蹄と鱗



「ああ、あ……」

 宙吊りにされたジルバートの唇から漏れるのは、悲鳴ですらなかった。命乞いをする間もなく、自分がどのような状況に晒されているかを、正確に認識する暇もなかっただろう。世界を逆さまに見た次の瞬間にはもう、ジルバートは骨と植物との隙間に引きずり込まれ、人間としての形を失っていた。

 咀嚼音と形容するにはあまりに粗雑が過ぎる音が鳴るたびに、ジルバートという男は細切れにされ肉塊と化し、異形の体内へ飲み込まれていく。乗り手を失った馬が、恐怖に足を滑らせながら、元来た方向へ狂ったように駆け去っていく。


「ああ」と、ティエラがため息とも恐怖の声ともとれる声を漏らした。人間を喰らいながら、異形の男の背が音を立てて蠢く。背だけでなく胸や腹も、骨格をまるで無視した動きで膨れ盛り上がる。呆気に取られて見ている間に、キヤの雷撃に吹き飛ばされたはずの男の右腕が、再生していく。

「なんだ……これは」

 ダンニールが呟く。

「一体何なんだ、これは!」

 小さな独り言は次第に怒声となり、それは零夜に向けて発されていた。

「お前は……お前は、一体何を呼び寄せた!?」

「黙って!」

 ティエラの怒声と共に、ヒョウと大気を裂く音がした。人間同士で問答をしている暇はない。白い矢が、異形の男に向かって真っすぐに飛んでいく。鋭い鉤爪がそれを叩き落とした。ほぼ同時にキヤの雷撃が男を襲う。これは爪で弾くわけにはいかない。男は、人間の脚では到底不可能なほど高く飛び上がってそれを避けた。月明かりを逆光として、異形のシルエットが浮かび上がる。靴を突き破って露出した両脚は蹄を有し、見るからに大型草食獣のそれだった。

 落下のエネルギーを味方につけ、男はキヤへ飛びかかる。懐へ飛び込み、遠距離攻撃を封じようという魂胆のようだった。すぐそばに味方がいる状況では、弓矢も炎も襲ってこないだろうとも読んだのだろう。

 しかしキヤは、待っていましたとばかりに口端を歪めた。

ルシャ・ミストゥラ・フェロスヴァルナ閃け、弾けよ、猛きものども!」

 雷撃を放つ時のように、指先を標的に向けることはしなかった。キヤは心臓を抱え込むようにして前かがみになり、敵に背を晒す。そしてまさにその背から、紫電が輻射状ふくしゃじょうほとばしった。

「ううっ」

 男は低く呻いて失速し、受け身も取れずに地に落ちる。間髪を入れず、キヤは「燃やせ!」と短い言葉で零夜に命じた。迷っている暇はない。鍛えてきた力を振るうべき時は、まさに今だった。


クァレ・ュナ・イムニヤ彼の名を讃えよ!」

 肩口に漂わせていた炎を手のひらにおさめ、零夜は祝福の呪文を唱える。青い炎が腕を覆った。そのまま、炎の踊る手のひらを、地面に押さえつけた。青い熱は草を焼きながら大地を走り、一瞬で男の足元に到達する。そして、男の背よりも高く、激しく燃え上がった。

「ああ、あ、あああ……」

 のけぞって頭を抱え、男は悶えながら声を上げる。しかし、苦しんでいるのではない――笑っている。

「ああ、あはは、はははは……そうだ、この熱だ! ――『この熱に打ち勝つために、俺は戻ってきたのだ!』

 空気の渦が男を囲み、青い炎を薙ぎ払った。衝撃波にも近い風圧に押され、零夜が怯む。気が付いたときには、鋭い鉤爪がすぐ目の前にあった。一瞬で間合いを詰められ、よろけるようにしてなんとか鉤爪を避ける。しかし、バランスを崩したところに追撃が迫った。短刀で受けようとするが、間に合わない。

