刺々しい声が飛んだ。「楔の歌だろう? ミトラ信仰は邪教であると、何度言ったら分かるんだ」
ティエラは唇を尖らせたまま、しんがりのダンニールを振り向いた。
「だったらあなたが何か歌ってよ」
「アランジャ族は半日も黙っていられないのか?」
「あら、ゼーゲンガルト人は歌も歌えないの?」
ダンニールの舌打ちが零夜の耳にも届き、零夜は身を隠すように肩をすくめる。自分に関係あるなしにかかわらず、零夜は言い争いを聞くのが苦手だった。悪意と嫌味とを多分に含んだ言葉が、自分を挟んで前と後ろとで飛び交うのだからたまらない。
「やめなさい、ティエラ」
カルムがティエラをたしなめ、敵意の応酬はそれきりとなった。誰も、何も言わない。ヒルカンの背は居心地が良いはずなのに、零夜は何度も腰を上げて座り直した。
そんな行程だったため、地平の向こうに集落らしき煙を見つけたとき、零夜は心から安堵の溜息をついた。
くすんだ石造りの建物が並ぶプラドという村は、傾く太陽の光に輪郭を濃く極めていた。外縁には農地が広がり、水車がかろかろと生真面目に働いている。村の中央辺りに建つ高い塔が、細長い影を畑の上まで落としている。
村を訪れた零夜たちを迎えるように、重たげな鐘の音が響いた。畑や水路で作業をしていた人影が、やれやれといったように腰を上げ、大きく伸びをする。労働の区切りを伝える夕刻の鐘は、高い塔のてっぺんで太陽を反射し、点滅しながら揺れている。
「これはこれは、検問副長官様。お待ちしておりました」
村の入り口にあるアーチ状の建物で、門番らしき男が笑顔をべったり貼り付けながら頭を下げた。ダンニールは「うん」と尊大な返事をして、カルムとティエラの方を顎で示す。
「この村に危機が迫っているとの情報を遠見で得た。これより数日間滞在し、調査対応する」
「我々の村のためのお心遣い、深く感謝いたします。ささ、こちらへ」
門番の態度に卑しいものを感じ、零夜はキヤの方を盗み見た。彼もまた気を害したような顔をしており、零夜の抱いた感想は妥当なものであることが分かる。やけにへりくだっていて、媚びへつらうような態度。見ていて気持ちのいいものではない。
一方でティエラは慣れたもののようで、「行きましょ」と零夜たちを先導する。その行き先はダンニールとは別の方向だ。零夜はダンニールの後ろ姿と、ティエラの横顔とを交互に見る。
「あれ、一緒じゃないのか?」
「一緒なわけないでしょ。あの人はお役人用の、無駄に豪華な宿舎に泊まるの。私たちはこっち」
ティエラの指差す先には、いかにも安宿といった様相の、木造の建物が並んでいる。一階部分が大衆食堂になっているらしく、労働を終えた男たちがちらほらと、酒をあおりに集まり始めていた。「私はこっちの方が好き」と言うティエラの頬に、ようやく微笑みらしきものが浮かぶ。
「あっちの宿舎に泊まったときのことは、もう思い出したくもないわ。みんな、私に取り入ったらゼーゲンガルト連中に気に入られると思って、媚びとおべっかの嵐なんだもの。私が役人嫌いだって分かったら、次からは安宿行きになったけどね。私、ああいうのってすごくいや。カルムもそうでしょ?」
カルムは少し困ったように首をかしげる。
「皆
「そう? でもなんだかそれって、私たちもあいつらと同じだって言ってるみたい」
「変わらないさ」
「そうかなあ?」
ま、良いや。と軽やかに話を切り上げて、ティエラは数歩駆け出してから振り返った。
「私、先に宿のおじさんに知らせてくるね。いつもより人が多いから、その分準備が増えるはずだもの。あ、レイヤ。カルムの先導をお願いしていい? 馬たちに疲れが出てないか視てもらわなきゃいけないから、一緒に
一気にそれだけを言って、零夜の返事を待たずにティエラは宿へと走っていった。青い髪が波打ちながら、大通りを遠ざかっていく。「元気だなー」と、前髪を掻き揚げながらキヤが呟く。
「そういえばキヤ、今日は静かだね」
「ん? まあ、歌うなだの黙ってろだの、うるさい野郎が一緒だったからな」
「キヤも、ゼーゲンガルトの人が嫌い?」
「好きに見えるか?」
「ん……」
