運命との邂逅編

ミトラのささめく夜


 足元には、無数の目玉がひしめいている。零夜はそれらを踏まないように気を付けながら、幕家の中へと入っていく。幾つもの視線が、零夜の背中を追いかける。


 幕家の中心、天幕の一番高い部分から垂れる触肢は、本来ならば光を放って夜間の照明として役に立つものだ。しかしこの幕家の照明肢は、ぼこぼことしたこぶに覆われ、およそ明かりとしては役に立っていない。

 その瘤のひとつひとつは目玉であり、せわしなく動き回って、周囲の警戒に余念がない。

「レイヤさん、どうだろうね?」

 不安げなサヌーイの声がして、零夜は入り口の方を振り向いた。

「はい、えーと、ちょっと待ってください。話をしてみま……あっ、ごめん!」

 うっかり床の目玉を踏んでしまい、零夜は慌てて靴をどける。目玉は動物じみた悲鳴のあとに、これまた動物じみた甲高い声でキーキー文句を言った。『ひどいやつめ!』と憤慨して、目玉は絨毯の模様の中へと消えてしまう。



 楔の一件から三日経ち、零夜の体力と気力も回復しつつあった。

 理仁の情報を得るために、プラドという村に行く予定ではある。しかし同行するキヤの怪我はまだ完治していないし、別件でプラドへ行くカルムもティエラも、色々と準備があるらしくすぐには出発できない。

 零夜にだけ与えられた空白の時間に、だらだらしていても仕方ないと、零夜は営地のあちこちに繰り出した。

 零夜の持つ能力――すなわち、ミトラの言葉を理解できるという力で、何か役に立てることがないかと思い立ったのだ。すると探し回るまでもなく、用件は向こうから飛び込んできた。


「目玉が棲みついて、困ってるんだよ」

 相談に来たのはサヌーイだった。彼はアランジャ族、ハルナーンうじに属する弓の名手だ。

 案内された幕家は、小さな武器庫だった。弓矢をはじめ、大小様々な刀や槍、小型の投石器などが所狭しと並べられている。目玉が棲みついたとはどういうことだろう、と零夜は疑問に思っていたが、それも武器庫の中を覗くまでのことだった。

『なんだよおまえ、おれたちを追い出すつもりかよう』『やってみろ!』『そうだ、やってみろ!』

 まさに「目玉が棲みついた」としか言い表しようのない状況に、零夜は呆気にとられる。幕家の床には厚手の絨毯が敷かれているが、その絨毯の表面に、大小さまざまの目玉がひしめいているのだった。目玉は絨毯の上に転がっているのではなく、絨毯から「生えて」いた。彼らがまばたきをするたびに、まぶたの役割を担わされた絨毯は、その華やかな織模様を波打たせるのだった。

『にんげんめ! ここからでていけ!』『そうだ、でていけー!』

 小さな敵意に瞳をうるませながら、目玉たちは零夜を威嚇する。それが虚勢であることは一目瞭然だ。明らかに怯えた様子で、涙をいっぱいにたたえたまま、それでも零夜を追い払おうと身を寄せる目玉たち。彼らを出来るだけ怖がらせないように、零夜は努めて穏やかな声色で話しかける。

「追い出すとかじゃなくて、話を聞かせてほしいだけなんだ。どうしてここに居座ってるのか……」

『わあっ!』

 零夜がミトラに話しかけると、大抵はこういう反応をされる。ミトラたちは、自分たちの言葉が人間に通じるなどとは微塵も思っていないのだから驚いて当然だ。驚きの種類としては、道端の野良猫が急に人間の言葉を話し始めたようなものだろうか、などと零夜は考える。

「きみたちは、どうしてここに……」

『えー、すごい。にんげんなのに話せるの、すごいなー』

「聞いてる?」

『あっそうそう。ここはにんげんは、入ったらだめなんだぞー』

「なんで?」

『だってここは、たまごがあるから!』

 時間をかけてひととおりの事情を聴取し、零夜は幕家を出た。外で待っていたサヌーイが、どうだった? と不安げに訊く。

「ここが使えないと困るし、下手に追い出して報復されても事だし……厄介なミトラじゃなきゃ良いんだが、なんて言ってた?」

「えっとですね……」

 目玉のミトラいわく、今は彼らの産卵期だそうだ。彼らは群れで行動し、群れのうちに一匹だけ存在する雌個体が、キノコの下に卵を産む。そして卵が孵るまで、群れ全員で見張りをするのだという。

 零夜の報告を聞いて、サヌーイは「なるほどな」と言いつつも頭を抱えた。

「我々の幕家は、ヤヅクリというキノコの菌糸で補強してあるんだ。それに集まってきてしまったんだな。しかし卵が孵るまでと言ったって、いつまで待てば良いんだ? あんまり長く占拠されるようだと支障が出るし、やはり追い出すしか……」

