夜に来たるもの【此】


 鈴のような虫の音が、夜の闇を震わせていた。キヤの長い指が、零夜の傷に軟膏を塗りこんでいく。

 傷は零夜が思っていたよりも深く、鼻梁びりょうに至っては軟骨までスッパリと斬れてしまっていた。その傷を包むように塗られている軟膏は、殺菌作用と麻酔作用のあるもので、これで痛覚を鈍くしておいてから傷を縫おうという手筈である。

 鼻の怪我のせいで零夜には匂いが分からないが、軟膏の独特の――薬臭い、清潔だがどことなく不安感を煽る匂いが、野営用の天幕の中に満ちている。

 布を捲って覗き窓から外を伺えば、夜も更けた頃だというのに、煌々とした明かりが遠目に見える。異端が処分されたのちも、プラド村には余韻のように恐怖が残留しているようだった。あるいは、血眼になりながら、零夜を探しているのかもしれない。


 あの後――シースらが去った後、ソーグは息子の亡骸を掻き抱いて身も世もなく泣き続けた。そしてやにわに立ち上がると「お前のせいだ」と零夜に掴みかかった。

「お前がギーヴェリの呪いを持ち込んだんだ。お前があの子を殺したんだ! お前なんかさっさと追い出しときゃ、スジュは死ななかった……お前がスジュを殺したんだ!」……


 もはや、プラド村には一刻も留まれなかった。零夜が穢れを持ち込んだのではないかという噂は、村中の人間が知っていた。その零夜と親しかった子供が、実際に異端となったのだ。根も葉もなかったはずの噂は立ちどころに真実へと変貌し、零夜は疑いようもなく「元凶」となってしまった。

 実情はどうあれ――それを否定することは、村で信用の篤いティエラとカルムでさえも不可能だった。

 素早く荷物をまとめ、零夜とキヤはプラド村を逃げ去った。すぐ近くに、人の近寄らない窪地がある。そこへ逃げ込めば良い。ティエラの助言に従い、村からほど近い窪地の影に野営を張り、ようやく一息つけたのはすっかり暗くなってしまってからだった。


 軟膏の麻酔が利いてきたのか、脈打つ痛みは徐々におさまり、虫の這うような不快な疼きだけが顔面に残る。縫合の準備が整うのを待ちながら、零夜はじっと目を閉じ、頭の奥に反響する怨嗟の声に耳を澄ませた。

 零夜を責めるソーグの声は、脳髄の奥の奥まで、呪いのように浸透していた。零夜を睨みつける、憎しみのこもった瞳。頭の中に何度も響く声。それはソーグの声であり、プラド村の人々の声であり、そしてスジュの声だった。

 お前のせいだ。お前が殺した。お前さえ来なければ……。


「お前のせいじゃない」

 零夜の考えていることを見抜いたのか、キヤが毅然と言う。

「誰のせいでもないことは、ソーグだって理解してるはずだ」

「うん、分かってる。一番つらいのはソーグさんなんだ。誰かのせいにしなきゃ耐えられないんだって、分かってるよ。だから、大丈夫」

「……お前って、諦めがいいよな」

 軟膏を塗り終わり、指についた余分を拭き取りながらキヤが言う。彼の言葉の意味を考える間もなく、零夜の視線と思考はある一点に釘付けになった。

 キヤが革のポーチから取り出したもの――弧を描く鉛色の針は、ロウソクの光を浴びて妖しく輝いている。必要最低限の明かりしか灯していない空間の中で、金属の鋭さがいやに強調される。


「じゃあ始めるからな。目、瞑っとけ」

 針に半透明の細い糸を通し、音もなく細く立つ炎で針先を炙る。赤く熱された針が元の鉛色に冷えていく様を、零夜は深呼吸をしながらじっと見つめた。

(大丈夫……痛くない、はず)

 再び深呼吸。目を閉じて、すぼめた口から細く長く息を吐く。簡易的な麻酔をしているとはいえ、よりにもよって目の近くを針で縫うというのは単純に恐怖だった。目に見えて緊張している零夜の肩を「力抜けよ」とキヤが軽く叩く。