黙ってしまった零夜に、キヤは口端を吊り上げて笑ってみせる。その笑みの意味が分からず立ち止まってしまった零夜をせっつくように、ヒルカンが鼻先で零夜の肩を押した。
厩にヒルカンたちを留め、カルムに馬の様子を視てもらう。カルムは慣れた様子で馬たちの頭に手をかざし、宙を撫でるようにゆったりと左右に動かす。馬たちは皆カルムのことが好きなようで、鼻先でカルムの手のひらをくすぐったり、手のひらに頭を押し付けてうっとりと目を閉じたりする。
「それもあんたの遠見なのか?」
馬具を外しながら、キヤが問う。「ええ」と、カルムがヒルカンの鼻を撫でながら答える。
「馬たちに『接続』しているんです。もちろん言葉は分かりませんし、四足の彼らと二足の私では感じ方も少々違いますが、異常があれば分かります」
じっくりと時間をかけて、馬たちに極端な疲れがないことが確認できたころには、辺りはすっかり薄暗くなってしまっていた。
零夜たちはカルムの手を引いて、先ほどの宿へと向かう。厩は通りからやや離れた静かな場所にあるため、建物の裏を伝って大通りへと抜けなければならない。土地勘のない零夜は、あわや迷子になりかけたが、キヤが厩までの道を完璧に覚えていたため、事なきを得た。
大通りまで来れば、目的の宿はすぐに分かった。大勢の人の声と明かりとが、窓から表まで漏れ出ている。扉の上にかかった看板には、零夜の知らない文字が書かれている。あれは「宿」と書かれているのか、それとも「食堂」と書かれているのだろうか。そんなことを考えながら、零夜は宿の戸を開く。
途端、内側から扉を押し開くようにどっと溢れた音の圧に、零夜は思わず軽くのけぞった。話し声、笑い声、食器の触れ合う音、椅子と床とがこすれる音。そして音と共に、何人もの瞳が一斉に零夜たちに向けられる。その視線の多くは、零夜の隣に立つカルムに注がれている。「カルム様!」と嬉しげな声が上がった。
「やあ、大荷物で大変だっただろう! こっちへ来て座ってくれよ!」
盲目のカルムの肩を支えるように集まった男たちが、カルムを中央の席へと案内する。食堂の中には丸テーブルと椅子が乱雑に並んでいるが、誰もが率先して椅子をどかし、カルムのために道を開けた。
カルムが案内されたテーブルには、既にティエラがついており、アランジャ刺繍の施された布小物を手に、大人数人を相手に何やら商談にいそしんでいる。カルムが到着したことに気が付くと、ティエラは顔を上げ、カルムに何やら囁いた。カルムがうなずくと、青い瞳は店内をさまよい、入り口付近に立っている零夜を見付ける。ティエラが小さく手を振った。そしてまた、さっさと商談に戻ってしまった。
ここに集まった客たちは誰も、零夜やキヤには関心を示さないようだった。あっという間に、ティエラとカルムを取り囲む人だかりができる。
「遠見で何か不吉な兆候が出たんだって? しかしカルム様が来てくださったなら、大事にはなるまいよ。なあ?」
そうだそうだ、といくつもの同意が飛んだ。大して広いとは言えない空間に、大勢の大声がわあんと響き、零夜はその迫力にすっかり呆気にとられていた。トモルが何人も集まって一斉にお喋りを始めたら、こういう喧騒になるかも知れない。
「お客様。あの、お客様!」
男たちの声に掻き消されていたらしい声が、よく聞こえるようにとトーンを上げて、ようやく零夜の耳に届いた。そちらを見ると、白いエプロンを垂らした少女が零夜とキヤを見上げている。歳は十歳を少し過ぎた頃、恐らくユーイと同じ年頃だろう。態度こそ大人びてはいるが、丸く紅い頬にまだ幼さを残している。
「ティエラさんから、大切なお客様だと伺いました。どうぞお好きなお席へ」
「ありがとう。えーと……」
「そいつはアリエだ! 俺の娘!」
少女が答えるより先に、カウンターの奥から大声が届いた。湯気のたつ鍋の向こうで、壮年の男が口ひげを歪めて笑っている。
「俺に似ずに、よく出来た娘だよ。ほら旅人さん、こっち来て座ってくれ。夕餉ならすぐに出来るからさ!」
促されるまま、零夜とキヤはカウンターに一番近い丸テーブルを囲む。木製の椅子は座り心地よりも頑丈さを重視して作られたもののようで、申し訳程度の薄い座布団が、背もたれの根本に括り付けられている。