「レイヤ!」

 ティエラが叫ぶ。死の先端が零夜の頭部を切断せんとしたまさにその時――花吹雪のような美しさで、銀の波が巻き上がった。


 それは、煌めく無数の鱗だった。わずかの光を乱反射して見る者を撹乱しながら、目も眩むような鱗が、零夜と異形とを分断する。

「な、何だ……?」

 零夜はうろたえながらも、急いで体勢を立て直し、後ずさって間合いを取る。銀色の鱗はどうやら、零夜を守ろうとしているようだった。薄く鋭利な鱗は決して零夜を傷付けることなく、異形の男にのみ執拗にまとわりついている。

『その人間をきずつけるな!』

 どこからか響いたその声に、聞き覚えがあった。

「まさか……シュラムフラ!」

 零夜の目の前の地面が、小山のように盛り上がる。地中から姿を現したのは間違いなく、畑の一角を占拠していた、あのミトラだった。零夜の声に応えるように、シュラムフラは怪鳥のごとき甲高い声で大きく鳴いた。再び、銀色が舞う。


 シュラムフラは零夜と別れたときよりも、ひとまわりかふたまわりも大きくなっているようだった。もう一度シュラムフラが高く鳴くと、彼の姿は見る間に変化を始める。

 半透明の身体を覆う無数のイボから鈍色の体液が滲み出て、空気に触れるとたちまち硬化し、金属の光沢を放ち始める。曇りひとつない銀色の鱗甲が、シュラムフラの柔らかな身体を覆っていく。長い背びれを夜闇になびかせ、鱗でできたかぶとが頭部を隠してしまえば、これでようやく变化は終了だと言わんばかりに、シュラムフラは全身を大きく震わせた。

 もはや半透明の肉の塊など、どこにも見えない。零夜が出会った時のシュラムフラとは全く印象の異なる、優美な生き物がそこにいた。空を泳ぐように身をうねらせる、魚か蛇に似たその姿は、まさに銀色の波シュラム・フラーだった。


 シュラムフラは鎌首をもたげるようにして異形の男を威嚇しながら、細長い尾を地面に叩きつける。そのたびに舞い狂う銀色の鱗が敵の顔面にまとわり付き、視界と呼吸とを奪おうとする。荒れ狂う暴風が鱗を吹き飛ばすが、それに負けじと、シュラムフラも銀色を散らす。

「ぐ……うう、はしたのミトラ風情が!」

 男が叫ぶと、風はただ吹き荒れるだけの空気の流れから大きく変貌した。大木を薙ぎ倒すほどの風圧が、狭い空間に圧縮される。ぴんと立った耳、房のような尾、四本の脚。暴風は狼の姿を取り、銀の波を飛び越えてシュラムフラの首元へ食いついた。

『ぎゃあああっ』

 人間のものにも似た悲鳴が上がる。圧縮された暴風は狼の牙を起点として放散され、シュラムフラの鱗の内側にある、柔らかな身体を風圧で引き千切る。

「シュラムフラ!」

 彼の名前を叫んだ声は、零夜のものではなかった。――では、誰が? 零夜は背後にいる、その「誰か」を見る。ダンニールが、身悶えするシュラムフラに向けて手を伸ばしていた。

 なぜダンニールが、あのミトラの名前を知っている?

 そのことを考える暇もなく、零夜の脇を風が通り抜けた。異形の男が操る暴風とは全く異なる、秩序だった行儀の良い強風だ。

 ダンニールのイマジアが生み出した風だと、零夜にはすぐに分かった。彼の唇がわずかに動き、祝福の言葉を紡ぐのを見たのだった。イマジアの風は、非力ながらも狼の横腹を突き、シュラムフラへのとどめを防ぐ。暴風の狼は掻き消え、シュラムフラは首を振って、未だまとわりついていた暴風の片鱗を払い飛ばした。銀色の鱗が舞い、今しがた食いつかれた首の傷を癒していく。


 異形の男は牙をむき出しにして、獣じみたうなり声を上げた。自分の置かれた状況を確認するように、視線を左右に走らせる。異形の全身を覆いつくしていた殺意が、徐々に凪いでいく。この場にいるものたちを皆殺しにすることは、諦めたようだった。そして彼は、本来の目的だけを遂行することに決めた。

