似た者同士
「レイヤ、それどうした!?」
食堂の隅で硬貨を数えていたキヤが、零夜の傷を見て立ち上がった。
酸に侵食された右耳は赤く爛れ、垂れ下がった表皮を伝って体液が滴り落ちている。
「ミトラが……」
それだけを言って、零夜は入り口から最も近い椅子に、崩れるように座り込んだ。脈動に合わせた痛みは次第に酷くなり、耳だけでなく頭全体を締め付け始める。
アリエが慌てて、奥の部屋から薬用脂を持って来た。キヤもテーブルの上に広げていたものを乱雑に片付け、零夜の隣に座る。
「何だこれ、火傷か? ひでえな。よし、ちょっと我慢しとけ。歯ァ食いしばれ……よっ、と!」
「いってえ!」
ブツッと嫌な音がして、ただでさえ痛む右耳に更なる激痛が走った。垂れ下がっていた皮膚を、キヤが思い切り引っ張って千切ったらしい。透明だった滲出液に血が混じる。
「悪いな。でもこれ取らにゃ治療の邪魔だろ?」
「せめて何するか言ってからにしてくれよ……!」
雑なキヤとは対照的に、アリエは桶に注いだ清潔な水を布に含ませ、火傷が痛まないよう丁寧に洗う。水気を拭き取り薬用脂を塗り込めていくと、どうやら鎮痛効果があるものらしく、痛みは徐々に収まっていった。
「まずったな、レイヤ」
事情を聞いたキヤが顔をしかめる。
「これでますます、この村の奴らは頑なになるだろうな。ま、元々望み薄ではあったが」
「……力になれると思ったんだ」
「ちょっとでも嫌な予感がしたら、即、手を引く。厄介事に巻き込まれないための鉄則だぜ」
しかしなあ、と煙草代わりの香木を噛みながらキヤは続ける。
「ダンニールって野郎は、やけにレイヤに絡むな。そりゃ
「知らない。でも、村の人たちは、ダンニールにすごく気をつかってるみたいだった。機嫌を窺ってるっていうか……怖がってるみたいにも見えた」
「ふーん。つっても、しょぼい地方役人だろ? 何がそんなに……アリエ、何か知ってるか?」
水を捨てて戻ってきたアリエに、キヤが尋ねる。「あのダンニールって役人、よくこの村に来るんだろ?」
アリエは困ったように首をかしげ、横目で店の奥と、店の入り口とを見た。大人が誰もいないことを確認してから、「あのね」と零夜たちに耳打ちする。
「お役人さんたちは、アランジャ族と手を切れって言ってるんです。アランジャの人たちと仲良くすることは、ゼーゲンガルトに対して不誠実だって。畑をやってる人は、お役所の方が作物を高く買い取ってくれるからって、お役人さんたちに賛成なんです。でもアランジャの人と、食べ物とか小間物をやり取りしてる人は、稼ぎ口がなくなっちゃうから……」
「ゼーゲンガルト派とアランジャ派とで、村が真っ二つに分かれてるってわけか。で、ここの宿は?」
「お父さんは、アランジャの人たちにはずっとお世話になってきたんだから、ないがしろには出来ないって」
「ほー。ソーグのおっさん、なかなか見上げた男気だな」
父親を褒められたことで、アリエは嬉しそうにはにかんで、また彼女の仕事に戻った。宿としては閑散としているこの建物も、夜になれば食堂としてそれなりの賑わいを見せる。やるべき仕事はいくらでもあるのだろう。
子供の足が、木の床を歩き回るかすかな気配。食器が重なり合い奏でる音。食材の入った重い籠を動かす、鈍く低い音。普段通りに戻った生活音の中で、零夜はひとり行き場を失っていた。
ただでさえ亀裂の入っている小さな村。それも、今は「異端が出るかもしれない」という不安を抱えている閉鎖空間。そこに零夜という異物が投げ込まれたことにより、村人同士の対立がいっそう濃くなったことは明らかだった。
アランジャ族の使者が連れてきた旅人――零夜への態度をどうするかによって、ゼーゲンガルトとアランジャ族、どちらにつくかが明確になるのだ。
プラド村のあらゆる人々に、考えなしに話しかけたことを後悔した。態度を曖昧にしておきたい人もいただろうに……。
そんな零夜の悔恨を知ってか知らずか、「仕方ねえさ」とキヤが言った。けれど今はどんな慰めの言葉も、余計に傷を痛ませるだけだった。
外回りの仕事から帰ったソーグが、「それどうした?」と零夜の傷を見て言う。ティエラとカルムが帰ってくれば、彼女らも零夜を心配するだろう。それはありがたいこととはいえ、今の零夜には煩わしさの方が
