それぞれの思惑


「……静かになりましたね」

 馬を止め、来た道を振り返りながらリヒトが言った。プラド村より北に上った位置にあるこの丘からは、嵐に破壊された村の火と煙とがよく見える。リヒトの言う通り、風はぱたりと止んでいた。

「目当てのものを手に入れたのでしょう。急がなければ、今度は山が騒がしくなりますね」

 主人あるじの言葉に頷き、リヒトは馬の胴を蹴った。馬は通常よりも大股で速く、飛ぶように丘を駆ける。神都の技術を凝らして作製されたイマジア技術者特注の蹄鉄は、馬の体力を損なわず一晩で山を三つ越えると謳われる。その性能に嘘はないようだった。


「あれが……」

 やがて、進行方向からややそれた位置に明かりを認め、リヒトは馬を止めた。夜更けだというのに騒がしいのは、プラド村の騒乱が何らかの形で彼らの所にも届いているからだろう。

 リヒトは目を細め、橙色の明かりひとつひとつを見つめた。闇の中に、白い天幕の張られた特徴的な住居が建ち並んでいる。人間たちが騒がしいので目覚めてしまったのか、どことなく寝ぼけているような家畜の鳴き声が聞こえる。

「アランジャ族……あの青い娘の出身部族ですね。しかし、なぜ神聖な青い色を持つ少女が、外地の異教徒のもとにばかり生まれるのでしょうか? 十数年前に神都に保護された女性も、出身は確か……」

「さあ?」

 リヒトの疑問を、シースは短い一言で遮る。それは「分からない」というニュアンスではなく、「この話はしない」という意思に満ちた一言だった。それを察して口をつぐんだリヒトに、シースは頷いてみせる。


「さて、ここからは二手に分かれることになりますが……一人で大丈夫ですか?」

 まるで幼子に聞かせるような口調に、「もちろん」とリヒトは少し拗ねたように声を尖らせた。

「シースさんは、俺を子供か何かと思っていませんか?」

「もちろん、優秀な端数だと思っていますよ。しかし今回の仕事は、少々気になることがあります」

「……あの、痣のある少年ですか?」

 リヒトは意図的に、彼の名を口にすることを避ける。

「ええ。複数の証言を総合するに、やはりあの……レイヤという少年が、楔を封印した張本人と考えて間違いないようです」

「しかし、それ程の手練れであるようには見えませんでしたが」

「私もそう感じました。戦闘能力も、判断力も、決断力も、全てが未熟……彼はただの少年だ。しかし、だとしたら……その印象的齟齬そのものが、重大な不確定要素だ。そうは思いませんか?」

「おっしゃりたいことはよく分かります。でも、問題ありませんよ」

「心配は無用だと? ふふ、頼もしいですね」

 シースは笑みを浮かべたまま、闇色の瞳を遠くプラド村の方へ向けた。

「もしまたあの少年の邪魔が入ったら、適当にあしらっておきなさい。どうせ向こうは、おまえを殺せやしないのですから」

 頷いたリヒトは、「殺せやしない」を単なる実力差として理解しており、その言葉の裏に隠された感情に気付くこともない。彼の主人あるじは感情を隠匿することに恐ろしく長けていたし、隠匿していると感じさせることもなかった。


「では、頼みましたよ」

 はい、と従順な返事をして、リヒトは馬の胴を蹴った。それぞれ方向を変えて、シースは暗い山の方角へ、リヒトはアランジャ族の営地へ向かって走り出す。

 分かたれた二つの影を、夜の闇はいとも簡単に飲み込んでしまった。リヒトの視界には徐々に大きくなる営地の光だけがある。その中から、リヒトの姿を認めたのだろう、何人かの男たちが武器を持って飛び出してくる。

