渦の中の狼たち


 トモルの幕家は、ナシパのものより一回り広いようだった。バータルに場所を聞いて行ってみると、トモルは自分が幕家の場所を伝え忘れたことにも気が付かない様子で、「遅かったな!」と零夜の背中を叩く。相変わらず、力加減は一切なされていない。

 彼の肩越しに、柔和そうな女性と目があった。小椅子に座ったまま、彼女は零夜に微笑みかける。

「始めまして。アヤラマーです。お話には聞いていますよ、レイヤさん。夫と息子がお世話になりました」

「俺の方こそ、色々助けてもらってます」

 トモルの妻、ナランの母親である彼女は、上品に会釈をする。奔放な二人とは対照的に、何をするにも最低限の物音しか立てないだろうと思わせるような、静やかな女性だった。小椅子のそばに、歩行補助用の杖が立て掛けてある。手先の器用なナランが施したのだろう、杖には渦模様の装飾が施されている。

 幕家の中に視線を巡らせれば、ほかにもナランお得意の木彫りの何かが、あちらこちらにあった。木製のマグカップには草原を駆ける馬が、家畜の骨で出来た魔除けには敵を威嚇する猛禽の羽が、生き生きとした姿を披露している。その他にも羊やヤギ、満開の花々や魚の姿こそあれど、しかしナランの姿はどこにもない。彼の所在を問えば、隣の幕家にいるのだという。

「ほれ、レイヤ! こっちから布団を運んでよう、ナランの幕家で寝ると良い。ちょっとばかし窮屈かも知れんが」

 幕家の奥で何やらごそごそとやっていたトモルが、必要以上に大きな声で言った。かなり大ぶりの布団をいくつか広げて、首を傾げている。

「これじゃあ布団が大きすぎて、かえって手狭になっちまうか」

「トモル、あっちのお布団の方が大きさも丁度いいし、上等だわ。あれを持たせて差し上げて」

「おう、おう。そうか、そうだな!」

 トモルとアヤラマーは、豪快と物静かの組み合わせながら、なかなか息の合う夫婦のようだった。

 分厚く、手触りがよく、柄も豪華な布団を持たされて、何かあったらすぐに呼べとか、寒かったら布団まだあるからなとか、とにかく多々の言葉も上乗せされて、零夜はふらふらとナランの幕家に移動した。



「おお、レイヤ。あはは、すごい大荷物だなー」

 抱えた布団でほとんど前が見えない零夜を見て、ナランは呑気ににこにこ笑う。

 ナランの幕家は、これまでに見てきたどの幕家よりも個性的だった。トモルの幕家にも相当数の木彫り製品があったが、ここはその比ではない。木彫りの人形が所狭しと並べられている。入り口付近にぶら下がる魔除け飾りは、これもまた全て木彫り細工のもので、いくつかは勝手に動いて、からからと絶え間なく音を鳴らしている。常にどこからか、誰かに見られているような気持ちがしてならないのは、木彫りの人形のせいだろうか。それとも、魔除け飾りを揺らす何者かのせいだろうか。

「気になるか?」

 ナランが、左右に振れる魔除け飾りを見て言った。

「来客があるときは、よく揺れるんだ。姿を見たことはないけど、たぶんミトラだと思う」

「うん……ミトラだ」

 そのミトラはよほど小さいか、あるいは透明な姿をしているのだろう。零夜にもやはり姿は見えず、それでもミトラの囁く声だけは、しっかりと届いていた。『おきゃくさん。だれかなーだれかなー』と繰り返す声が、木と木が触れ合う軽やかな音の合間に聞こえてくる。「そっか、やっぱりミトラか」と、ナランは嬉しそうに目を細めた。


「狭くないか? こっちをもっと空けようか」

「大丈夫。ありがとう」

 人形たちを箪笥の上によけて、ようやく二人分の布団を敷くことが出来た。柔らかな布団の上に身体を投げ出すと、布団に接した背中の部分から、疲労が体を包み込んでいく。とても疲れた。これは身体的疲労ではなく、気疲れのたぐいだろう。

 ダンニール。零夜を目的に押しかけたあの男の、あの視線。そして、すっかり怯えきったナシパの、引きつるように痙攣していた口元……。それを思い出すだけでも、幾重にも重なった疲労の膜が、一枚また一枚と増えていくような気がしてならない。

