風、闇、そして光


 低い地響きが天幕を震わせた。薄目を開ける。暗闇に目が慣れるまで待つ暇もなく、「起きろ」とキヤが零夜の外套を剥ぎ取った。

 外の様子がおかしいことは、寝起きの零夜にもすぐに分かった。ミトラたちが騒がしい。薄い天幕を突き抜けて、いくつもの言葉たちが流れていく。プラド村から遠ざかる方へ、逃げていく……。

『こわい』『こわいよ』

『にげなきゃ』『にげようよ』

『ころされる』『ころされるよ』


 布戸を捲って外を覗く。ミトラの姿は闇の中に紛れ、ひとつも視認できない。しかし声だけは、確かに零夜に届いていた。囁き合いながら、恐ろしいものから逃げ惑うミトラたち。

「やけに暗いな。ミトラの光がないからか」

「光はないけど、すぐそこにいる。……逃げてる。なにか来るんだ」

 二度目、三度目の地響きが空気を震わせた。背筋がぞわりと粟立つ感覚に、零夜は思わず身じろぎをする。それはミトラたちが感じているものと同様、零夜の身体の奥底を響かせる本能的恐怖だった。……。


「キヤ、行こう!」

 外套の前をとめながら、零夜が言った。

「すごく……まずいものが来る。分かるんだ。ここにいてもどうせ危ない。村に行こう!」

 キヤの答えは待たず、零夜は走り出した。「待てよ!」という声だけが零夜を追い掛けてくる。零夜は振り向かずに、プラド村に向かって走り出した。村へ行ってどうするという判断はまだ下していなかった。轟音が酷くなっている。木材が軋み割れる音と、硬いもの同士がぶつかり合う音がする。……風が吹いている。

(この風……この風は……!)

 覚えのある匂いだった。嗅覚ではなく、細胞ひとつひとつに沁み込んでくる気配のようなものが、零夜の直感に働きかけていた。

大山風おおやまじの楔……」

 村を蹂躙する竜巻を見上げながら、零夜は呟いた。



 月明かりも風に吹き飛ばされてしまったかのように、完全な闇が広がっていた。闇の中に、恐怖と轟音が渦巻いている。子が親を呼び、親が子を呼ぶ。悲鳴。破壊音。高く低く、空気がうねり擦れる耳障りな音。

 それは、零夜が想像した以上の惨状だった。すでに何棟かの建物は破壊され、残骸が空を舞っている。破壊されているのは比較的粗末な建物ばかりで、教会や役所は無事なようだ。村人たちは這うようにして、未だ無事な建物の中に避難しようとしている。

 リヒトは役人宿舎にいるはずだ。ならば少なくとも、倒壊の危険からは逃れられているだろう。吹きすさぶ暴威の中で、その事実はわずかに零夜を安心させた。そして、零夜が次にどこへ向かうべきか、その決意を固めさせた。


 荒れ狂う音の中、身を屈めて風を避けながら、零夜はソーグの宿へ向かう。闇と混乱の中で、零夜の存在に気が付くものはなかった。誰もが自分のことで精一杯だった。

 何度か方向を間違えながらもようやく辿り着いたとき、宿は既に二階部分を吹き飛ばされ、無残な姿となっていた。

「アリエ! ソーグさん! カルムさん! ……ティエラ!」

 何かがぶつかったのか、大きく空いた壁の穴から中を覗き込む。視線を動かして、零夜は「くそっ」と小さく毒づいた。入り口に掛けられていた鉱石灯は粉々に砕け散り、少しの光もない中では人探しすらままならない。

「何か光があれば……あ、」

 焦りと緊張が、零夜から思考力を奪っていたようだった。自分の持つ能力のことがすっかり頭から抜け落ちていた。

クァレ・ュナ・イムニヤ彼の名を讃えよ

 祝福の言葉を唱えると、手のひらに青い炎が灯る。風に煽られて激しくちらついてはいるが、決して消えることはない。胸の前に抱えるように手を広げ、暴風から炎を守る。そうしてやれば、目の前を照らす程度の明かりとしては充分に機能した。

 青い光を携えて、零夜は壁の穴から宿へ入る。親しい人々の名前を呼びながら……吹き飛んでしまった二階部分のことは考えないようにしながら……。


 見覚えのある食堂も台所も、無残な姿に成り果てていた。テーブルも椅子も瓦礫に押し潰され、床中に食器の破片が散乱している。全てのものが欠けたり壊れたりしている中、唯一壊れていないものを見付け、零夜は思わず足を止めた。スジュが使っていたマグカップが、自身の存在を主張するように、瓦礫の隙間にぽつんと残されている。

