夜に来たるもの【彼】


 そう、夜は更ける。濃紺のとばりは誰のかぶりにも垂れ下がり、ひっそりと星の声を降らす。


 リヒトもまた、濃い闇の彼方に浮かぶ隠微いんびな光を見つめていた。神都では滅多に見られない、微小ミトラの群集化と発光現象。集団によって色が異なり、青白い光や黄色っぽい光がモザイクのように入り乱れている。

 その光を見つめていると、奇妙な浮遊感と共に、遠いどこかへ引っ張られるような感覚に陥るのだった。

(あの少年……あの少年の瞳も、そうだった)

 プラド村で出会った、右目に痣のある少年。彼の枯茶色の瞳と目が合った瞬間、遥か僻遠へきえんの地へという衝動に全身を揺さぶられた。異端の粛清という、自分に課された使命をほんの一瞬でも忘れてしまうほどの、渦のような衝動。あれは一体何だったのか……。


 どこからか漂ってきたのか、粒のようなミトラが窓に付着し明滅する。ガラス越しにその光に触れると、ミトラは体温から逃げるように窓から離れ、闇の中へ溶けていく。

「ミトラの光が、ずいぶん気に入ったようですね」

 上司の声に顔を上げた。ばつの悪そうなリヒトの表情に気が付いたのか、シースは常より笑んでいる目を更に柔らかく細める。

「すみません。神に仕える身でありながら、ミトラに気を取られるなど」

「ミトラもまた、メシエ・トリドゥーヴァの創り給うた命です。美しいと思うのも当然ですよ」

 教義に厳しい彼が珍しいことだ、とリヒトは内心で首をひねる。ミトラ信仰の影響が濃い辺境の地ならばともかく、厳格なトリディア正教が信仰される神都では、ミトラは「神を裏切った生命」と忌み嫌われる。


「ミトラも我々と同じように、神の寵愛を受けた存在であると?」

「本質的にはそうでしょうね。神が彼らを拒んだのではなく、彼らが神を拒んだのですから」

 ところで、とシースが切り出す。「気になっていることは、この光だけではないでしょう?」

 どうやらこの人に隠し事は不可能らしい。リヒトは躊躇いながらも、先ほど考えていたことを彼に話す。ここではないどこか遠くへ衝動。そして、痣の少年に感じた既視感。


「でも俺は、神都で生まれて神都で育った、生粋のゼーゲンガルト人です。こんな外地に知り合いがいるとも思えなくて。そうでしょう?」

「……ミトラのせいかも知れませんね。ある種のミトラは、人間の精神に干渉します。ミトラ慣れしていない者は、容易に惑わされてしまうでしょう」

「よくあることなんですか?」

「夏至の日に一人で山へ入るな、深夜に海へ行くな、自分の背を超すミトラの塊に近寄るな……様々な土地に様々な禁忌がありますが、全てミトラが人に及ぼす害ゆえに生まれたものですよ」

 ミトラは矮小な存在となった今でも、神を討ち倒す機会を虎視眈々と狙っているのだ。そのために、神のしもべである人間を惑わす。


 シースの説明を聞き、リヒトは自分の不勉強を恥じると共に、自分の芯を揺らがせた不可解な感覚に説明がつくことに、ほっと胸をなで下ろした。あの焦げつくような感傷は、ミトラの光が見せた、ただの幻だったのだ。

「安心している場合ですか?」

 安堵が表情に出てしまっていたのか、それを見咎めたシースが冗談めかして言う。

「この程度のミトラに惑わされているようでは、異端審問官には当分なれませんね」

「す、すみません」

 リヒトの白い頬に、ぱっと赤みがさす。端数として自分を買ってくれているシースに、不義理な真似はできない。「精進します」と言うと、シースはクスクスと笑いながら「程々に」と返す。


 目の前で笑う男は、リヒトがどれほど手を伸ばしても届かない境地に立っているのだと、改めて思い知る。彼はどんなに強大なミトラを前にしても、その心を揺さぶられることなどないのだろう

