ミトラというもの


 ティエラとカルムを歓迎する宴会は、つまみの料理がなくなってちらほらと人が帰り始めたのを契機に、深夜になってようやく終わりを迎えた。

 アルコールにぼやけた、重い頭が負担でたまらず、零夜は倒れ込むようにベッドに横になった。零夜の倍以上も飲んでいたはずのキヤは、頬を赤く染めてすらいない。にやにや笑いで、倒れ込んだ零夜の背中を軽く叩く。

「お前、酒に弱いんだな。そういや営地でも、ニシュを断ってたな」

「お酒、初めて飲んだんだ……」

 喋ると、自分の声すら鼓膜を抜けて脳髄に突き刺さる。呼吸をするだけで、天地を彷徨うような浮遊感が、肺の奥からこみ上げてくる。

「その調子じゃ良い返事は期待できないが、始めての酒はどうだった?」

「変な感じ……あんまり好きじゃない気がする」

「そりゃ可哀想に」

 返事をする余裕もなくなってきて、零夜は額を枕にこすりつけた。もう夜も更けて眠くなっているはずなのに、身体に残ったアルコールとその分解産物が、零夜に平穏な眠りを許さない。

 眠ろうと努力するより、少し夜風にでも当たった方が良いかもしれない。そう思い、零夜は油粘土のように鈍重な上体を起こした。


 二階の窓からは、馬に揺られて来た草原が真っ直ぐ地平までよく見える。木製の鎧戸を押し上げると、壁にぽっかりと開いた四角が夜を切り取る。

 発光性ミトラが飛び交う草原は、どこもかしこも光の海のようだ。そこから少し視線を下げてプラド村の石垣内になると、発光性ミトラの数はぐんと減り、本来の夜闇が地から天までを覆っている。この闇の中に見える明かりは、正真正銘人間の営みによるものだ。民家の窓明かり。小路こうじの交差地点には、卵色に光るアカリカズラ。


 その中にゆっくりと動く光を見付け、零夜は窓から少しだけ顔を出した。夜風がこめかみの髪をなびかせ、耳の辺りがくすぐったい。

「どうした? レイヤ」

「いや、誰かいるなと思って。村の人かな。こんな時間に」

「どれ」

 キヤが、零夜のすぐ横から外を覗く。ランタンの丸い明かりが、わずかに上下にぶれながら、村の外れへと移動していく。この距離に夜暗が重なれば、とてもではないが誰が歩いているのか見当もつかない。明かりはしばらく小道をうろうろしていたが、やがて建物の影に掻き消えた。

 明かりの消えた先の黒を、零夜はぼんやりと眺める。あの先は、村の辺縁部だ。ここへ来るまでに見た限りでは畑しかないようだったが、人影はどこへ向かって行ったのだろう。

 キヤは不明の光を追うことにすぐに飽き、寝る前の一服といって煙管きせるをふかし始めた。香辛料のような香りをまとい、細い煙が零夜の方まで漂ってくる。お前もやるか? という誘いを、零夜は丁重に断った。

「つまらん奴だな。禁欲主義者か?」

「別に、そんなんじゃないよ」

「酒もやらん、煙草もやらんと来りゃ、女遊びもやらなそうだな」

 黙り込んだ零夜に、「やっぱりな!」とキヤが愉快そうに笑う。

「分かったぜ。お前の正体は、カノヤの修道士だ。カノヤに修道院があるかは知らんが」

 キヤのからかいを、零夜はまるきり無視した。アルコールの入った重たい頭では、とてもではないが気の利いた答えは返せない。


 窓際に頬杖をついて、冷たい風を受けた。湿気を含んだ夜の香りが、今はなによりもありがたかった。酒の匂いを嗅ぐと、どうしても酔いつぶれた父親の姿を思い出してしまう。自分の呼気から彼と同じ酩酊の匂いがすることに、零夜はほのかな嫌悪を感じていた。

「酒を飲んでそんなシケた面するんじゃ、飲まん方が無難だな。……気を害したか? 悪かったな」

 キヤの顔からは、零夜をからかう調子はすっかり消え失せている。

「いや……キヤのせいじゃない。ちょっと考え事してただけ」

 開いた窓の隙間から、羽虫型のミトラが舞い込んだ。零夜の鼻先をかすめて舞い上がり、惑ったすえに零夜の髪の上に降り立つ。小さな声で何かを呟きながら、零夜の髪を弄び始める。

 やや硬質な髪の毛に翻弄されている、ごく些細な生き物。それでいて、確かに意味を持つ言葉を発する、意思ある生き物。よく耳を澄ませてみれば、彼かが何を言っているのか聞き取ることができる。

『しらない……とこ。かたい……くさむら……どうしよう……』

 どうやら零夜の髪を草原の草だと思い込み、知らない草原へ降りたってしまったと焦っているらしい。零夜はミトラを潰してしまわないように、慎重に頭の上を探った。手のひらにふんわりと包まれたミトラは、薄緑色に光る羽を震わせて、今しがた自分を捕まえた人間の顔をまじまじと見上げる。


「ミトラって……なんなんだろ」

 そのつもりなく、零夜の口から疑問がこぼれ出た。

 この世界に来てから、多くのミトラと出会ってきた。目や手や脚が雑多に生えていて、その姿に一貫性がなく、行動原理も生態も全く異なる生き物たち。それらが一緒くたにまとめられ、一概に「ミトラ」と呼ばれている。ミトラという生き物の本質が、零夜には未だに見えていなかった。