 轟音と共に、視界が大きく揺れた。ひときわ強く吹いた風が建物を揺らしたのだ。絶妙なバランスをもって積み上がっていた瓦礫の山が崩れる。小さな陶器のマグカップは、轟音の中では無いも同然のささやかな音を立てながら割れ、瓦礫に同化していく。

「スジュ……」

 涙が滲みそうになったその時、風や瓦礫の建てる音とは違う物音が鼓膜を震わせた。顔を上げ、耳を澄ませる。下だ。マグカップの破片が散らばっている、まさにその辺りから音がした。瓦礫の下から音がした。


 手近な木材を手に、零夜は急いで瓦礫をどかし始める。時おり吹き抜ける突風に煽られ、飛び交う瓦礫から身をかわしながら、音のした辺りを掘る。現れたのは、床下収納の跳ね上げ扉だった。酒やハタ乳を保管しておくのに使う、地下に造られた石室だ。扉はほとんど壊れていて、もはやただの板としてかぶさっているだけだ。

 その下に、動くものがあった。頭を上げ、零夜の姿を見る。途端、今にも泣き出してしいまいそうに、彼は顔をくしゃくしゃに歪めた。

「ソーグさん……」

「レイヤ……なんで来たんだ……」

 ソーグの肩越しにカルムの顔が見え、その更に奥にアリエの姿があった。狭い床下収納は、大人二人と子供一人の命をしっかりと守っていた。ソーグはしばし言葉を失っていたが、また強く鳴った風の音に我に返ったように、「入れ」と零夜の腕を引っ張った。


 石積みの地下空間は、風だけでなく音の脅威すらも遮ってくれていた。ようやく聴覚が休まる感覚があり、零夜は少しだけ安堵の息を吐く。

「あんた、生きてたんだな」

 そう呟くソーグの頭は、降り積もった砂埃で灰白色に染まっていた。

「レイヤさん、怪我してる」

 奥の方から這うようにして出てきたアリエが、零夜の肩に触れた。アリエの触れた先を見れば、確かに肩口に切り傷ができている。全く痛みを感じないのは、神経の昂ぶりゆえだろうか。零夜が不思議に思っている間に、アリエは服の裾を破き、手早く止血処置をした。「ありがとう」と零夜が言うと、彼女は微笑の出来損ないのような表情を頬に浮かべた。


「レイヤくん」

 呼ばれた方を向くと、青い炎の光の中に浮かび上がる、カルムの蒼白な顔があった。

「カルムさん。ティエラは?」

「先に逃しましたが……正直、ここまでのものが来るとは思っていませんでした。果たして逃げ切れたかどうか……」

「逃したって、どこへ?」

「中庭を抜けて、村から出来るだけ離れる方向へ行ったはずです。はティエラを狙って来ていますから」

 風の音が、少しおさまってきたようだ。それを誰もが感じ、外の様子を探ろうと耳を澄ませる。「既にティエラが村にはいないと、気付いたのかもしれません」と、カルムが声を絞る。


「レイヤさん」

 切羽詰まったその声に、零夜は顔を上げてカルムを見た。彼の灰色の両目は、しっかりと零夜に向けられている。

「あなたに頼むのは、全くすじ違いであることは承知しています。けれど、もはやあなたにしか頼めない……どうか、ティエラを守ってください」

 その時、零夜は始めてカルムの瞳の中に、彼の個人としての光を見た気がした。これまでカルムは、あくまでアランジャ族のカルム・ウ・ヴァルムとして、義務と責任とを伴って発言していた。けれど、この願いは違う。集団の利益のためではなく、一人の少女の命をただ守りたいという願いが、零夜に託されようとしている。

「はい」

 零夜は短く、それだけを言った。短いが重い一言だった。


 風は確かに弱まってきている。外へ出て、ティエラを探しに行かなければならない。「レイヤさん、行っちゃうの」と、心細げに言うのはアリエだ。出口へ登る段差に足をかけたまま、零夜は振り返った。「うん」と小さく、けれどきっぱりと言う。