 異端審問官。死の女神ギーヴェリの子たる「異端」を粛清する使徒。生の女神メシエ・トリドゥーヴァの、完全無欠なる七人のしもべたち。

 そこへ至るための足掛かりであり、彼らを最大限サポートするのが端数の役目だ。未熟ゆえに抱いた不安感を、未熟を言い訳に慰めるなどあってはならないことだった。

「そう深刻にならなくとも、ミトラにはいずれ慣れますよ。それにリヒト、おまえはよくやってくれています」

 自分を甘やかす言葉に、リヒトはわずかに口を尖らせた。シースがたびたび見せるこういった寛容さは、時に向上心を殺す毒となり得ることを、リヒトは重々理解していた。更に言うならば彼は、リヒトの生真面目さを把握したうえで、からかうつもりでわざと甘やかしているふしがある。

 行動を共にするようになって数年経つ今でも、彼の掴みどころのない性格には振り回されるばかりだ。


 そう、甘えなど許されない。主人のもとで成すべき仕事は、ミトラの存在を無視しては成し得ないものだ。

 リヒトは体内の空気を入れ替えるかのように、大きく深呼吸をした。

 これまではゼーゲンガルトの中央部――すなわち、野生のミトラがほとんど存在しない清浄の地――で、異端を粛清するという使命をひたすらにこなしてきた。女神の加護の外側、不浄の地へ足を踏み入れるのは、リヒトにとって今回が初めてなのだ。

 緊張していないと言えば嘘になる。しかし、自分たちに任された大仕事――辺境に存在する、楔と呼ばれるミトラの剿滅そうめつを完遂するためには、いずれ経験しなければならない試練だ。

 ――そう思えば、自分は幸運な方だ。この人が隣に居るのだから。

 リヒトが横目で主人を見やると、その視線を感じたシースは穏やかに会釈をした。それがまたリヒトを甘やかすようなものだったため、リヒトは小さく咳払いをして目を逸らした。


「……それで、これからのことですが」

 これ以上翻弄されてはかなわないと、リヒトは再び仕事の話を持ち出す。

「本当に、あの男と手を組むおつもりですか?」

「ええ。ふところに入り込ませる気はありませんが、西方外地における彼の影響力は、無視できるものではありません。楔に干渉する以上、近隣の民族たちの反発は必至でしょう。それに対処するためにも、彼とは協力関係にあるべきです」

 リヒトの表情がわずかに変化した。それは注視していても見逃してしまうほど極めて微細な引き攣りだったが、シースはリヒトになだめるような微笑みを向ける。

「おまえはつくづく、彼のことが嫌いですね」

 心の内を見事に言い当てられ、リヒトは思わず肩をすくめた。

 確かにこれから合流する予定の男――彼もまた、異端審問官の一人であるが――リヒトはその男に、警戒とは別に個人的な嫌悪感を抱いていた。


 異端審問官の中でも、異端の粛清に対する姿勢は様々だ。軽度の異端であれば更生施設に移送する規則になっているが、その見極めは審問官に全任されている。

 可能な限り更生施設を利用し命を救おうとする審問官もあれば、功績のため、軽度異端であっても容赦なく処分する審問官も当然あった。

 異端が人間、そして神に牙を剥く前に殺害する。その目的さえ果たしていれば、個々の方針は問題とされない。極論、異端の粛正に殺戮の快楽を見出していようと、度が過ぎない限りは問題視されないのだ。


 三者三様である異端審問官の中で、は少々嗜虐癖が鼻につきすぎる。リヒトはそう思っていたし、その点を特に嫌悪していた。

しかしそれはあくまで内心でのことであって、言葉や明確な態度に表したことは一切ない……はずだった。本心の隠蔽など、結局のところシースには一切通用しなかったようだが。

「……仕事に感情を持ち込んだりしません」

「ええ、そうしてください。彼とはしばらく、上手く付き合っていかなければなりませんから」

「はい」

 リヒトは固く目を瞑り、深呼吸をした。

 感情を悟られているようでは、この仕事は務まらない。この人の下で、腹心として働くというならばなおさらだ。表情は内心を訴えるための記号ではなく、本心を隠すための仮面でなくてはならない。