 キヤは、零夜の疑問の意味が分からないようで、首を傾げながら紫煙を吐き出す。

「なんなんだって言われても、ミトラはミトラだろ?」

「普通の生きものとは、明らかに違うだろ。普通の……トカゲとか虫とかは、喋らないし」

「俺にとっちゃ、ミトラも喋らんが……だがまあ、もちろん違うさ。しかし、改めてなんなんだと言われると、説明に困るな。なんて言うのかな。ミトラは『真似事』をしてるだけなんだ。実際のところ、ミトラには定まった姿なんてのはないんだよ。教えたろ? 生の女神を裏切った代償として、ミトラは不定の生き物となった。それが他の生き物の真似をして、まっとうな生き物のように振る舞ってる」

「じゃあ、このミトラも……」零夜が、手のひらの上のミトラに視線を向ける。

「虫みたいな見た目をしてるけど……虫の真似をしてるだけ?」

「ああ」

 キヤの説明を咀嚼しながら、零夜はこれまでに見てきたミトラを思い返す。一口にミトラと言いつつも統一性のない外見は、ミトラがそれぞれ思い思いの姿に「擬態」するからなのだろう。


(そういえば、初めて会ったあのミトラは……)

 こちらの世界に来たばかりの夜、草原で出会った灰色のミトラは、こけしのような形をしていた。

「人間の擬態をするやつもいたりするのか? イグ・ムヮで俺を襲ったミトラは、最初こういう……」

 丸い頭部に簡素な胴体がついただけの、細長い鍵穴のような形を、空中に指でなぞって示す。

「人間みたいな形をしてたんだけど」

「そりゃタチの悪い模倣だな。目鼻はついてたか?」

 首を横に振る。あの灰色の人型は形ばかりの「人型」ではあったが、顔面はのっぺらぼうだったし、挙動も到底人間らしいと言えるものではなかった。

「ミトラは姿んだ」

 キヤが説明する。ミトラは様々な物に擬態する。植物、昆虫、爬虫類、鳥類、哺乳類。しかし常識はずれの擬態能力を持ちながら、完全な人型をしたミトラだけは存在しないのだという。


「これも神話の通りだな。ミトラは青き女神を裏切り、反逆した罪なる生命――その罰として、女神と同じ姿を奪われたって」

「女神様は人の姿をしてるから、ミトラは女神様と同じ……人型には、なれない?」

「逆だけどな。女神が人の姿をしてるんじゃなくて、人間が女神と同じ姿をしてる」

 なんとなく掴めたような気がして、零夜は羽虫のミトラに息を吹きかける。ミトラは手のひらから指の先まで吹き飛ばされ、短い触角で不思議そうに周囲を探り、そのまま何事もなかったかのように羽を震わせ、室内を飛び回り始める。

(……でも)

 まだ頭の隅に、疑問が引っかかっている。疑問というより、違和感という方が正しい。

 姿

 その鉄則を聞いたとき真っ先に思い浮かんだのは、月光のごときまたたきと、澄んだ氷河の蒼色だった。


「キヤ、覚えてる? 銀色の髪の……ハロって呼ばれてた人」

 零夜の呟きに、キヤがハッと顔を上げた。

「楔のとこで見たやつか」

「うん。キヤは……あの人が、ただの人間だと思う?」

 答えようとしたキヤの言葉は、気道の途中に引っかかった。次に声を発するためには、喉を塞いだその言葉を、唾と一緒に飲み込んでしまう必要があった。キヤの喉仏が上下する。

「ありえない。人間の姿をしたミトラ? そんなものがいるわけがない。あれはただの……ただの、人間だ」

 零夜の考えを否定するというより、キヤ自身、なんとか納得しようと努力しているようだった。しかしその声にも、自信の無さがありありと浮かんでいた。何が決定的とも言い難い。ただハロの、あの狂気的に美しい姿を見たとき、という確信めいた印象を、キヤも抱いたに違いなかった。

「まさか……そんなもの。そんなものがいるなら、俺は……」

 キヤは独り言のように呟き、そのまま言葉を続けることなく唇を結んだ。その赤い瞳は、部屋の隅の闇へと向けられている。

 意図的な沈黙から、この話をこれ以上続けたくないという拒絶を感じ取り、零夜は押し黙った。羽虫のミトラは、いつの間にか窓の外へと飛び去ってしまっていた。



 キヤの煙管のくすぶりが消えると、部屋の中に二人のほか、動くものの気配はいよいよなくなる。宴会の後片付けをしているのか、階下から続く物音だけが、この静かな夜にかすかな波をもたらしている。

 零夜とキヤは、どちらからともなく「おやすみ」を言い、口数の減ったままにベッドに潜り込んだ。


 酔いはまだ抜けていない。痛む頭と全身のだるさとを抱えたまま、零夜は眠ろうと努力をした。耳元でごうごうと鳴る血流に、幼いころ経験した、嵐の夜を思い出す。

 うつらうつらと浅い睡眠の淵に引っ張り込まれ、しかし熟睡も出来ない。時おりひっそりと覚醒したときは、わずかに開いた瞼の隙間から、窓の外の光たちが視界に滑り込んだ。小さなミトラが飛んでいる。その向こうの濃紺の夜空に、七つ並んだ星が瞬いている。いや、夜空なんて見えないはずだ。鎧戸は閉めてしまった。じゃあ、今見えている夜空は夢なんだろうか……。

 自分が眠っているのか起きているのか、よく分からない曖昧な状態が繰り返される。どっちつかずのまどろみの中で、零夜の思考はぐるぐると巡る。


 ミトラ……神に罰され、女神に似た姿を、永遠に奪われた生き物。だとしたらミトラは本来、人間と同じ姿をしていたはずだ。もし、その姿を奪われないままに今日まで生きてきたミトラがいたとしたら……?

 それは、本当にありえないことなのだろうか……。


 その夜、零夜は何度も寝返りをうっては、意識の波打ち際をさまよった。


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