「アリエ、傷の手当をありがとう」

 さよならと言いかけて、零夜は口をつぐんだ。これではまるで、永遠の別れを予期しているようではないか。かといって、この状況で「またね」と言えるほどの胆力が零夜にはなかった。結局は、泣き笑いのような表情を、青い光の中に浮かび上がらせることしかできなかった。


「なあ、レイヤ」

 とうとう泣き出したアリエを抱きしめながら、ソーグが低く零夜を呼ぶ。スジュの死を嘆く彼の声、零夜を睨む目のくらさ。そういうものを思い出して、零夜は思わず身構える。しかし、彼の声色は穏やかだった。

「昨日は、すまなかった」

 腕の中の娘に視線を落としたまま、ソーグは言う。

「酷いことを言った。あんたはスジュを……かばってくれたのに」

 最後はほとんど涙声になりながら言葉を絞り出す。薄闇の中に、大柄な身体がやけに小さく見える。「気にしないで下さい」と、零夜はかぶりを振った。

「それに、かばうなんて、そんなんじゃなかったんです。俺はただ……」

「異端の子供が処分されるとき、なにが一番つらいと思う?」

 零夜の言葉を遮るように言いながら、ソーグの無骨な手がアリエの頭を撫でる。

「異端をかばう行為は死罪に値する。たとえ親であっても、我が子を見捨てなければ同罪だ。子供にとって、それがどれほどの絶望だと思う? 自分が死のうという瞬間に、誰も――親すら助けに来てくれない。異端の子供は皆ひとりぼっちで、絶望の中で死んでいくんだ。俺は……いっそあの子をかばって死にたかった。一緒に死んでしまっても良いと思った。だが俺が死んだら」

 アリエを抱きしめる腕に力が込められる。

「俺が死んだら、この子はどうなる? 異端の姉、罪人の娘として、たったひとりで、どうやって生きていく? それを思うと、俺は……俺は、スジュを……」


 銀の刃を向けられたスジュを前にした、あの時のソーグの表情を思い出す。アリエを強く抱きしめ――否、アリエに強くしがみつき、自分の中の衝動を必死に抑えていた。

 どんなにか、かばってやりたかっただろう。駆け寄り、抱きしめ、心配ないとその目を覆い、せめて死の恐怖を感じないように――側にいてやりたかっただろう。しかし、その行為はすべて「罪」なのだ。

 死を前にして怯えた姿を目の当たりにしながら、それでも娘のために、息子を見殺しにしなければならなかった。どちらも愛する我が子だというのに、どちらかを選ばなければならなかった。


「……だからな、レイヤ。どんなつもりだったにしろ、あんたがスジュをかばってくれて、スジュは独りぼっちで死なずに済んだ。それで、それで……スジュはきっと……救われたと思う……」

 涙は頬から顎を伝い、アリエの細い髪へと落ちる。ソーグはようやく顔を上げて、零夜を真っ直ぐに見た。もうその瞳のどこにも、憎しみは滲んでいなかった。

「ありがとう、レイヤ。あんたがいてくれて、よかった……」

 右目の下が、ちくりとしみた。顔に巻かれた包帯に流した涙がしみこんで、顔面の斬り傷を痛ませる。娘を抱きしめていた両腕のうち片方の手を伸ばして、ソーグは零夜の背を力強く二度叩いた。言葉はなかった。それでも確かに何かを受け取って、零夜は強く頷いた。


「じゃあ、行ってきます」

 返事は待たずに、零夜は地下収納を飛び出した。もう風は随分弱くなり、難を逃れた村人たちが、建物の下敷きになった者の救助を始めている。零夜は手のひらの中の炎を一度消し、闇に紛れてその脇を通り過ぎる。

 中庭を抜けて、村から離れる方角へ。カルムに言われた通りの方へ視線をやると、耳元を通り抜けた風もまた、同じ方向へ向かっていることに気が付いた。

(急がなきゃ……)

 走り出そうとして思いとどまり、向きを変えてうまやへ行く。堅牢な造りをしている役場のちょうど陰になっていたのか、厩はそれほど被害を受けていなかった。「ヒルカン!」と彼の名を呼べば、興奮した鼻息がそれに答える。奥の馬房で、賢い双眸が零夜を見つめている。

「ヒルカン、行こう」

 鼻面を撫でてやると、ヒルカンは次第に呼吸を落ち着け、首を伸ばして零夜の髪を優しくんだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る