「ゼーゲンガルト公国、異端審問官付き端数である! 武器を降ろせ!」

 ゼーゲンガルト紋の入った金章を掲げながら、リヒトは彼らに言い放った。アランジャ族の男たちは顔を見合わせ、武器を降ろしながらも警戒の目つきでリヒトを迎える。

「イヴァナ平原の治安維持のために派遣された。族長にお会いしたい」

 無表情の仮面を貼り付けたまま、リヒトは静かに言った。



「一体何が起こっている? ティエラと連絡は取れたか?」

 営地の中ほどでは、若衆を集めながら、アルヌルが眉を潜めていた。「いいえ」とバータルが言うのを聞いて、その表情は更に険しいものになる。

「ティエラには、緊急通信用のヨブを持たせてあります。第一報は、プラド村で異端が発生したとの知らせでした」

 ヨブの笛は、ヨブというミトラ共生植物の雄花から造られる遠距離通信用の笛だ。吹くと特殊な音波が発生し、対となる雌花を持つ者にだけ、音波による連絡を入れることが出来る。営地を離れる際の必需品であり、ティエラも例に漏れず携帯していた。それも、通信担当者ではなくバータルの元に直接連絡を入れることの出来る、優先度の高いヨブの笛だ。連絡がつかないという事実は、それそのものが異常事態であることを示している。

「では、プラド村のあの騒ぎは、異端の封じ込めに失敗したものか?」

「いいえ。異端は速やかに処分されたと、通常通信で連絡がありました。……今晩になって緊急通信の第二報がありましたが、ただ『緊急であること』を知らせる音が届いたのみで、詳細までは……」


 その時、「族長アヴニ!」とリクザが会話に飛び込んできた。「ゼーゲンガルトからの使者が来ています。なんでも、端数だとか」

「ベルメリオ殿の端数か?」

「いえ、主人の序列は第三位であると言っています」

 第三位? アルヌルは内心で首を傾げる。しばしば営地を訪れる審問官は――ベルメリオという名の男だが、彼の序列は第四位だったはずだ。第三位と言えば神都周辺の、いわゆる中央地区を管轄とする高位審問官だ。その付き人たる端数が、なぜこのような僻地にいるのだろう?

「どうします? 公人金章は確認しましたが……追い返しますか?」

「……いや、通せ。バータル、プラド村に十人ほど人手をやろう。お前も同行しなさい。ほかの人選はお前に任せる」

「はい」

 バータルはすぐにきびすを返し、信頼のおける何人かを頭の中で素早く選定する。あらゆる状況に対応できる人間を選ばなければならない。速歩はやあしのイマジアを持つもの、戦闘に優れたもの、通信士……救護班として、自分と同じような癒やしのイマジアを持つ人材も入れた方が良いだろう。それから……


「バータル、ティエラお姉ちゃんは?」

 考え込むバータルの顔を、起き出してきたリツハが心配そうに覗き込む。彼女の寝間着の裾を掴んでいるメリノイは、眠そうに目をこすっている。

「大丈夫。大人がなんとかするから、幕家に戻っておいで」

「でも母さまが、幕家を畳まなきゃいけないかも知れないって。もう冬営地に移動するの? どうして、こんな夜更けに移動するの?」

「……」

 アルヌルが、移動の準備をしておけと命じたのかも知れない。その判断は賢明に思えた。今はまだ、喧騒はプラド村を飲み込むに留まっている。しかし、異変は衰えることなくこの営地を――イグ・ムヮ全体を飲み込む。そんな予感がしていた。バータルが生まれてから今日まで一度も見たことがないほどに、草原は暗く夜の闇に没していた。

「ミトラの光が消えてるの。怖いよ、バータル」

「誰か、大人のそばにいるんだよ。メリノイの手を離さないように。分かったね?」


 ぐずる子供たちをなだめ、バータルは武器庫に向かう。既に何人かの男たちが出入りし、わずかずつ武器を運び出している。

 その、静かだが慌ただしい武器庫のすぐ隣……ミトラに占拠された旧武器庫の扉が、わずかに開いていた。中を覗くと、ミトラの無数の目がバータルを見た。そして、さわさわとかすかな音を立てながら物体の表面を移動し、バータルの足元に集まってくる。さわさわ、さわさわ。このささやかな物音がミトラの声だろうか。もちろん、バータルには理解出来ない。

「すまない……彼がいないと、君たちの言葉は分からないんだ」

 バータルはその場に膝を付き、目玉のミトラたちに話しかける。目玉は何度か意味深にまばたきをして、一斉にひとつの方向を見た。その方へ、バータルも視線を向ける。そして「あ」と小さな声を漏らした。

 そこには、真珠のような輝きを持つ丸い粒が、無数に積み上がっていた。そのどれもが破けた中空になっていて、周囲には目を凝らさなければ見付けられないほど小さな目玉たちがひしめき合っていた。