「それなんですけど、絶対に卵に触らないなら、中に入っても良いって言ってます。ですから、武器を運び出すくらいはできると思いますよ」

「本当か!」

「ええ。ちょっと視線は気になるかも知れませんけど……」

 零夜が布戸を持ち上げると、目玉たちは絨毯の表面を移動し、さっと道を開けた。入り口に立つ人間を見つめるその視線には、懐疑こそあるものの敵意はない。


 かくしてサヌーイと仲間の男たち数名は、目玉のミトラたちにたっぷりと見つめられながら、幕家の中から武器のたぐいを運び出すこととなる。

 武器を運び出した後は、卵が無事に孵るまで、幕家をミトラたちに貸し出しても構わないらしい。それを伝えると、ビー玉サイズの目玉たちはきゃっきゃと声を立てて喜んだ。

『あーよかった。追い出されないって。よいにんげんでよかったな』

「いやあ良かった。なんとか丸く収まって、助かったよ」

 良かった。助かった。肩を叩かれたり、背をつつかれたりするたびに、零夜はくすぐったそうに笑う。心地の良い時間だった。



「聞きましたよレイヤさん。今日も大活躍だったそうね」

 夕食に使う小麦の生地を捏ねながら、零夜はナシパの賛辞にはにかみを返した。

 捏ねた生地は薄く伸ばして、水餃子の皮になる。頼まれごとの合間に時間を見付けては、こまめにナシパの手伝いをするのが、ここ数日の間で日課として定まりつつあった。

「活躍というか……ただの通訳ですけど」

「助かるわ。ミトラとはなるべくいざこざを起こさない方が良いから」

 ヒツジのひき肉をスプーンですくい、皮で包む。肉の中に細かく刻んだ軟骨が入っており、コリコリとした食感が零夜のお気に入りだ。

 父親との二人暮らし生活では、手作り餃子などという凝ったものは作らなかった。まだ両親が離婚する前、母親と妹と零夜の三人で作った記憶が最後だった。あれはいつ頃だったっけ。と、包む手を休めずに零夜は考える。高校に上がる前かな。確か、それくらいだった。中学だの高校だの、そんな当たり前の単語に郷愁を覚える。

(お父さんもお母さんも、心配してるだろうな。美和みかずも……)

 せめて、無事であること、寝食に困っていないことを連絡したかった。電話のひとつでも入れられたらな、と夢想する。

(なんて説明しよう。お父さん、俺いま、異世界にいるんだ。とか?)

 ふふっと漏れた笑いを追い掛けるように、空虚のような悲しみが襲ってきて、零夜の手が止まった。柔らかな皮の端から、ひき肉の塊がぼたりとこぼれて零夜の膝に落ちる。それを見逃さなかったナシパが「レイヤさんったら、手元がおろそかになっていますよ」と、どこか嬉しそうに言う。

「あ……すみません」

「良いのよ。退屈でしょう、こんな作業」

「そんなことないです。昔のことを思い出します」

 そう言ったあとで、零夜は「しまった」と内心で口元を押さえた。案の定、ナシパは驚いたような表情で「記憶が戻ったの?」と訊く。零夜は仕方なしに、「断片的に」と誤魔化した。

 記憶がないなどと言ってしまったことを今さらながらに後悔もするが、あの時はアランジャ族の人々と打ち解けてはいなかったし、今でも「異世界から来ました」などとでたらめのような真実を口にして、それを真っ向から否定される恐怖はある。

「昔のことって、ご家族の?」

 ナシパが、小さな生き物を抱き上げるときのような声で尋ねる。

「はい。母と、妹と三人で、似た料理を作ったなあって。妹は俺より不器用で、上手く包めなくて拗ねてました」

「まあ」ナシパの口元に笑い皺が寄る。「可愛いわね」

 はい、と零夜も微笑を浮かべた。

「早く帰れると良いわね。家族はなるべく一緒に居られるのが一番だわ。うちも昔は家族が多かったのよ。娘が三人もいてね。もう全員お嫁に行ってしまったけれど、そりゃあ賑やかだったわ。夫が病気で逝ってしまってからは、お義母さんと息子と、三人だけになってしまったけれど、それももう……」

 沈黙。今は零夜のものとなった上着の元々のあるじが、既にこの地にはいないことを零夜は知っていた。「そうそう、今日は食後に瓜を切りましょうね」と言い出すナシパの声は、少しだけ上ずっている。


 彼女がやけに饒舌なのは、明日か明後日には零夜がここを発ってしまうからにほかならなかった。

 深皿いっぱいにあった餃子のたねは、いつのまにか半分以下になっている。その代わりに水餃子の赤ん坊たちは数を増やし、香辛料の効いたスープで煮られるのを今か今かと待っている。

「あら、ミトラだわ」

 ナシパの視線の先、餃子を並べた皿のすぐそばに、どこから入ってきたのか小さなミトラが蠢いていた。脚の多いバッタのような姿のミトラは、みっつの目玉全てを餃子に向けて、時おりはねを震わせたり、脚をすり合わせたりしている。

