デア・エクス・マキナ:風を生み、嵐を起こすもの


 洞窟の中は生暖かく、空気は鼓動のように規則的に揺れている。生と死が濃厚に混じり合う、大地の胎内。

 二度目の生を受けたこの場所に、欲しくて欲しくて堪らなかったものが横たわっている……その事実を認識するたびに、勝利に酔いしれるような、痺れるような高揚がの身体を満たした。


 少女は、まだ気を失っているようだった。青い髪。目を瞑っているため、瞳の色を覗き込むことは出来ない。しかし、彼女の瞳が髪と同じ聖なる色であることは、充分によく知っている。


 天井から垂れた水滴が彼女の頬に落ちた。ふっくらとした唇から、「うう」と小さな声が漏れる。彼女の意識が混濁から覚醒へと変遷する過程を、黙ったままじっと観察する。瞼が痙攣し、緩やかな弧を描く睫毛が震える。唇が引き結ばれ、次の瞬間にはわずかに開かれる。その隙間から、不規則な吐息と呻き声が吐き出される。

 小さく身じろぎをした。それが皮切りとなったかのように、彼女は弾かれたように飛び起きた。そして、真正面からを見た。


「あ、あなたは……一体、誰なの?」

 少女の言葉は、失望をもたらすには充分だった。しかし、諦めに似た容赦の心がすぐに頭をもたげ、は微笑みを浮かべる。

「分からぬか?」

「近寄らないで!」

 すぐ後ろに岩壁があるにもかかわらず、少女は座ったまま後ずさりをしようとする。その様子が滑稽で、声を立てて笑ってしまう。

 笑ったことが良かったのか、少女は青い目を丸くして、目の前のものをじっと見た。そして恐怖は驚愕へ、徐々に変貌していく。

「あなた……あなたは、もしかして大山風の、」


 彼女が紡ごうとした忌まわしい名前を、口移しで飲み込んだ。少女の唇は、これまでに触れたなによりも柔らかく、なによりも温かい。

「我が名はアルザルハ。アルザルハ・ガルシュトロイム風を生み、嵐を起こすもの

 少女の口内から身体の中へ、その名を直接流し込むかのように、吐息に乗せて囁いた。怯えて震える小さな身体を潰してしまわないように、しかし逃してもしまわないように、覆いかぶさるようにして抱きしめる。ずいぶん加減をしたはずだったが、それでも苦しかったのか、腕の中で少女が「ぐ、う」とくぐもった声を出した。

 腕を広げてやる。肩で息をする彼女の目には、薄い涙の膜が張っている。

「俺の名を呼べ。アルザルハ・ガルシュトロイムの名を、お前の口から讃えるのだ」

 涙の溜まった目を見開いたまま、少女は押し黙っている。その沈黙に苛立ち、細い首元に手が伸びる。ほんのわずか、力を込めた。少女を抱きしめたときよりもずっと加減をして、指先だけに力を込めた。それでも、少女の両足は宙を蹴った。


 細く頼りない腕と、そこから伸びた指――どうしようもなく貧弱な十本の突起をもって、首の戒めを解こうと必死にもがいている。その様子を見て、胸のあたりがむず痒いような、奇妙な感覚があった。可愛らしい、と素直に思った。己の支配下で、小さなか弱い生き物が、必死になって生きようとしている。その姿が愛らしく、もう少しだけ力をこめてみる。

 花びらのような爪が、手首の辺りを引っ掻いた。当然、全く痛くない。これで抵抗しているつもりなのだろうか。微笑ましく思いながら、もう一度彼女に命じる。

「我が名を讃えよ」

 唾液に濡れた唇が、痙攣しながらも、確かにその名を形取った。それでいい。満足し、彼女の首を解放してやる。木枯らしのような音を立て、少女は一息に酸素を吸い込む。咳き込んでいるのか、泣いているのか……上下する背中を撫でてやる。

 なんと可愛らしい生き物なのだろう。これが初めのつがいであるのだと思うと、沸き立つ歓喜を抑えることが出来なかった。


 数をやさねばならない。それこそが第一目的だ。殖えるためには、母胎が必要だ。母たる肉の袋が必要なのだ。

 たったいち個体では、脅威に打ち勝つことは出来ない。つがい、子を成さねばならぬ。優秀な個体が産まれたら、その子を喰って取り込もう。母を喰い母を超えたように、我が子を喰らい、その力を蓄積するのだ。



 暗闇の中で、ようやく呼吸を整えた少女と目が合った。透き通った瞳は母と同じ、深い海の底の色をしていた。




【『不可説のミトラ』第二章・完】

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