「ここで守っていた卵……生まれたのか」

 地面に並ぶ目玉たちは、またまばたきをした。ミトラの言葉が分からなくとも、そのまばたきの意味は分かったような気がして、バータルは「どういたしまして」と言った。

 数え切れないほどの目玉たちはきちんと一列に並び、武器庫を去っていく。

「無事に生まれたこと、機会があれば、彼にも伝えておくよ」

 最後尾の目玉にバータルが話しかけると、目玉は嬉しそうにぱちぱちっと目をしばたたかせた。


 暗いイグ・ムヮのあちこちで、退避は始まっていた。ミトラだけでなく、文明の中にあり野性的な第六感を失った人間たちですら、脅威の存在をはっきりと感じ取りつつあった。

 しかし、人間たちの退避はミトラのようにはいかない。遊牧生活を営み、ひとつところに留まらないアランジャ族にすら、土地に根付いた生活というものがある。それをかなぐり捨てて逃げようというほど、彼らは彼ら自身の直感を信じきれていなかった。その結果、私財や家族といった重たいものを背負い、よろめき迷いながら逃げることになるのだった。

 更に、彼らの逃げこめる場所は悲しいほどに限られていた。大半のミトラがそうしているように、岩の隙間に潜り込んだり木のうろに身を隠したりするには、人間は少しばかり目立ちすぎる。

 ミトラと比べると絶望的に非効率的なやり方で、それでも人間たちは、脅威から逃れるすべをかき集めていた。


 そして人間たちの中には、あえて脅威の真っ只中に飛び込もうとする者もいる。

「風、弱まってきたな」

 手のひらを空にかざしながら、ナランが呟いた。異常事態のプラド村に向かわせる人員は、普段からイグ・ムヮの巡回警備にあたっている部隊を少しばかり編成しなおしたものとなった。信頼のおける顔ぶれであり、個々の能力も申し分ない。

「急ごう」

 バータルの言葉に、続く九人が頷いた。ナランは風の中にかざした手をそのまま、ひらひらと振ってみせる。

「気を付けて行って来いよ。ティエラを頼む」

「ああ。営地の警備は任せたぞ」

「任されたー」

 いつもの調子でのんびりと返事をしながらも、ナランの目は鋭く営地の中心を睨んでいた。「あの端数の男、充分に警戒していろ」と、バータルが声を落として言う。

 営地を訪れている隻眼の男は、底知れぬ空気を纏っていた。アランジャ族に敵意を持つゼーゲンガルト役人など掃いて捨てるほどいるが、彼らとは全く違う匂いだった。具体的にどうとは説明しがたい。バータルの直感のようなものだったが、同じものをナランも感じ取っているようだった。

 ナランはゆったりと頷き、「ほら、早く」とバータルを促す。プラド村へ向けて走り出したバータルに続いて、一隊は連れ立って闇の中へ消えていく。


 ナランはしばらくその背を見つめていたが、やがて自らが守るべき営地へ向き直り、指先で腰の愛刀に触れた。大人たちが幕家を畳み、早い者では子供たちと家畜を連れて、営地を離れ始めている。

 もしかすると――と、ナランは考える。このタイミングでゼーゲンガルトの役人が来たのは、アランジャ族をこの場所へ留めておくためではないだろうか? 平凡な家族ならばともかく、族長や重役たちは余程のことがない限り、役人が来ている最中に営地を離れることは出来ない。幕家を畳むなどなおさらだ。

 役人がこの場にいる以上、どうしてもここから逃げられない者たちがいる。それに伴って、避難民の先導ができる者も限られてくる。非常事態であるからと役人を説得しようにも、事態の全貌が分からない以上は説明のしようがない。不審な動きをしているとして、反乱の疑いを向けられる心配すらある。

(……嫌な感じだ)

 追い立てられる家畜たちが、深夜の行進を非難するかのようにうるさく鳴き始める。静かにしろと言っても、家畜には無駄な命令だ。ならばせめて、出来る限り迅速に避難を進めなければならない。聞き咎められる前に――。


 動乱の中に右往左往する人間たちは、忍び寄る闇を退けようと、懸命に明かりを焚いている。いつになく暗いイグ・ムヮと、いつになく明るいアランジャ族の営地。その狭間で、ナランは重い長剣を強く握りしめた。朝の光はまだ遠い。


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