 零夜の心境を知ってか知らずか、ナランは隣で布団を揉み込み、いい具合の寝心地になるよう整えている。その横顔は、どこか楽しそうだ。

「なんだか弟が出来たみたいで楽しいな。……それどころじゃないのは、分かってるんだけど」

 状況にそぐわない喜びを抱いていることには自覚的らしい。しかし零夜としては、弟が出来たみたいだと言われても特に嫌な気はしない。零夜は長らく「兄」であり、弟であった経験は生まれてこのかたまるでない。弟であるということがどういうことなのか、あまりピンとは来ないが、そう言われるとくすぐったいような嬉しさがある。

「いや、別に良いよ。でも、ナランって俺より年上だっけ?」

「二十一」

「……同い年くらいかと思ってた」

 正直な感想を口にすると、ナランは「わはは!」と声を出して笑う。

「バータルいわく、俺は落ち着きがなさすぎるから幼く見えるらしい。レイヤは、兄弟はいるのか?」

「男兄弟はいない。妹がいるんだ」

「へえ。レイヤお兄ちゃんか」

 零夜が口の端だけで笑うと、ナランはその倍以上の笑顔を返す。それがよくトモルに似ていて、零夜は改めて、二人が親子であることを実感する。からんころん、と天幕のどこかで魔除け飾りが鳴っている。



 夜のイグ・ムヮは、草原全体に分布する発光性ミトラのために、地上に星空を写し取ったごとく美しい。人の営みの明かりが消えたあとも、真の暗闇は訪れず、ぼんやりとした薄ら明かりが営地を包み込む。零夜は、この光景が好きだった。

 暗闇というものには、どうしても本能的なものに近い恐怖を抱いてしまう。電灯という赫赫かっかくたる文明に慣らされた零夜にはなおさらだ。この草原――イグ・ムヮが光に満ちた場所で良かったと、夜を迎えるたびに零夜はしみじみと思うのだった。

 幕家の外に広がる幻想の光景を感じながら、零夜は焦点を合わせないまま、天幕に視線を投げる。寝具の快適さを感じる余裕が出てきたのは、疲労の膜が全身を覆い尽くし、これ以上疲れを感じようがなくなってからだった。なるほどアヤラマーが上等と言うだけあって、雲に抱かれている心地になる。いつもならばすぐに睡魔に負けるのだが、今日は神経が緊張しているのか、なかなか寝付けない。


 零夜は寝転がったまま両手を挙げて、手のひらを組み合わせた。鉱石灯に照らされて白く広がる天幕に、輪郭のぼやけた影が大きく映し出され、動物の形を模したままぎこちなく動く。「分かった、狼だろ」と、まだ起きていたらしいナランが訊く。本当は犬のつもりだったけれど、零夜は「うん」と肯定した。

「面白いな、それ。どうやるんだ?」

 ナランは零夜の方へ寝返りを打ち、零夜の真似をして、顔の前で手を組んでみる。しばらく四苦八苦し、やがて天幕に二匹目の狼が現れた。

 影の狼たちはしばらく、天幕の上でじゃれあった。零夜の狼が噛み付くそぶりをすれば、ナランの狼も負けじと大きく口を開ける。ナランの狼が鼻面を上向けて「ウゥー」と小さく遠吠えをした。零夜の狼も天を向いて、「ワゥー」と遠吠えを返した。

 意味のないふざけ合いは、しばらく続いた。やがてどちらからともなく、狼たちは手のひらのかたちにほどけていく。零夜もナランも、夜にどっぷりと身を浸しながらも、眠りの瀬からは程遠い。眠る努力をするでもなく、しかしもうふざける気にもならず、二人はじっと夜を見つめる。


「ナシパにはさ」

 静寂を破ったのはナランだった。

「セルトムっていう息子がいたんだ」

「名前は初めて聞いた。……外套をもらったんだ。俺の身長に合わせてもらった」

「そうか。あれ、セルトムのだったのか」

 ナランは何か考えるようにひといき置いて、また話し始める。

「今日来た、ダンニールって役人がいただろ。あいつがセルトムと同じくらいの年齢で、昔はよくつるんでいたらしい。それが、十年くらい前……俺も伝聞でしか知らないんだけどな、二人で北方国境での警備任務に出掛けた先で……セルトムが死んだんだ。帰ってきたのはダンニールだけだった。

 ゼーゲンガルト側は、不幸な事故だったと言い張ってるが……どうだろうな。セルトムは武芸に秀でていて、頭も良かった。次期族長に間違いないって言われてたらしいから、ゼーゲンガルトにとっては厄介な存在だったんだろうな」