日が沈むまでにはまだ時間がある。キヤは「今日はもう休め」と零夜の肩を叩いたが、零夜はアリエに頼んで薬用脂をいくらか分けてもらい、宿を抜け出した。
プラドの村は水路が多い。升目状に張り巡らされた水路は、村の居住区や農地に豊かな水と涼やかな音をもたらしている。
アリエよりいくらか年上の少年たちが、宿からほど近い水路に入り、何やら作業をしているのが見えた。どうやら、あちこちに堆積した泥や落ち葉を取り除いているようだ。
悩んだすえ、零夜は彼らの方へ堤を下りていった。周囲に大人の姿はない。子供たちならばあるいは……という期待があった。
「こんにちは」
声をかけると、少年たちは一斉に零夜の方を向いた。日焼けした小麦色の肌に、乾いた泥がこびりついている。
「何日か前から、この村に滞在してるんだ。ちょっと話を聞きたいんだけど、良いかな? 水路掃除、手伝うから」
真っ先に返事をしようとした少年の肩を、別の少年が強く引き止めた。何事か耳打ちをしながら、「どうする?」「でも……」と囁き合う。声は水音に紛れてはっきりとは聞こえなかったが、彼らが何を話し合っているのか、零夜にはよく分かった。
きっと彼らも、両親からきつく言われているに違いない。あの旅人には近寄ってはいけない。その理由は聞かされているだろうか? 敵国のスパイかも知れないから……それとも、そんな理由はかえって子供たちの好奇心を刺激してしまうとして、「悪い人だから」とか、そういった抽象的な範囲に留められているだろうか?
あるいは、あの旅人に近付けば異端になってしまうと、そういうふうに言われているだろうか。キヤやティエラは、異端という言葉すら、子供たちの耳に入れるのを嫌がっていた。けれど、誰しもがそうとも限らない。
いずれにせよ、大人たちの言いつけはしっかりと守られた。少年たちは水路掃除の道具を握りしめたまま、水路を駆けていった。
白い波立ちと、恐ろしいものから逃げきったときの興奮した笑い声が、零夜から遠ざかっていく。
(……仕方ないよな)
じわり。薬用脂の下で、右耳の爛れが膿みを吐き出す。零夜は無意識に傷を触ってしまう。いくら痛みが抑えられているとはいえ、接触刺激が与えられるとひりつくような熱さが皮膚を覆った。零夜が再び歩き出したときには、指先を汚した脂はすっかり風に乾いてしまっていた。
少し歩けば、目的地はすぐに見えてきた。シロツメグサは相変わらず心地よさげに風に揺られていたが、ミトラの体液が飛び散った場所だけは、葉も花も同じ黒灰色に煤けていた。
体液の水たまりを避けながら、水路の脇に立つ。ミトラが逃げ込んだときに崩れたのか、堤から土がこぼれて水を濁している。そこから四方を見渡すと、毛細血管のような流れが煌めいて見えた。
ミトラはきっと、村から遠ざかる方向に逃げていっただろう。
太陽を反射して、水路は光そのものを流しているように思えた。魚かミトラが跳ねているのか、こぽん、とぽんと丸っこい音と共に、光の金冠が水路を飾る。そのたびに零夜は足を止め、金冠の中心にいるものを見定めようと、波紋が消えるまでじっと目を凝らした。
水路はあちこちで枝分かれしていた。本流から逸れた細い分流は、あちこちで混じり合ってひとつになったり、それ以上流れることなく停滞し渦巻いたりしている。零夜はあのミトラの大きさを思い出しながら、幅を細めながらも決して途切れない分流を選んで追って行く。
しばらく歩き、煌めきの行き着く先に広がっていたのは、茂みの中にうずくまる溜池だった。
池を取り巻く濃密な緑からは、強い生命力よりも、むしろ死へ邁進し行き詰まった閉塞感が滲み出ている。肩を寄せ合うように密集した低木同士が、
ここだ、と直感する。零夜は辺りを見回し人の影がないことを確認すると、池のそばの窪んでいる箇所に身を滑り込ませた。
「いるんだろ? 大丈夫、俺はなにもしないよ」
どこかで何かが動き、藻に覆われた水面がさざめいた。
「薬を持ってきたんだ。ミトラに効くかは分からないけど……」
水面が大きく盛り上がった。波が零夜の立っている窪地を呑み込み、膝までが深緑色の泥水に洗われる。
