交錯する敵意
いつも穏やかな笑みを浮かべているナシパの頬に、緊張と、零夜にも見て取れるほどの濃い憎悪の色が走った。
「何の御用でしょうか」
ナシパは低い声で言う。嫌悪と拒絶を隠そうともしない、攻撃的な声色だ。
「分かっているのではないか?」
その人物は家主の拒絶をものともせず、遠慮のない一歩を踏み出した。幕内に満ちる鉱石灯の光が、招かれざる客の姿を照らし出す。
幕家の外から聞こえてくるざわめきは、この二人の存在を良く思わないものがほとんどだ。「何しに来たんだ」とか「さっさと帰れ」だとか、容赦のない声が聞こえるわりに、群衆の中から文句以上のものが出ることはない。誰もが遠巻きに二人を囲むばかりだ。
鋼色の髪を神経質に撫で付け、男が視線を左右に走らせた。空色の瞳が、茶を飲む姿勢のまま固まっている零夜の姿を捉える。
「お前が、例の異国人か?」
男性にしてはやや甲高い声には、ありありと敵意が宿っている。零夜は食器を置いて身を固くした。男は周りのものを蹴散らさんばかりの足取りで、食器をまたぎながら零夜の元へと大股で進む。
「ちょっと!」
男たちの前に、ナシパが立ちはだかる。しかしそれを、男の腕が躊躇なく押しのけた。
「あっ!」
零夜は咄嗟に腰を浮かせたが、間に合わなかった。ナシパの身体は後ろざまに崩れ、倒れた先に積まれていた食器が大きな音を立てる。
「ナシパさん! 大丈夫……」
「動くな」
彼女に駆け寄ろうとした零夜の首に、剣があてがわれた。
鞘から抜かれてこそいないが、ここで従わなければ容赦なく白刃が現れるであろう、冷ややかな殺意が込められている。零夜は硬直しながらも、倒れたまま小さくうめいているナシパを気にする。
剣を突き付けられてなお、ナシパを心配する零夜に向けて、男は不快そうに頬をひくつかせた。その行為は、男へ対する侮りと取られられたらしい。
「お前が、
「おい! なに勝手なことしてやがる!」
零夜が何か言うより早く、今度はトモルが乱入した。元々からの赤ら顔を更に怒りに紅潮させ、男の肩を掴む。
「俺たちの客人だ。手荒な真似はやめてもらおうか!」
「異人訪問申告書を、まだ受け取っていないが」
「俺たちの客人だと言っているだろう。お前たちゼーゲンガルト人には関係のないことだ!」
「きみの頭では未だに理解できないかも知れないがね、ここイヴァナ平原は、全域がゼーゲンガルト領だ。我々の法に従ってもらわねば」
「なにィ!」
一触即発の雰囲気に、零夜は「あの」と小さな声で恐る恐る触れる。冷たい視線が零夜を射止めた。
「話なら聞きます。ですから手荒なことは……」
「レイヤ! 話なんて聞く必要はない!」
「トモルさんは、ナシパさんを看てあげてください。腕を痛めちゃったみたいなので……」
今にも殴り合いを始めそうなトモルをどうにか落ち着けて、零夜はようやく来訪者に向かい合う。
アランジャ族の男性らと比べればさほど大柄な体躯ではないが、のしかかってくるような威圧感があるのは、彼の態度のせいだろうか。
男は、零夜の頭頂から爪先までを何のはばかりもなく観察する。その視線のほとんどが、顔の右半分を覆う大きな痣に留めらた。アランジャ族の営地では、こうしてじろじろと痣を見られることは、来てすぐの頃だけだった。奇異なものを見る視線。この種のねとつく視線に晒されると、体の芯の部分が緊張にこわばり、胃がむかむかしてくるということを、零夜は久しぶりに思い出した。
観察に満足したのか飽きたのか、男は懐から羊皮紙の札を取り出した。革で裏張りされたその札には、零夜には読めない文字で何か書いてあり、その上から金インクの紋章が
「私はゼーゲンガルト公国西方統括府、西方外地検問官だ。これは公的な尋問であり、我々に対する虚偽は身元偽証罪となり得ることを心して答えよ。貴様、名は何という」