「それって……殺されたってこと?」

「ナシパはそう思ってるし、ゼーゲンガルトを許していない。これからもきっと……ずっと許せない」

 殺された、という単語を舌に乗せるのに、奇妙な抵抗があった。元いた世界では、時として戯れの言葉として耳にしていた「殺す」とは、明らかに異なる重みを持つ。


「……知らなかった」

 ナシパに貰った外套は、袖も丈も零夜には少し大き過ぎた。あの余分こそが、今は亡きセルトムという人間の腕の長さであり、背の高さだったのだ。

 外套を零夜にあてて、「少し大きいかしら」と言ったときのナシパの顔を思い出そうとする。たしか、笑っていた。しかし、それが他にどんな感情をはらんだ笑顔だったか、そこまでは思い出せなかった。

「セルトムは、レイヤに似てた気がする。穏やかで……他人ひとに気をつかって笑う人だった。そうだ、歳もちょうど――」

 言いかけて、ナランは言葉を切った。話し過ぎたと思ったのかも知れない。

「レイヤ。なるべく早めに、ここを発った方が良い。役人連中は、未知の力を持つお前がアランジャ族に肩入れするんじゃないかと、それを危惧してるらしい。ここから離れて遠くへ行けば、わざわざ追ってくることはないだろう。名残惜しいけどさ……お前に何かあると、ナシパが悲しむよ」

「……うん」

 目を閉じて、ナシパの横顔を思い描く。あの細い身体と、老いの滲み始めた小じわの中に、こびりついて剥がれない悲しみや憎しみがあったのだ。

 かつてここに在った、セルトムという人間のシルエットを、薄闇の中に思い描く。もし零夜と会っていたら、どんな言葉を交わし、どんな顔で笑っただろう。


 沈黙が続く。魔除け飾りが軽やかに踊る音がする。もういいかげんに、寝なければいけない。零夜は何度か寝返りをうって、寝心地の良い角度を探る。

 どこかで、ミトラがふんふん歌っている。聞いたことがあるメロディだと思ったら、アランジャ族の人々がよく歌う、楔の歌だった。



 ――そういえば。と、零夜の脳裏に蘇る疑問があった。

 大山風おおやまじの楔が、人間に牙を剥いた直接の原因……あのとき、楔が口にした言葉の意味を、深く考える機会を失っていた。零夜は、彼の言葉を改めて思い出す。

 ミトラは青き貴き、生の女神を裏切った。その罪のため女神と同じ姿を奪われ、卑しい下等な生命へと堕とされた。だがそれは、人間が都合よく改変した神話に過ぎない。真に女神を裏切ったのは……。


「ナラン、まだ起きてる?」

 小声で呼びかけると、「どした?」と返事がある。声色からして、まだまどろみもしていなかったらしい。「ごめん」と断ってから、零夜は布団に肘をつき、そっと頭を起こした。

「あのさ、ちょっと聞きたいんだけど……創世の神話ってあるだろ? 青い女神様を裏切ったから、ミトラは女神様と同じ姿を奪われたって。あれって……本当にあったことなのか?」

「ん……そりゃそうだろ。神話なんだから。生の女神と死の女神が争って、人間は生の女神に味方して、ミトラは死の女神に味方して戦争をしたんだ。それがどうかしたか?」

「その話って、誰が語り継いだんだろう?」

 布団の向こうで、ナランが怪訝な顔をした。

「一族の首長とか、語り部とか、語り継ぐ人間なんて沢山いるだろ。ゼーゲンガルトだったら、教会があるし……」

 暗闇の向こうにナランの姿を透かし見ながら、零夜は考え込む。二人の間には認識の齟齬がある。ナランや、ほかのアランジャ族――この世界の人々にとって、神話とは事実の延長線上にあり、ほとんど真実である。

 しかし零夜にとって神話とは、たとえ始点が事実だったのだとしても、その周りを分厚い虚実に覆われた「創作」に近いものだ。

 事実は時を経るに従い、その時々の政治的要素や語り継いだ人間の思想によって、徐々に捻じ曲げられていく。捻じ曲がったぶんだけ事実は虚実となり、やがては完全な「創作」となる。

 神話と呼ばれるほどに過去の事実ならば、そこには数え切れないほどの意図が絡まりあっているだろう。問題はその虚実が、誰によって編み込まれたものであるか。真実と置き換わった虚実が、現在の神話のどの程度を占めているのか……。


「楔と話したとき、楔が言ってたんだ。人間が、自分たちに都合のいいように神話を改変したんだって。それを知ったから、人間に対してあんなに怒ってた。だから、もしかすると神話そのものが……」

