襲来


 ミトラの消えた草原に、ティエラは伏したまま動きを止め、風の音を聞いていた。もつれ合う空気の音が遠くなった隙を見計らって、匍匐ほふくの状態で前へと進む。

 立ち上がって走ろうとするたびに、風は意思を持っているかのようにティエラに絡みつき、進路を妨害した。干渉を避けて進むには、こうして極限まで姿勢を低くするほかない。

 村は無事だろうか。立ち上がって確認することもできない。ただ気配を消し、草の上を這う。時おり、逃げ遅れたミトラがティエラの背中の上を走り、長い髪にもつれてぴいぴい悲痛な声を上げる。


 いい加減に肘が痛くなってきたころ、風の音に混じって規則的な音が聞こえてきた。次第に近付いてくるその音は、蹄の音だ。首をねじって背後を振り返ると、風を切りながら走り来る青い光が見えた。

「レイヤ!」

 肩の上に炎を漂わせながら、ヒルカンに乗る零夜の姿が闇に浮かび上がる。ティエラの声が届いたのだろう。零夜は声の主を探すように何度か視線を彷徨わせたすえ、ついに草地に伏せるティエラの姿を捉えた。

「ティエラ!」

 こぼれ落ちるように馬から降り、零夜はティエラの肩を手で掴む。

「怪我は……怪我はない? 良かった、生きてた……」

「レイヤも、無事だったのね。カルムには会った?」

「宿の地下に避難してた。アリエもソーグさんも一緒だ。みんな無事だったよ」

「そう……」

 緊張の糸がぷつりと切れたのか、ティエラは大きく息を吐き零夜にもたれかかった。力が抜けてしまったようで、彼女の額が零夜の胸板をずり落ちる。それを支えながら、零夜も同様に大きなため息をついた。

 良かった。けれど、これからどうなる?


 意思ある風は、明らかにティエラを目的として吹き荒れている。「この風は一体なに?」と、疲れ切った声でティエラが言う。

「逃げても逃げても、追いかけてくるの。私の足をすくったり、背中を突き飛ばしたり」

「足止めをしてるんだ」

「足止め? 誰が?」

「多分、この風は手足のようなもので……本体はずっと遠くにいたんだ。風でティエラの居場所を探って、自分が追いつくまで足止めをさせてた」

「ねえ、何のこと? レイヤは何を知ってるの?」

 風の吹いてくる大元、闇の向こうを見透かすように、零夜は顔を上げて目を凝らした。

「知ってるんじゃない。分かるんだ。ミトラたちがの気配を感じて逃げ出したように、俺にも分かる……」

 下がってて。とティエラに囁いて、零夜はゆっくりと立ち上がった。闇に向き合い、腰に挿していた短刀を抜く。

「……来るぞ」

 その一言が合図となったかのように、一陣の風が吹いた。これまでの風とは違う、土と植物の匂いをたっぷりと含んだ、質量を感じさせる風だった。暴風に遮られていた月が、雲の隙間から顔を出す。完全なる暗闇だった草原に、白銀の光明が差し込まれた。その光の中に、男が立っていた。


 男は、何の音も気配も伴わなかった。風の中から生まれたのかも知れない。そう思わせるほど、唐突な出現だった。

 予期せぬことにティエラは「えっ」と声を漏らすが、零夜は動揺を見せることなく男を睨みつけていた。零夜のこめかみに脂汗がにじむ。それでも、退いてなるものかという意地だけが、零夜を奮い立たせていた。

 月光に照らされた男の姿は、明らかに異形だった。頭蓋からは大きな角が突き出し、顔の皮膚はあちこち乳白色に硬質化して月光に輝いている。背からは骨やら植物の茎やらが雑多に突き出し、アランジャ族の民族衣装にも似た衣服の裾からは、白銀の毛に覆われた尾が覗いていた。

 何より……彼がゆったりとした足取りで近付いてくるたびに、彼を覆う異形が少しずつ剥がれ、草の上にぼたりぼたりと落下するのだった。


「……やっと追いついた」

 男が言う。頬を覆っていた、人間の爪に似た鱗が剥がれ落ちる。男の目は、ティエラだけを捉えていた。目の前に立つ零夜の姿など、まるで見えていないと言わんばかりの態度だ。雲は更に薄く散らされ、月の光は周囲を真昼のように明るく照らす。

 明瞭になった視界の中で、ティエラは突然現れた男をまじまじと見た。並の人間よりは一回り以上も大きな体躯。その巨体を包む衣服にも、異形の陰に隠れている装飾品にも、見覚えがあった。

 あれはまさしく、アランジャ族が普段から身に着けているものばかりではないか。爪先の反った皮の靴、金のかぎ模様が施された襟元、粒銀と翠玉を連ねた耳飾り……。しかし勿論のこと、その男をアランジャの営地で見かけたことなど一度もなかった。