「うっ」

 針の先が皮膚を貫いた。麻酔軟膏のおかげで痛みはない。しかし、皮膚が破れるぷつりとした感覚、糸が通る摩擦感は麻酔では誤魔化せない。糸を引かれるたびに「うう」と情けない声を出す零夜に、キヤは呆れた笑いを隠せないようだ。


「はい、終わり」

 パチンと音をたてて糸が切られ、零夜は安堵の息をついた。

 傷の周りを恐るおそる触り、自分の顔が一体どうなっているのかを確かめる。痣のある右頬から鼻にかけ、顔面を真横に走る傷。処置をしたとはいえ、かなり大きな痕が残るだろう。ただでさえ人を気味悪がらせる容姿に拍車がかかってしまった気がして、零夜は目を伏せた。

「貫禄ある見た目になったなあ」

 零夜の思いを知ってか知らずか、キヤが軽い言葉を放つ。「そうかな、気持ち悪くないかな」とこぼす零夜に、キヤの表情が曇った。勘付かれた、と零夜は余計な一言を悔いる。

 誰かに痣のことをからかわれて零夜が傷付くとき、零夜の周りの人間――特に母親は、零夜以上に深く傷付いた。それを知ってからは、傷付いたことを表に出さないことが零夜の癖になっていた、はずだった。

 キヤは陰った表情をすぐに笑みで塗りかえ、「歴戦の勇者って感じだな」と言った。

「なんだよ、それ」

 子供っぽい言葉に、思わず零夜の頬が緩む。

 ようやく零夜が見せた砕けた表情に、キヤは切れ長の目を嬉しそうに細める。その笑みに親友の面影を見た気がして、零夜の口端がわずかに引きつった。


 ――理仁。彼のことを考えるたびに、零夜の頭は混乱した。

 あれは本当に理仁だったか? 右目を眼帯に隠し、黒い服に身を包み、冷酷な空気を纏った男。零夜の知る理仁は、あんな人間だっただろうか? あんなふうに……表情ひとつ変えず、子供を殺すことの出来る人間だったか?

 疑念がよぎるたびに、鮮やかな赤と青が瞼にちらつく。そうだ、あのミサンガは確かに、美和が作ったミサンガだった。異世界の人間があれを持っているわけがない。ならばやはり、あれは「瑠璃沢理仁るりさわりひと」なのだ……。


「ほら、これ飲んどけ。抗毒剤だ」

 考え込んでいる零夜に、キヤが薬包紙を差し出す。説明を聞くに、傷の化膿と発熱を予防するための抗生剤のようなものらしい。粒の荒い茶褐色の粉を水で流し込むと、漢方のような独特の味が口いっぱいに広がった。

「よし、じゃあさっさと寝ろ。体力がないと治るもんも治らんからな」

 零夜がきちんと薬を飲んだかどうか確認してから、キヤは野営用の軽い防寒具を投げてよこした。いつでも持って逃げられるように荷物を枕代わりにして、外套を方に掛けて横になる。

 目は瞑ったが、眠る気はあまりなかった。身体だけ休めるつもりで、疲れた脳を回転させる。


 カルムの遠見は当たっていた。零夜は確かに、理仁らしき人物と再会したのだから。「理仁本人であるかは分からない」とカルムは言った。しかし同時にこうも言った。「その人物と零夜とは、強いほだしで繋がっている」……。

 外套の下で右手を握りしめる。この身体と繋がっているのであろう、目には見えないその絆を決して離すまいとするように、手のひらに爪を食い込ませる。

「……理仁を追いかけないと」

 独り言として呟かれた決意に、キヤが深いため息を返した。「お前なあ」と呆れた声を背中に受けながら、零夜は目を瞑ったまま姿勢を変えない。

「追いかけるったって、異端審問官の序列三位以上は神都に常駐してるんだぜ。余所者がそうそう入り込める土地じゃない」

「だったら、朝になったらすぐ追いかけて、神都に帰る前に話を聞く。ちゃんと話をしたら分かるはずなんだ。だってあれは、……あれは絶対に、理仁なんだから」

「……」

「危険だって言うなら、俺一人で行くよ。キヤには迷惑はかけない」

 もう一度、大きなため息。キヤにしてみれば、零夜の行動は無謀そのものだった。


 異端審問官というものは誰にとっても、可能な限り関わりたくない存在だ。異端を捌き、異端の排除のためならどんなことでもするし、どんなことでも出来る権限を与えられている。

