ほころび(2/2)
味方の一切いない状態ではあるが、首を突っ込んだ以上は最後までやり遂げなければならない。接収地に居座り、追い出そうとすると畑を枯らす迷惑なミトラ。
背中に突き刺さる視線は気にしないようにして、零夜は意を決し交渉を開始する。
「こんにちは。そこにいるんだよね」
地中に潜っているのであろうミトラに話しかける。零夜の背後から、「馬鹿か、お前は」と嘲笑を含んだ声が飛んだ。
「ミトラに話しかけて、どうなるっていうんだ。頭がおかしいのか?」
さすがにカチンときて、零夜は振り返った。ミトラと会話が出来るということは、特にダンニールには隠しておかなければならない。しかしだからといって、馬鹿にされるままでは気分が悪い。
「こうして話しかけたら、ミトラが落ち着くんだ」
「ふん。まあいい、続けろ」
まだ二、三句言い返してやりたい気持ちもあったが、取り敢えずは目の前のことに集中すべきだ。気を取り直して、零夜は再び小山に向き直った。すると、土の下で何かが動く気配がした。
「そこにいる?」
――いる。確かに何かがいる。確信を持って、零夜はもう一歩前に出た。その時、突然地面が盛り上がり、細く白い手が何本も飛び出して零夜の足首に巻き付いた。
「ひっ!」
思わず情けない声が出る。
近付くと地面から手を出して、足を掴んでくる。事前にジルバートから聞いていなければ、悲鳴を上げて腰を抜かしてしまっていたかもしれない。早鐘を打つ心臓が落ち着くまで待って、零夜はかがみこみ、背後の男たちに聞こえないよう小声で囁いた。
「きみに危害を加えに来たわけじゃない。ただ、話がしたいんだ。ここで何をしてるの? 話してみて。俺には、分かるから」
話し掛けてくる人間など、これまで誰ひとりとしていなかっただろう。白く細い手は戸惑うように筋肉をひくつかせながらも、零夜の足首を離そうとはしない。
零夜はその手をよく観察する。人間の子供の手を、極端に薄く細長く引き伸ばしたような形をしている。体毛はないが、いぼのような小さな突起がまばらに分布している。色は白く、わずかに透き通っていて、寒い冬に曇った窓ガラスのようだ。
「どうしてここを離れたくないのか、教えてくれないかな」
返答はなかった。手はただ黙って足首を掴んだまま、零夜の出方を窺っている。
「このままだと、殺されるかも知れないんだよ」
零夜は根気強く、ミトラに話しかけ続ける。
「畑を枯らされたって構わないって人がいるんだ。きみを殺してどかすつもりなんだよ。何か話してくれたら、きっと力になれるから……」
半透明の白い手が、ぶるぶると震えた。それが恐怖によるものなのか、怒りによるものなのかは判別がつかない。しかし、とにかく零夜の言葉を受けて、何か考えていることは明白だった。もうひと押しだ。零夜は慎重に言葉を選ぶ。
「ここを離れたくない、理由だけでも教えてくれないかな。俺から、あの人たちに説明するから。俺に出来ることがあれば、協力するから」
かすかな、空気の震えがあった。ミトラの本体は地下に留まったまま、表に出ているのは細い手のみだ。それでも、言葉を紡ぐ前に口から漏れる、発声の気配のようなものが確かにあった。それをかき消してしまわないように、零夜は傾聴の姿勢を取る。
しかし、どうにも邪魔が入った。それはやはり、ダンニールだった。
「無理なら無理と、正直に言ったらどうだ? ぼそぼそと独り言ばかり言って、ミトラ学ってのは気狂いの修める学問なのか?」
ミトラのささやかな気配を踏み荒らしながら、ダンニールはかがむ零夜の隣に立った。そしてあろうことか、零夜の足を掴んでいた白い手を、革靴の先で踏み蹴散らした。途端、地中から鋭い威嚇音が発せられる。
「何するんだ!」
零夜は憤慨してダンニールに食いかかるが、ダンニールはそれを軽くあしらい、腰に
役人という肩書きゆえだろうか、零夜はダンニールに対して、戦闘慣れしていないような印象を抱いていた。しかしそのイメージに反して、ダンニールは実に鮮やかに長剣を操る。怒り狂ってダンニールを襲うミトラの手は、次々と両断されていく。
肉体が切断されるたびに、ミトラは細い悲鳴と恨み言とを地上に吐き捨て、反撃を試みる。しかしダンニールはその白い手に、服の裾を掴ませることすらなかった。
ミトラの切れ端と体液とが混じり合い、花びらのように美しく舞う。零夜は、しばしその光景に見とれていた。しかしすぐに我に返り、「やめろ!」とダンニールに掴みかかった。ダンニールはうるさそうに、再び零夜を振り払った。そして素早く地面に視線を走らせ、わずかな土の動きを見るや、その場所に長剣を突き立てた。