「いやね、盗み食いするつもりかしら」

 追い払おうとレードルを振り上げたナシパを制して、零夜はミトラを驚かせないようにそっと人差し指を差し出した。みっつの目玉のうち、ひとつが零夜の指を見る。

「こんにちは。何見てるの?」

『…………』

 人間と話せるなとど思っていないミトラたちは、零夜が話しかけても無反応であることも多い。零夜はそのまま話しかけ続ける。

「料理をしてるんだよ。これは食べ物。今夜のご飯だから、つまみ食いはしないでもらえると助かるんだけど」

『…………』

「普段何食べてるの? えーと……草とか?」

『よくしゃべるにんげんだなー』

「うん。よく喋るよ」

『うわっ』

 言葉が通じると分かったときの反応も、もうお馴染みだ。


 話を聞いてみると、ミトラはただ餃子が出来上がっていく様子が面白くて見ていただけらしく、盗み食いをする意図は一切ないのだという。ナシパは「本当かしら」と言いたげではあったが、ミトラを追い出さないことで合意してくれた。

 バッタのミトラは零夜の頭の上に陣取り、水餃子が煮込まれていく様子をまじまじと観察する。

「面白い?」

『うん、おもしろい。なぜあつくするの』

「煮込んだら美味しくなるんだよ」

『ふーん』

「きみは、いつもどんなものを食べてるの?」

『はっぱ。まるいやつ。ミトラはたべものをあつくしない。ミトラのたべるのも、あつくしたらおいしくなるかな』

「さあ、物によりけりだと思うけど」

 言葉の響きが面白かったのか、ミトラは零夜の頭の上で「よりけり、よりけり」と繰り返しながら飛び跳ねる。

『よりけりよりけり、あははははー、あー』

 ミトラは笑いながらひっくり返って、零夜の背後に転げ落ちていった。好奇心が充分に満たされたのか、ミトラは再び鍋を眺めることはせず、そのまま布戸の隙間から外へ出ていった。陽気な笑い声――恐らく零夜の耳にしか、笑い声と認識されない音を立てながら。



「ミトラって、変な生き物ですよね」

 出来上がった水餃子に舌鼓を打ちながら、零夜はつくづくと言う。

「妙に人懐こいというか、緊張感がないというか……」

「そんなことを言うのはレイヤさんくらいよ。私たちにとってほとんどのミトラは、良き隣人であると共に、ちょっと厄介な生き物だもの」

「そんなものですか……」

 食卓を囲むのはナシパと零夜、そしてガウランだ。牧草地の巡視が終わったら寄ると言っていたバータルは、まだ来ない。

 既に空は暗くなり、夕方よりも夜の色を濃く全面に広げている。水餃子を咀嚼するうちにシャク、と小気味の良い歯ごたえがあり、零夜の口内から鼻腔を強い生姜の風味が抜けていく。

「だけど、小さなミトラたちは、人間に好意的な子が多い気がします。昨日、バータルとも話したんですけど、知能も結構高いし……」

「ほう、バータルとどんな話をしたかね」

 ガウランが口を挟む。

「ミトラって、思ってるより頭が良いって話をしたんです。人間の名前もすぐ覚えるし……そこにいる、ヒグイたちも」

 零夜はかまどの中で炎を盛り上げながら、丸く輪になって踊っているヒグイたちを指差した。

「俺の名前なんか、すぐ覚えちゃったし。ナシパさんやガウランさんのことも、ちゃんと分かっています」

「ヒグイが人の名前を覚えられるなんて、考えたこともなかったわ。ねえ、お義母さん」

 ガウランは深く頷いた。

「この歳になって、ミトラを見る目が変わりそうだよ。しかし、そうかね。そういった刺激をバータルに与えるのは良いことだ。バータルは父親に似て生真面目なんだがね、どうにも頭が固すぎる。若いうちに色んな価値観に触れていたほうが良い」

「価値観なんてそんな大層な話じゃ……俺たちはただ、ちょっと雑談をしただけで」

「それが良いんだよ。凝り固まった価値観を無理矢理ねじこむよりはね。ミトラにも意思があるなどと、ミトラと共存している我らですら忘れがちなことだ。私はね、そういった小さな『意思の軽視』が積み重なって、今回の楔の暴走に繋がったんじゃあないかと思ってるんだよ。だから……」


 ガウランが更に言葉を続けようとしたとき、やおら幕家の外が騒がしくなった。馬がいななき、人の声が飛び交う。

 バータルら巡視隊が帰ってきたのだろうか。始めはそう思ったが、何かがおかしい。不穏な気配を感じ取り、零夜はナシパを見た。彼女も同じだったようで、二人の視線がちょうど合わさる。やけにせわしない声たち。あまり良い雰囲気のするものではない。それに、口々になにかをまくし立てる喧騒は、徐々にこちらに近づいてくるようだった。

「何かあったのかね」

 怪訝に言うガウランに、「ちょっと見て来ますね」とナシパが立ち上がり、幕布を捲くり上げた。と、彼女の顔色が豹変した。

「なぜ、あなたたちがここに……」

 立ち尽くすナシパの前に立っていたのは、零夜の知らない、痩せぎすの男性だった。


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