海淵の呼び声


 傾いた日が、二人の影を長くアスファルトに伸ばす。気温も風の匂いも、ここ数日の変容は著しい。夜間も気温が下がらなくなり、肌に張り付くような湿度の高い夏が訪れつつある。


「カズちゃん、元気そうでよかった」

 バス停へと続く坂を下りながら、理仁が呟くように言う。

「うん。もうすぐ一時退院だし、嬉しいんだろうな」

「なあ、カズちゃんの病気って……」

 理仁が言わんとしていることは、容易に予測できた。美和はいったい何の病気なのか。担当医師である理仁の父親も、看護師も、それを尋ねると皆一様に言葉を濁した。零夜が父親にしつこく問いただすと、答えの代わりに拳が返ってきた。母親は、力なく笑いながら「ごめんね」を繰り返すばかりだった。


「ごめん」

 押し黙った零夜を気づかってか、理仁が謝る。言ってしまえば他人である理仁とは違い、両親が離婚し別居をしているとはいえ、零夜は間違いなく美和の肉親のはずだ。その零夜が妹の病気について何も知らされていないという状況のつらさを、理仁なりに推し量ったのだろう。

「あ、そうだ。美和が退院したら、またアレ行こうぜ。えーと、ケーキバイキング」

 その優しさが嬉しくて、零夜は不器用に話題を変える。

「ああ、前に行った時、カズちゃん太る太るって言いながらいっぱい食べてたよな」

 理仁も、いつもの調子で明るく返す。下り坂の向こうで、夕日が赤く燃えている。



「……ん?」

 ふいに、理仁が振り返った。不思議そうに周囲を見回す。

「どうした?」

「いや、今……ほら、何か聞こえた」

 促され、零夜も耳を澄ませる。しかし、気の早い夜虫の鳴き声と、風がざわめかせた木々の葉擦れしか聞こえない。何の変哲もない、初夏の夕暮れにありふれた音たち。

「ほら、また。聞いたことあるな、これ。何だっけ」

 少し考え込んだあとで、理仁は「あ、」と声を漏らした。

「前に授業で見たドキュメンタリーでさ、クジラの歌ってあったじゃん」

 零夜の背筋を、冷たいものが這い上がった。意識の隅に追いやっていた、昨晩の悪夢が蘇る。クジラの歌。青の中に、高く物悲しく響いていた、破滅の音。


 どうやら理仁の耳にだけ届いているらしい、その音の出どころを探るように、理仁は目を細めた。赤い光に染められたその姿に昨晩見た男の面影が重なり、零夜は思わず彼の腕を掴んだ。

「どうした? 零夜、顔色が……」

 心配そうに零夜の顔を覗き込む理仁の動きが、ぴたりと止まった。視線は足元へと落ち、その面持ちは硬く強張こわばっている。つられて零夜も足元を見るが、特に変わった点は見当たらない。昼間の熱を含んだ、ぬるいアスファルトがあるだけだ。

「……クジラの歌」

 理仁が呟いた。

「真下に、いる」



 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、それは現れた。

 黒い――いや、よく見れば深い深い青色をした不定形の何かが、二人の背丈よりも高く伸び上がる。零夜も理仁も、声もなく、ただ凍り付いた。赤い夕日と青い何かの奇妙なコントラストが、目の前の出来事から現実感を奪い去っていた。

 青黒いどろりとした柱は、排水口に吸い込まれる水流のように渦を描きながら寄り集まり、ひとつの大きな塊になっていく。


 先に行動を起こしたのは、理仁だった。

「零夜、逃げるぞ!」

 その声で、金縛りにあったように固まっていた零夜の身体に感覚が戻る。走りだした理仁に続き、大きく足を踏みだした。

 脱兎のごとく坂道を駆け下りる二人を、青いどろどろは、まるで意思を持っているかのようにまっしぐらに追い掛けてくる。それはひとかたまりになったり、また無数に分裂したりを繰り返しながら、逃げる二人の背に、音もなく手を伸ばす。

 どれくらい迫っているのか、振り向いて確認している余裕はない。目が痛くなるほどの赤い夕焼けを真正面に浴びながら、二人は一心不乱に走った。しかし――



 理仁が、ガクンと前につんのめった。遅れて足を止めた零夜に、肩で息をしながら、戸惑ったような視線を向ける。「どうしよう」と、理仁の目が訴え掛けている。その足に、腰に、アスファルトから現れた真っ黒な腕が巻き付いて、理仁の自由を奪っていた。

「理仁!」

 理仁に絡みつく戒めを引き剥がそうと、零夜は慌てて手を伸ばした。しかし、指先は宙を滑る。焦りのせいではない。理仁の自由を奪う黒い腕は間違いなくそこに存在するのに、どうしても掴むことができない。

「何だよ、何なんだよこれ!」

 なかばパニックに陥りながら、零夜は何度も何度も、黒い腕を引っ掻いた。それは「影のような」ではなく、まさしく影そのものだった。物体の表面にしか存在しないものを掴むことなど、到底できるはずもない。


 実態のない黒と格闘しているうちに、青黒いどろどろは緩慢な動きで二人に迫る。

「零夜、逃げ――」

 絞り出すように発された理仁の言葉は、頭上からどぶりと覆いかぶさった青い粘液に阻まれた。頭から理仁の全身を、そして零夜の両腕を飲み込んだそれはやけに生ぬるく、零夜の胸に吐き気が込み上げる。

 鼓動を打つように痙攣しながら、青は零夜の腕から頭部に仮足を伸ばし、やがては足先まで包みこんだ。零夜はもはや指一本、まぶたや唇すらも動かせない。呼吸もままならず、次第に息苦しさが増していく。

 幸いにも、両手は理仁の腕を掴んだまま固定されている。理仁は、まだそこにいる。しかし零夜より早く全身を飲み込まれたせいか、すでに意識はないようだった。焦点の合わない両眼が、力なく虚空を見つめている。


(理仁、しっかりしろ! 理仁――……)

 声にならない言葉は脳内で反響し、次第に朦朧とぼやける意識へ溶け込んでいく。

 どろりと不快な感覚があり、粘液が口から体内へ侵入してきたことが分かった。もはやえずくことすら許されず、零夜はなすすべなく青に蹂躙される。



 ――苦しさの中、零夜の目の前に誰かが現れた。

 少女。零夜より背の低い少女が、恨めしげな表情で、零夜をじっと睨んでいる。肌さえ青く見えるほどの青の中、少女の瞳だけが、深い深い緑色だった。

 頭の中に、自分のものではない声が響く。


『おまえは、いらない』


 同時に、腹部に焼けるような痛みが走り――零夜は今度こそ、完全に意識を手放した。

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