「迎えに来た」

 もう一度、男が口を開いた。それに対してティエラが何か返す前に、零夜が一歩前に出る。

「ティエラは渡さない」

 男は、その時始めて零夜の存在を認識したようだった。何度かまばたきをして、零夜を見る。そして、零夜の肩口に浮かび、青い光を放っている炎を見る。瞳にちらつく青い炎。男の口元に笑みが広がった。笑みは鱗を飛ばしながら、頬から耳元までみるみるうちに裂け広がる。


 風が吹いた。それを頬に感じると同時に、零夜は構えていた短刀を前に突き出した。一瞬のうちに間合いを詰めた男が、袖に隠していた猛禽の爪を零夜に突き立てる。それを短刀の背で受け、足を踏ん張って男を押し返す。牙の並ぶ口が大きく開き、零夜の首元を狙った。

 そのひと噛みも短刀で防ごうとしたとき、視界を白い閃光が走り、二人ともが思わず目をかばった。空気の裂ける音がする。

 もう一度、鋭い雷光が翻り、男の胸を直撃した。低い呻き声を上げて、男が倒れ伏す。

「キヤ!」

 身の安全を確認してから、零夜は振り返った。

「どうしてここに!」

「村から離れる青い光が見えた。お前だろうと思ったが、やっぱりそうだ。それより、これはどういうことだ?」

 倒れた男から目を離すことなく、キヤは叫ぶように言う。「村も大変なことになってるみたいだな。こいつがやったのか? 一体何が……」

 二人の会話を許すことなく、男の背が細かく震え始める。笑っている。身体を震わせ、笑いながら立ち上がる。「動くな」と、キヤが低い声で言った。「次は死ぬ威力で撃つぜ」

 強気に威嚇をしながらも、キヤ自身も困惑していた。殺すつもりで撃った雷撃ではないにせよ、胴体に直撃したのだ。普通の人間ならば昏倒し、しばらくは動けなくなるはずだった。しかし、男が普通の人間ではないことは外見からも明らかだ。この男は――

「人間か? それとも……まさか、ミトラなのか?」

 裂けた口を歪ませて、男が笑った。ゆらりと不気味に揺れながら、鉤爪の光る両腕を前に突き出す。


カバラ・ルシャ・フェロスヴァルナ薙げ、閃け、猛きものども!」

 警告通り、キヤは容赦なく雷撃を放った。空気を切り裂きながら、閃光は一直線に男に向かう。男はそれを避けようとしたが、間に合わなかった。右腕が吹き飛ばされる。しかし、男は平然としている。

 片腕を失って身体の均衡を取りづらくなったのか、不気味にふらつきながら男はキヤに襲いかかる。しかしそこへ純白の矢が飛来し、鉤爪の一閃を許さない。

 ティエラの手により放たれた矢は、男の左手の真ん中を射抜いていた。二撃目は首へ、三撃目はこめかみへ。どれも寸分違わず、狙いの中心を容赦なく貫く。男はまず、左手に突き刺さる矢を見た。そしてその手で、首とこめかみの傷に触れた。流れ出た体液は瞬時に凝固し、一個の生き物のように蠢きながら男の背中へ移動し、背を覆う骨や植物群と一体化する。全くダメージを受けていないようだ。


狼狽うろたえるなよ」

 キヤが低い声で言った。

「俺の雷とティエラの矢で関節を壊す。隙が出来たら、レイヤはとにかく奴を燃やせ。灰になっちまえば、さすがに動けなくなるだろ」

 頷いて、零夜は維持していた青い炎を手の陰におさめた。タイミングを見計らって、一気に火勢を強くして燃やし尽くす。常に炎をちらつかせているより、そちらの方が相手の虚をつけるはずだ。狙い通り、炎を視認できなくなった男は、他への注意をおろそかにしてでも、零夜の挙動全体を注視せざるを得なくなる。彼はどうやら、青い炎だけは特別に警戒しているようだった。

 それぞれの武器を構えるキヤとティエラ。睨み合う零夜と異形の男。互いの隙を見計らう緊張が幾ばくか続く。


 その膠着状態を破ったのは、どちらかの攻撃の開始ではなく――二対の馬の足音だった。ティエラの背後で、ヒルカンが興奮した様子で首をもたげる。二人とも零夜の見知った顔だった。ダンニールとジルバートだ。

「あいつだ!」

 ダンニールが、零夜を指差し叫んだ。「あそこにいる! 捕らえろ!」

 彼の目は憎しみと、これだけの災禍をもたらした者へ鉄槌を下さんとする使命感に燃えていた。自分がまさに駆け寄らんとしている地点がどんな状況であるのか、それを分析する一切の冷静さを欠いていた。

 ダンニールの命令を受け、先頭を走っていたジルバートが零夜に向かって加速する。

「来ちゃだめよ!」

 ティエラが叫ぶが、遅かった。二人がようやく見慣れぬ男の姿を認めたときにはもう、異形の背から生える植物群は触手のように伸び、ジルバートの脚を掴んで宙吊りにしていた。

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