 すなわち――青い少女を、手中に収めること。

 一瞬の出来事だった。男の蹄が大地を蹴り、後方で弓を構えていたティエラへと肉薄する。その素早い動きに反応できたものは一人もない。弓を引く間も与えず、鉤爪のついた手が、少女の胴を鷲掴みにした。

「ティエラ!」

 瞬きの間に行なわれた略取に、零夜が叫んで手を伸ばしたときには既に何もかもが遅かった。風が渦を巻き、視界を奪う。

『お前も――お前の中にる脅威も、いずれまとめて葬り去ってやろう。だがまだ……そのためにはまだ、足りぬのだ』

 暴風の中に声が舞う。鞭のような風が身体のあちこちを打つ。

 少女の名を呼ぶ声は、風のうねりの中にかき消された。あらゆる音を巻き込みながら、風は高く空へと上昇していく。そして渦が消えたときにはもう、その中心には誰の姿もなかった。

 唐突に訪れた静穏に、誰もが戸惑う。もう危険は去ったのか? あの男はどこへ行ったのか? ティエラは――


「まずい! 早く追い掛け……うぐっ!」

 背中に強い衝撃を受けて、零夜は草の上へと倒れ込んだ。背を強く踏みつけられると共に、腕をひねり上げられる。誰がやっているのかなど、考えるまでもないことだった。

「逃がさんぞ! あの化け物が何なのか……お前が一体何なのか、洗いざらい吐いてもらう!」

 ダンニールはつばを飛ばしながら、零夜の背に体重を掛ける。首筋に刃物が当てられ、手首に堅い拘束具が掛けられる。倒れ伏した視線の端で、キヤが戦闘姿勢を取ったのが分かった。零夜は「キヤ!」と、潰れた声で叫んだ。

「俺のことは良い! あいつを追ってくれ!」

 一瞬の間があった。キヤが、何か言いたげに目を見開く。そして実際に何か言おうと口を開いたとき、キヤの視界を銀色が塞いだ。

 銀色のミトラ――シュラムフラは、長い背びれを揺らめかせながら、組み伏せられている零夜を見て首をかしげた。「頼む、ティエラを」と、零夜が言う。

 シュラムフラは、或いは、頷いたのかもしれなかった。銀色の首を少しだけ伏せて、そして黒々とした夜の山へ、銀色の体をくねらせて猛然と進み始めた。暴風の消えた先、連れ去られたティエラを追う道すじを辿っているのだと、誰の目にもそのように映った。

 それを見て、キヤも決意を固めたようだった。

「死ぬなよ!」

 短く言い残して、キヤはヒルカンに跨った。進むべき方角は、銀色の波が指し示してくれる。走り始めた馬を、ダンニールは敢えて追おうとはしなかった。彼にとっては、零夜を拘束しただけでも上々の結果なのだろう。


「死ぬなよ、か」

 昏い空色の瞳が零夜を見降ろす。恐ろしく冷ややかではあるが、目当てのものをとうとう組み伏せたという、残酷な興奮の光る目だった。ダンニールを睨み返しながら、口の中で祝福の呪文を唱えようとした零夜に気が付いたのだろう。ダンニールは頬を引きつらせながら「無駄だ」と言った。

「イマジア抑制錠を掛けた。僕をあまり見くびらないことだな」

 ダンニールの言う通り、イマジアの青い炎はくすぶりすらしない。

「これだけのことをして、ただで済むと思うな」

「俺は……俺は、何もしてない」

「いいさ。爪を剥がされても同じことを言えるかどうか、試してみようじゃないか」

 身をよじる零夜の頭上に、乾いた嘲笑が降る。イマジアを封じられてしまっては、零夜はもはや、大した抵抗のすべを持たなかった。

 来たる苦痛の予感におののきながら、零夜は夜の闇に目をこらす。ティエラを連れ去った男の影も、それを追っていったシュラムフラやキヤの姿も、もうどこにも見えない。

 風の音の途絶えたこの場に、プラド村から届く物音と怒声だけが、遠い雑音のように聞こえていた。


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