 また、社会的強者であることに加え、彼ら自身も比類なき戦闘力を持つと言われている。忌まわしき異端を調伏しなければならないのだ。当然と言えば当然のことだが、あまりに人間離れした力ゆえに、敬意よりも畏怖を抱かれているというのが実情だった。

 それを追いかけて、話をする……昼間のことで、異端審問官直々に「次はない」と警告されているというのに?

「……死にに行くようなもんだな」

 投げ捨てるように言うと、零夜は眉をひそめたまま俯いた。「それでも」と零夜の唇が動く。

「それでも、俺は行くよ」

 零夜の意識には、去り行くリヒト理仁の背中が濃く強く焼き付いていた。零夜の声に振り向きもしない背中。たとえ危険な道だろうと、あの背中を追い続けなければならない。あの深い青色の夢、その向こう側へ消えてしまう前に。二人を繋ぐ絆が切れてしまう前に……。


「だったら、今は身体を休めろ」

 それ以上は否定も肯定もせず、キヤが言った。縫合針の消毒をしているらしく、手元の明かりに時おり鈍色が煌めく。零夜は彼の言葉に従って、今度はちゃんと眠るつもりで目を閉じた。

 どこからか迷い込んだのか、淡い白色に仄光るミトラが天幕の隅を這っている。冷えた夜気が首元を舐め、零夜は外套を口元まで引き上げた。天幕の端で、ミトラは相変わらずぼんやりと、星に似た光をたたえて漂っている。



 夜は更ける。人間たちの喧騒をよそに、いつもと同じ静穏な闇が沈黙を守っている。しかし――その静けさの中に、朝の足音とは異なる気配が忍び寄りつつあった。

 初めにそれに気が付いたのは、草原のミトラたちだった。星々を映し取ったような地上の光たちは、音もたてずに葉陰に隠れ、自身の発する光を最大限に暗く潜めた。

 次に異変に気が付いたのは、青い髪の少女だった。

「カルム……草原がおかしい」

 宿の二階から身を乗り出すようにして、広大な草地を見渡す。普段ならば美しく波打ち飛び交うミトラの光が、草原のどこにも見られなかった。暗い――とても暗い。

 どこかで地響きがした。

「ティエラ、こちらへおいで」

 カルムが手招きをする。ティエラは窓を固く閉め、カルムの元へ駆け寄った。もう一度地響きがする。そして、もう一度。初めは遠雷のようでもあった地響きも、三度目には皮膚に感じるほどの震えになっていた。ティエラが、カルムの腕にしがみつく。


「何か来る」

 短く断言し、カルムはティエラを突き飛ばすようにして離した。「逃げなさい。あれはティエラを目指してやって来ている」

 ほんの数秒の間、ティエラは目を見開いてカルムを見つめ、彼の言葉の意味を考えた。逃げなさい――そして、来たる脅威をこの村の人々から引き離しなさい。それを理解すると、ティエラは無言で外套を羽織り、部屋の外へと飛び出した。数段飛ばしに階段を駆け下りて、裏戸から外へ出る。再び地響きがした。どうやら、山の方から聞こえてきているようだった。


 村から離れる方向へ、ティエラは走り出す。うまやへ行って馬を取ってくる時間すら惜しい。とても良くないものが来る。少しでも遠くへ行かなければ。

 村の外へ通じる水路を辿りながら、背後には目もくれず走る。木柵に絡みついたアカリカズラが、村と草原との境界を橙色に浮かび上がらせている。

 その境界線を飛び越えたのと同時に、凄まじい暴風が村中を駆け抜けた。屋根が飛び、小屋がなぎ倒される。

「あっ!」

 ティエラの身体も風に煽られ、バランスを崩して柵の向こうへ転がり落ちる。

 その時ようやく、ティエラは背後を振り返った。まるで意志を持っているような竜巻が、雄叫びを上げながら夜闇を掻き回していた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る