「ま……、レイヤ・マイトです」
「出身は?」
「…………」
零夜が押し黙ると、男は隠そうともしない嘲笑を浮かべた。
「答えられんか。そうだろうな。この集落に、カノヤの間者が
「通報? 誰がそんなことを!」
トモルの怒声を無視し、男は零夜の腕を掴む。振り払おうと力をこめるが、男はそれを察知して腕を強く捻じり上げる。
「痛っ……ち、違う! 俺はカノヤの人間じゃない!」
「詳しい話は駐屯所で聞こうか。どうせ、入国手形すら持っていないのだろう? 密入国はそれだけで投獄に足る重罪だ。さあ、来い!」
まずい、と零夜が身をこわばらせた瞬間、「待て!」とまた新たな声が割り込んだ。
「彼の入国手形ならここにある。今ここで
息を切らして入ってきたのはバータルだ。手には羊皮紙を握りしめている。それを広げて男の眼前に突き出すと、男は腑に落ちない顔で羊皮紙を受け取る。
「ダンニール検問副長官。文書での報告が遅れたことは詫びよう。こちらも少々ごたついていた。しかし彼の身元は保証されている」
バータルから零夜に送られた目配せは、「良いから話を合わせろ」と強く訴えかけるものだった。零夜はそれを察し、出来るだけ堂々と見えるように胸に息を吸い込む。耳の辺りがぴりぴり熱くなる。
男――ダンニールは顔をしかめ、バータルの持ってきた羊皮紙を熟読した。そこには、零夜の身元を明確にする種々の文面がしたためられている。
しっとりとした厚みのある羊皮紙は、ゼーゲンガルトの公的機関が使用する特別上等品である。中央上部には金インクのゼーゲンガルト国章が輝いており、これが間違いなく公式に発行された文書であることを豪奢に示している。
「ふん、ずいぶんと慌てて……さも、たったいま用意しましたと言わんばかりだな? 公文書の偽装は反逆罪とみなされるぞ、バータル・スチェスカ」
「偽装? なぜ我々が偽装などする必要がある? これは正式に発行された文書だ。手続きのため一時的に彼から預かっていただけだ」
「そうかね? では確かめてみるとしよう」
ダンニールは羊皮紙を丸め、つり上がった目を零夜に向けた。
「出身地、経由主要都市、身元保証団体、旅の目的。この文書に書いてある情報が全て、こいつの意見と一致するかどうか、試してみようじゃないか」
零夜は思わず「えっ」と叫びそうになったところをこらえ、バータルを盗み見た。バータルは平然と「ああ、そうするといい」などとダンニールを促す。
「……良いだろう。では答えろ。お前の出身地は?」
「え、えっと……」
ひとり静かにパニックに陥りかけている零夜だったが、その裾を引くものがあった。視線を落とせば、それは小さな目玉だった。目玉を取り巻くように、細かな灰が舞っている。ヒグイだ。
『ねえねえ、れーや! でんごんだよ。いよ、はーむでうむ、とーりんかなう。ミトラのちょうさ!』
「え?」
ヒグイは零夜のズボンの裾にまとわりつきながら、零夜にしか理解できない言葉で言う。
『いよ、はーむでうむ、とーりんかなう、ミトラのちょうさ!』
「おい! 聞いているのか? 出身はどこだと聞いているんだ!」
「…………」
ヒグイは零夜を見上げながら、なおも繰り返す。いよ、はーむでうむ、とーりんかなう、ミトラのちょうさ。ミトラのちょーさ!
その声は衣擦れのようにささやかで、しかしまるで零夜の耳元で囁かれているように確実に、言葉として鼓膜を震わせた。ほかの者たちには、ヒグイたちの声は音としてすら捉えることは出来ないだろう。零夜の足元に小さなミトラがまとわりついていることにすら、気付いているものはいないようだった。零夜は咄嗟にヒグイたちから目をそらし、頭をフル回転させる。
(ヒグイは何を言ってるんだ? 伝言? 誰から……)
そもそも、
(あの灰……伝言…………バータル?)