「それ、族長アヴニかバータルに言ったか?」

 食い気味に訊かれ、零夜は「いや……」と、もそもそ答えた。

「ごめん、今の今まで忘れてたんだ。重要なこと……だよな?」

「うん。明日、すぐに伝えに行こう」

「そうだよな……分かった」

 そして二人は再び無言になった。夜を越え、朝を迎えて一番にやるべきことが出来たからか、さっきまでとは打って変わって、眠気が親しげにすり寄ってくる。義務的な沈黙の中に、やがて二人分の寝息が響き始めた。

 ミトラは相変わらず歌っている。ナランが歌っているのを聞いて覚えただけで、このミトラ自身は歌の意味すら知らないのかもしれない。今は大地の奥深くで、封印の眠りについている楔。彼を讃える歌を、夜通し歌い続ける……。



 日が昇り朝がくると、魔除けの陰で歌っていたミトラは既にどこかに去ってしまっていた。その代わりとばかりに、陽気な鼻歌が天幕の中を巡る。朝支度をしながら歌っているのはナランだ。零夜が知らないいくつもの歌を歌うナランに、機嫌がいいのかと尋ねれば、「機嫌が良くても悪くても、俺は歌うぞ!」という気持ちのいい答えが返ってきた。

 あらゆる思惑が交錯する中で、ナシパのもたらす安息と同様、ナランの明るさもまた救いだった。彼に連れられて、零夜は族長――アルヌルの元を訪れる。


 アルヌルはいつもの豪奢な幕家にはおらず、その裏で立派な角のヤギたちに、寄生性のミトラを避ける特殊な胴着を着せようと格闘していた。刺繍の美しい胴着と、それを嫌がってか不機嫌に鼻を鳴らすヤギたち。その中に立つ彼は、族長という立場を肩から降ろした、ひとりの中年男性だった。アルヌルは零夜たちに気が付くと、やや気恥ずかしそうに咳払いをした。


 楔の漏らした言葉を伝えると、アルヌルは疲労の蓄積したこめかみを、鬱陶しそうに親指でほぐした。

 彼らの信じる神話の真偽、それも根底に関わる部分に、疑わしい影が存在する。そういった漠然とした不安要素に対する嫌気かと、零夜にはそう思われた。しかし事態はもっと、緊迫したもののようだった。

「だって、ほら」

 分かっていないふうの零夜に、ナランが言う。

「楔はつい最近、その……楔の言うところの『真実』を、知ったんだろ? あの洞穴から離れられない楔が、どうしてそんな考えを持った? つまり、わざわざ楔のもとまで赴いて、楔にそれを吹き込んだやつがいるってことだ。人間に対する怒りと不信を楔に植え付け、アランジャ族の生活と信仰をめちゃくちゃにしようとしたやつがいる」

 アルヌルが、長い溜息をついた。

「なんにせよ、レイヤ殿が知らせてくれて助かった。旅立つ最後まで、我々の問題で煩わせることになってしまったな」

「いえ……」

 旅立つ。そう、零夜は間もなくアランジャ族の営地を去る。しかし、それで本当に終わりだろうか?

 零夜自身が望んだことではないとはいえ、楔を封印したのは間違いなく零夜だ。ナランが言ったように、楔を焚き付けてアランジャ族を害そうとした者がいるのだとしたら、その人物が果たして、零夜を放っておくだろうか。


 静かな不穏の只中に、零夜はぽつんと佇んでいるのだ。そのうちいくつかの思惑は、零夜という存在を勘定に含めて動きだしている。そんな予感がして、零夜は人知れず肩を震わせた。

 濁った渦の中に、探し人理仁の影が霞んで見えなくなっていく。青黒いどろどろが理仁を飲み込んだあの時のように、零夜は何も出来ず、世界に翻弄されるばかりだ。

 ごくり。わざと音を立てて、唾を飲み込んだ。嫌な予感、不吉な連想。その全てを飲み下して臓腑に収め、ただの杞憂として消化してしまうために。


 ヤギが、めえーと呑気に鳴いて、アルヌルの服の裾をんだ。それを軽く手でいなしながら、アルヌルは憂いた目でイグ・ムヮの地平線を透かし見る。

「一体誰が、そのような盲言を楔に……」

 零夜の脳裏に、昨日の男の顔が浮かんだ。ダンニール。なんの根拠もない、たちの悪い憶測だと、零夜はその考えを振り払った。

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