 夜は静かに更けていく。

 食事を終え、あとは体を休めるばかりという時になって、「ああ、そうだ」とシースは思い出したように腰を上げた。鞄から書類の束を取り出し、「これを整理しておいてください」と枚数を確認してからリヒトに手渡す。プラド村の住民名簿と、ここ最近の役人の動向をまとめたものだ。

 それを受け取ろうと伸ばされたリヒトの手を、シースが掴んだ。掴んだままじっとリヒトの目を覗き込み、その奥の光を探ろうとする。

「ところで、リヒト」

 腕を引き寄せ、リヒトの袖を捲り上げていく。黒い服の下から、鮮やかな赤と青の組紐が現れる。

 ごく自然な動きで、リヒトはそれに目を留めた。それと同時に、リヒトの顔から全ての表情が消失した。焦点の更に向こう側を見ているような虚ろな目で、手首を彩る二色を見る。

は、お前にとって随分と大切なもののようだ」

 そう言いながら、シースはゆっくりとした動きで手首からミサンガを外していく。

 リヒトは表情ひとつ変えずに、洞穴のような目でその動きを追っていた。まずは赤いミサンガが、続いて青いミサンガがリヒトの手を離れ、シースの元に渡る。リヒトはやはり何の反応も示さない……というよりも、まるで何も見えていないようだった。

 やがて鮮やかな色がふたつともシースの手のひらに隠れると、ようやくリヒトの目に光が戻った。シースに掴まれている自分の手首を見て、不思議そうに首を傾げる。その様子を見て、シースは満足げに笑った。

「あの……どうかしましたか?」

「いいえ。何でもないですよ」

「そう、……ですか?」

 腑に落ちない様子で、受け取った書類を整えながらリヒトはシースを見つめ返す。それに相変わらずの微笑みで応え、シースは自らのポケットの中にミサンガを滑り込ませた。


 主人あるじの不可解な言動を訝しがりながらも、リヒトはそれ以上追及しようとはしない。書類を片付けてから、再び何気なく窓の外に視線をやる。そして……おや、と思った。

 あれほどまたたいていたミトラの光がどこにもない。木製の窓枠は、ただありのままの夜の闇を四角く切り取っている。リヒトは窓を開け、顔を突き出して辺りを見回した。プラド村の石門にほど近いこの宿からは、広いイヴァナ平原が一望できる。ついさっきまでは、見渡す限り夜空のようなミトラの光で埋め尽くされていたその場所が、今は不気味なほどの闇に包まれていた。

「シースさん、これは……」

 リヒトが振り返るより早く、シースも窓際に寄って同じ方向を見る。ミトラの消えた夜。どこからか、遠雷のような地響きがした。


「予想よりかなり早いですね」

 二度、三度の地響きが立て続けに鳴った。一体何事が起こったのかと、階下が騒がしくなる。

「どうやら、悠長に休憩している暇はなさそうですね。今夜から行動を開始しましょう。いけますか?」

「もちろん」

 淀みなく答えたリヒトに、シースは満足げに笑った。風が吹く。窓がガタガタと危なげに鳴り、次の瞬間には風圧で吹き飛んだ。飛び散ったガラスを分厚いマントで防ぎ、二人は階下へ移動する。


 屋内まで容赦なく吹き込む暴風の中、どこもかしこも混乱していた。「審問官様!」と、役人の一人が助けを求めるように叫ぶ。「一体、何が……」

 見開かれた空色の瞳。気の小さそうなその男を見て、シースはわずかに目を細めた。リヒトの目を盗んで、彼に耳打ちをする。

「異端を呼び寄せた不浄の男が、更なる厄災を呼ぼうとしています。彼を殺さなければ」

 その囁きは、暴風の中でも不思議と静かに耳に届いた。役人は呆然と肩を落としたが、すぐに臆病な肩に精一杯の使命感を乗せ、どこやらへと走り出す。その背中に、シースは薄い笑みを送った。

「さあ、ゆっくりはしていられませんよ」

 誰に宛てるともないその言葉の端には、確かな愉悦が滲んでいた。


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