いよ、はーむでうむ。ヒグイは少し苛立っている様子で、何度も繰り返す。
『いよ、はーむでうむ、とーりんかなう! ミトラのちょうさ!』
ピンとくるものがあり、いちかばちか、零夜は口を開いた。
「……イヨ。出身は、イヨです」
零夜が答えるとは思っていなかったのだろう。ダンニールは一瞬、驚いたように眉を吊り上げた。が、すぐに平静を装う。
「では、ここに来るまでに経由した主要な都市は?」
「ハームデウム」
「身元保証団体は?」
「トーリンカナウ」
「何の目的で旅をしている?」
「ミトラの調査……の、ためです」
「……ふん」
釈然としない様子で、ダンニールは入国手形と零夜の顔とを交互に見比べた。
「そこに記してある情報と全く同じ答えだったな? これで嫌疑は晴れたと思うが」
挑発的に言うバータルの声色には、敵意がじわりと滲み始めている。
「……事前に口裏を合わせた可能性もある」
「ではその証明を。そも、書面での報告は部外者訪問から十四日以内だろう。確かに通例よりは遅くなっているが、それでもまだ期間内のはずだ。期日超過もなく、書面にも不備はない。証拠不十分の密告のみを根拠として、我々の客人を尋問するつもりか?」
ダンニールとバータルが睨み合う。
「身元保証団体であるトーリンカナウ商会に問い合わせてもらっても構わない。徒労に終わるとは思うが……そうするとしてその間、彼を拘束するだけの根拠があなたたちにあるのか?」
「……貴様、」
「彼……レイヤ・マイトは我々アランジャ族、スチェスカ
「……」
隠す素振りもない舌打ちをして、ダンニールは羊皮紙をバータルに突き返した。
「バータル。お前はアルヌルよりは、親ゼーゲンガルト派だと思っていたがね」
「我々は常に、やるべきことをやっているだけだ」
両者はしばし睨み合った。唾を飲む音すら、過剰に大きく聞こえるような沈黙。この空気を唯一察知していないヒグイだけが、影のような手で零夜のズボンの裾にぶら下がり、灰を巻き散らかしながら遊んでいる。
「……また来る」
それはどうやら捨て台詞だった。ダンニールは零夜をひと睨みし、過剰なまでに素早くきびすを返した。トモルにかばわれているナシパを横目に見て、何か言いかけたように唇を震わせたが、しかし黙ったまま布戸を翻し外へと出ていった。
二人が去ってからひと呼吸、ふた呼吸、もうひと呼吸ほど置いて、バータルが大きな溜息をついた。幕家の中には零夜とバータル、トモルとナシパしか残っておらず、ほかの者たちはダンニールを見送りに――つまり、その背に野次を投げに――行ったらしい。
大勢の話声が充分に遠ざかったことを確認してから、バータルはようやく零夜に微笑みかけた。
「伝言の意味を汲み取ってくれて助かった。どうなるかと思ったが、なんとかなるものだな」
「バータルが、ヒグイに伝言を?」
「そうだ。ミトラは我々が思っている以上に賢いと、きみが言っていたのを思い出してな。簡単な伝言くらいならば頼めるかと思って、幕家に入る直前に仕込んだんだ」
ヒグイを灰ごとすくい上げながら、バータルが言う。ヒグイたちは、普段は人間の顔を間近で見ることなどないものだから、バータルの手の上で驚いたり喜んだりと大騒ぎをしている。
「ありがとう。きみたちのおかげで助かったよ。……この礼も、きちんとヒグイに伝わっているか?」
「うん。どういたしましてってさ」
「そうか。ふふ……」
嬉しそうに微笑んで、バータルはヒグイを灰袋にしまった。ヒグイはまだ遊びたがっていたが、狭く暗い場所で休息を取るという彼らの習性に従って、すぐに袋の中でおとなしくなった。
「それにしても、危なかったな」
ようやく落ち着きを取り戻した夜。暗い冷気が布戸のはしから地を伝って入り込んでくる。炉に残った炎の光と、壁に掛けられた鉱石灯の光が、幕内をしっかりと照らしてはいる。しかし闇に内包された緊張感のようなものが、幕家内の照度をわずかに下げているように思えた。
「あの……さっきの人は?」
零夜は穀物茶を飲んで一息つきながら、バータルに尋ねる。
「ダンニール・トーノ検問副長官。ゼーゲンガルト人だ。アランジャ族とゼーゲンガルト中央との橋渡しという名目だが……要は、俺たちの監視役だな」
ナシパの背を慰めるように撫でながら、バータルが答える。ナシパの怪我は打ち身で済み、バータルのイマジアによる治癒を受ければ、翌日には持ち越さない程度のものだった。それでも、彼女の表情は重い。