池から現れたミトラは触手に覆われた顔面を零夜に向け、敏感な感覚器をうねらせた。音、匂い、空気の流れ。あらゆる情報を統合し、零夜の言葉に嘘がないかを探る。
零夜はどうやら、信頼の第一段階を勝ち取るに至ったようだった。ミトラは池を騒がせながら零夜のそばへ泳いで渡り、幼児の手に似た触手を池の淵にかける。
『おまえはミトラの言葉がわかるといった……ほんとうか』
「本当だよ。だから、話し合いたかったんだ。人間もミトラも、どっちも傷付かずに済む方法。……ごめん。結局、きみに痛い思いをさせただけだった」
零夜が
『あのていど、傷のうちにもはいらない』
「そっか。良かった……って、言って良いのかは分からないけど」
『とてもいたかった。でも、おまえがあやまることじゃない』
ミトラは下半身を池に浸したまま、零夜の足元に身体を横たえた。ゆったりと寛ぐようなその所作を見て、汚れるのも構わずに、零夜はその場に腰を降ろした。尻と背中にぬるい水が染み込み、皮膚を湿らせていく。しかし不思議と不快感はない。村の中にいるよりも、この湿った池の淵に座り込んでいる方が、ずっと居心地が良かった。
「きみは、どうしてあそこにいたの? 巣……えっと、家があったとか?」
『ぼくはねむりたいときに、ねむりたいところでねむる。人間のように、きまった場所で生活をくりかえすことはない』
「じゃあ、どうして……畑を枯らしてまで?」
ミトラの頭部の細かな触手……銀色の髭が、小刻みに震えた。
『約束をまもるため。ぼくは、友達をまっている』
髭の先端を震わせながら、ミトラは
『昔の話。あの場所で、友達と、あう約束をした。しんだ友達もいる。いきている友達もいる。ぼくは約束をまもる。だからあそこでまっている』
「友達に会いたくて、それでずっとあそこにいたの?」
ミトラの頭部がゆっくりと揺れた。零夜の言葉を肯定する頷きだった。
「そっか」窪地にうずくまった零夜が、膝を抱える。「俺と同じだ」
零夜は手を伸ばし、ミトラの肌をそっと撫でた。ミトラは嫌がることなく、されるがままにじっとしている。手触りはまさに人間の肌と同じだったが、池に身を浸しているからか、少し体温が低いようだった。
『おまえも、友達をまっている?』
「待ってるっていうか、探してる……かな。そうだ、何か知らない?」
駄目元で、零夜はミトラに尋ねてみる。自分と同じ年頃の少年を見かけなかったかと。理仁の外見的特徴を伝えると、ミトラは銀色の髭をゆっくりと波打たせた。
『ぼくは目がみえない。においと、魂のかたちしかわからない』
「そうなんだ……魂の形って?」
『まるい魂、とがった魂、いろいろ。おまえは、ぴかぴかひかっている。きれい』
「それ、前も別のミトラに言われたよ」
『それから、へんな形をしている』
「変な形かあ」
零夜が困ったように胸の辺りをさすると、ミトラは全身を細かく震わせた。笑っているようだった。
話しているうちに、風が冷たくなってきた。そろそろ宿に戻らなければ、夕食に間に合わなくなってしまう。立ち上がると、服の端から汚れた水が滴り落ちた。
「きみは、これからどうするの? あの場所には、戻らない方が良いと思うけど……」
『わかってる。もどりたいけど、やめとく。約束はまもりたい。でも、いたいのはいや』
「そっか。じゃあ……さよなら」
『さよなら。おまえの友達、みつかるといいね』
「うん。きみも、友達に会えるといいね」
ミトラは身体を翻し、一度池に潜った。そして頭だけを出して、髭を揺らめかせる。透明な皮膚に藻が引っかかって、緑色のヴェールをかぶっているようだ。
『ぼくの名前は、シュラムフラという』
「シュラムフラ?」
『銀色の波という意味だ。友達がつけてくれた、大切な名前だ。おまえには、おしえてあげる』
銀の波と形容するにはいささか生々しすぎる透明な肉塊は、藻をひっかぶったまま誇らしげに胸を張った。
「シュラムフラ……良い名前だね。俺は、零夜っていうんだ」
『レイヤ……レイヤ、さようなら。話せてよかった』
そして
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