胴体を貫かれたミトラは、甲高い悲鳴を上げる。誰の耳にもはっきりと聞こえる、錆びついた金属のような声だった。
「あ、畑が……!」
ジルバートが指差した先で、つい先程まで若い穂をたわわに実らせていた穀物が、みるみる土気色に変色しつつあった。ミトラの反撃は、更にその隣の畑にも及ぶ。その光景を見て、ダンニールの眉間に深い皺が刻まれた。
「僕の管轄地を荒らすとどうなるか、その身をもって思い知れ!」
叫ぶように言って、ダンニールは再び、長剣を大地に深く突き刺した。二度目の悲鳴が上がり、土と草の間から体液が吹き出した。生暖かい黄土色の液体は、ダンニールのズボンにまだらの染みを描いていく。
『いたい……いたい! いたいぃい!』
激痛に悶えたミトラが、身を千切って凶刃より逃れながら、土の表層を振り飛ばした。青々とした下草は根ごとほじくり返され、土と共に宙を舞う。覆うものが何もなくなり、地中に潜んでいたミトラの本体が遂にあらわとなる。零夜の背後で、ジルバートが「うっ」と軽くえずいた。
半透明の肉から、ミトラの内臓が透けて見えている。生々しい肉の色をした臓器は、与えられた痛みからか、不規則な動きで痙攣している。透明な皮膚にはぶつぶつと細かなイボが無数にあり、そのひとつひとつが呼吸をするように、蕾を閉じたり開いたりしていた。そしてその動きに合わせ、身体をぬめらせる体液が、ぷくぷくと小さく泡立っていた。
その身体のどこにも目玉はなく、ストローのような筒状の突起物が何本も寄り集まり、顔面らしき部分を隠している。突起物の頂点もびっしりとイボで覆われており、それらをせわしなくうねらせることによって、周囲の情報を探っているようだった。
ようやく露見した本体――その醜悪な肉の塊にとどめを刺さんと、ダンニールが刃を振り上げた。彼の凶行を止めようと零夜が手を伸ばすのと、ミトラの全身の蕾から体液が噴射されるのと、ほぼ同時だった。その体液は、切断面から噴出した黄土色のものとは全く異なる、無色透明の液体だった。
零夜は咄嗟に目をかばう。その判断は正解で、霧状の体液を浴びた腕と耳に激しい熱が走った。
「酸だ!」ダンニールが叫んだ。「水を! 早く!」
まずはダンニールに、遅れて零夜に、冷たい水がかけられた。頭上から浴びせられる水を手のひらに受け、零夜は痛む皮膚を洗い流す。ダンニールも同じように酸を洗い流しながら、口汚くミトラを罵った。
「くそ……くそ、あの醜い化け物め!」
ダンニールは右肩に大量の体液を浴びたらしい。衣服を溶かしてその下の素肌までが、赤く痛々しく爛れている。
水はどうやら、ジルバートのイマジアであるようだった。ジルバートが耕作用の木桶を掴むと、桶はすぐに水で満たされた。
イマジアによる清潔な水は、ほとんどダンニールのためだけに用意された。実際、ダンニールの方が零夜よりもずっと重症だった。上手く治すことが出来なければ、あるいは痕が残るかも知れない。零夜が軽く浴びただけで済んだのは、いくらか距離があったためか、あるいはミトラが加減したためだろうか。
怪我の程度を確かめようと痛む耳輪に触れると、薄く柔らかいものが指先に付着した。それは爛れて剥がれた耳の皮膚だった。
混乱に乗じて、ミトラは近くの水路に逃げ込んだらしい。大きな水音と共に、水路が波打つ。
「ま、待って!」
引き留めて、何を言うつもりだったのか、零夜にも分からない。しかしいずれにせよ、泥で濁った水の中に、もはや零夜の声は届かなかった。
小さくため息をつくと、それを咎めるようにダンニールが零夜を睨んだ。痛みのためか、薄い唇の端が引きつるように震える。
何か嫌味のひとつでも飛び出すか、もしくは怪我の責任を零夜に押し付けるかと思われたが、ダンニールは忌々しげな視線を投げたきり、何も言わなかった。
「村へ戻って治療をしましょう。さあ……」
ジルバートとその取り巻きたちは、大げさにダンニールの両脇を支える。村へと戻る道を行く前に、侮蔑の目を零夜に向けることも忘れない。零夜は痛みをこらえる表情のまま彼らを見送った。
鼓動に合わせて、右耳がじくじくと痛む。けれど、あのミトラを貫いた長剣の傷は、こんな痛みでは済まないだろう。痛む部分に手をやると、透明な滲出液が指を汚した。
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