「バータルさん。その書類は、監査に耐えうるものかしら。あいつらに連行されでもしたら、無事でいられる保証なんて……」
「書類自体は問題ないと思う。ただ、こうなると奴らも意地だろう。拘束、尋問……そのためにどんな理屈を持ち出してくるか、皆目検討がつかない。いずれ目をつけられるだろうと思っていたが、早かったな」
「っていうか、その書類って一体……」
「これか?」
バータルが、手に持った羊皮紙をひらひらと振った。
「トーリンカナウ商会とは
「それって……大変なことなんじゃ」
「それだけの恩義をきみに感じているということだ。イグ・ムヮを去ったあとも、この文書がきみの身の上を保証し続ける。どうか、遠慮せず持っていってくれ」
零夜という人間を裏付ける羊皮紙が、零夜の手に渡る。黒いインク。読めない文字。金の印章。たったそれだけのものがどれほど貴重で重要か、零夜には計り知れない。
「ありがとう」
ぱちん、とひときわ大きな音と共に、炉の炎が弾けた。橙色の火の粉はしばらく空中を舞い、やがて灰色の塵となって地面に落ち、風景に溶け込んで消えていった。
散らかった食器類を片付けて、ようやく幕家の中は、いつもと同じ落ち着きを取り戻した。しかし、どうにも不穏な空気は拭えない。横になって身体を休めるナシパの背を、ガウランが老いた手でしきりにさすっている。トモルは幕家の外と内を行ったり来たりして、そのたびにバータルに何事か囁いている。そのたびにバータルは、深刻な顔つきで頷いたり、首を横に振ったりした。
そして話の区切りがついたころ、バータルが零夜に手招きをした。
「レイヤ。今夜からは別の……誰か、戦える者の幕家で眠るべきだ。まさかゼーゲンガルトの役人連中が、夜襲を仕掛けては来るまいが……警戒するにこしたことはない」
眉間にしわを寄せたまま、バータルがちらりと布戸を横目に見た。
「ダンニールは、きみの存在を通報によって知ったと言った。楔の件も知っていたようだ。だとすればきみをゼーゲンガルトに売ったのは……この集落に住む誰かだ」
「アランジャ族の人が?」
目を丸くして聞きかえすと、バータルは沈痛な面持ちで頷いた。不快と懸念との中に、わずかの恥も入り混じっている表情だ。
「おおかた目星はついているがな。情けないことだが、ゼーゲンガルトへ対する政治的態度に関しては、我々も一枚岩ではないんだ。恐らくアランジャ族の中でも親ゼーゲンガルト派の者たちが、きみをゼーゲンガルトに引き渡すことで、自分たちの評価を上げようとしているのだろう」
バータルの眉間に深い谷が刻まれる。
「恩人に対してこの仕打ち、アランジャ族にあるまじき愚かしい行為だ」
光の加減だろうか、バータルの瞳の奥に酷烈な炎を見て、零夜の首筋に力がこもった。生真面目で温厚な彼の、別の側面を垣間見てしまったような気がする。
「レイヤさん。私のことは気にせずに……誰か、信頼のおける人の幕家に移ってちょうだいな」
ナシパが零夜の手を取って、少し大袈裟なのではないかと思われるほどに、悲痛な面持ちで訴えた。彼女の不安を一刻も早く取り除いてやりたく、零夜は「そうします」と即答する。
「じゃあ、俺のとこに来るといい」
提案したのはトモルだ。
「俺は、アランジャ族の派閥争いとは、いっちばん無縁のとこにいるからな。良いかい、バータル」
「そうだな……ナランもいるし、トモルの幕家なら安心して任せられる」
「ナランも?」
零夜が首をかしげると、「言ってなかったか?」とトモルが口をすぼませた。
「あれは、俺の
ああ、と零夜は頷いた。大きな声に、豪快な仕草。そして花の弾けるような、気の好い笑顔。言われてみれば、納得しかできない。
「よし、よし。じゃあ決まりだな。家内にも言っておかにゃ。ナシパ、安静にしておけよ。バータルによく治してもらえ。よし、よし。じゃあレイヤ、さっさと荷物まとめて来いよ」
言うだけ言って、トモルは幕家を出ていった。何事だったんだと幕家の周りに集まっていた野次馬に捕まってはいたようだが、それらをいなしながら、野太い声は遠ざかっていく。
「あ、幕家の場所、聞いてない」
零夜が呟くと、バータルが苦笑した。
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