宿の男はソーグといった。彼は無骨な見た目に似合わない繊細さと手際の良さで、てきぱきと調理をこなしていく。
普段は大衆食堂の切り盛りで生計を立てているそうで、宿の経営はついでのようなものらしい。宿の主人としての仕事があるのは、アランジャ族の人々が村を訪ねたときくらいのものだという。
「子供たちもよく手伝ってくれてね、儲かりゃしねえが細々とやってるよ。女房に先立たれてからは、料理の腕だけは上がっちまった。ほら、大皿いっちょあがり! 一番はどのテーブルだ?」
店中に響き渡る声で呼びかけると、中央のテーブルの男たちが、「こっちに決まってる!」と真っ先に手を挙げた。カルムとティエラが囲むテーブルだからか、異論は店のどこからも上がらなかった。
「向こうのお皿から少し貰って来ました。どうぞ」
零夜たちテーブルに、プレートが置かれる。アリエが気を利かせて取り分けてくれたらしい。円盤型の平パンを、刻んだゆで卵や野菜が彩っている。端にはぶつ切りの肉が添えられ、流れ出た黄金色の油がパンの表面をつやつやと輝かせ、食欲を煽る。
「ありがとう」
「いいえ。ねえ、ここに座っても良いですか? 旅のお話を聞かせてください!」
ようやく年相応の好奇心を滲ませたアリエが、同じテーブルの三つ目の椅子に座る。人の往来の少ない村では、旅人の話ほど胸踊る娯楽もないのだろう。こういう場合はキヤの独壇場となる。
「良いぜ。どんな話が良い? 生まれてから死ぬまで、ずっと船の上で暮らす奴らの話か? それとも北の山奥にある、言葉を持たない国の話か?」
「えっと、そしたら……」
アリエが声を弾ませる。彼女のリクエストで、『無言の北国の話』が始まった……その直後。
「ただいまー! 父ちゃん、
大きな音を立てて、カウンターの奥にある裏口が開いた。木製のドアを開け放ったその少年は、宴席と店いっぱいの客の姿とを見て、慌てて声のボリュームを絞る。
「でっかいハタがいたから、今度捕りに行こ……」
父親に叱られるのを覚悟したのだろうその子供は、尻すぼみになった言葉と共にしゅんと俯く。
「スジュ、ドアは静かに開ける。あと店に入る前には、なんだった?」
「靴の泥を落とす。ごめんなさい」
素直に謝ったその子にソーグが容赦の笑みを向けると、少年スジュは表情を明るくした。一度店の外に出て靴の泥を落としてから、また跳ねるような足取りで屋内に戻ってくる。
「あっ、おきゃくさん? こんにちは!」
「もう、スジュったら。駄目よ、靴の泥を落とさないでお店に入ったら!」
アリエの叱責に、スジュの細い肩がすくめられた。「もう父さんに怒られたよう」と、憐れっぽい声で弁明する。
「ちゃんとごめんなさいしたもん」
「あのね、ごめんなさいをしたって、同じことを繰り返すんじゃ意味ないんだからね」
なおも厳しい姿勢を崩さないアリエを、「まあまあ」とキヤが制す。
「スジュって言うのか? 二人は
向こうのテーブルでは、歌と踊りのどんちゃん騒ぎが始まった。かたやこちらのテーブルでは皆が口をつぐみ、キヤの語る『無言の国の話』に耳を傾ける。
テーブルいっぱいの料理に、大きな木樽ジョッキに波々と注がれる酒。とうとう断りきれず――自身の興味に押し切られたかたちもあり、零夜は麦酒に口をつけた。
騒ぎ笑う人の声。歌と踊り。喧騒の中にあって、その喧騒に溶け込みながら、零夜はここにいない人のことをぼんやり考えていた。
――ダンニールは、どうしているだろうか?
零夜をカノヤの間者と疑う彼のことだ。自分に媚びへつらう人間に、零夜のことをどう吹聴しているのか、想像に難くない。理仁の手がかりを追うのに、アランジャの営地でやるよりはかなり難航するのは確かだろう。
それでも、やるしかない。やらなければ。……大丈夫、きっとやれる。
いつもより少し気が大きくなっているのは、この喧騒の中に小さくとも確かな居場所を確立しているという安心からかもしれないし、ジョッキの半分ほどを飲んだ、初めての麦酒のせいかもしれなかった。
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