第一章
異世界転移編
初夏の日常
「お、どうした。寝不足か?」
からかいと気づかいとを半分ずつ含んだ声が、頭上から降ってくる。
視線の先には、幼馴染みである
「ありゃ、マジで寝不足か。また親父さん?」
零夜の前の席に鞄を置き、理仁は眉をひそめながら言う。「いや、ゲーム」と嘘をつくと、理仁は「ゲームかよ」と苦笑った。
理仁は、真糸家の家庭事情をよく知っている。零夜が小学生のころから、両親の仲は良好とは言い難かった。修復不可能なほど決裂し、ようやく離婚届に判が押されたのが一年前のことだ。それからというものの、零夜の父親はたびたび泥酔して帰宅し、仕事や生活の愚痴をぶちまけるためだけに深夜に息子を叩き起こした。
「ま、やばかったら言えよな。そうだ、またうちに泊まりに来いよ。母さんも喜ぶし」
「ほんとに大丈夫だって。ありがとな」
零夜が努めて明るく笑うと、理仁はそれ以上、追求しようとはしなかった。零夜を気づかいながらも、零夜の「なんてことないふり」に付き合ってくれる。零夜には、それが何よりもありがたかった。
とはいえ今日ばかりは本当に、理仁の考えているような理由ではない。昨晩は父親に叩き起こされたことには違いないが、それは零夜がベッドの中で絶叫していたためだった。父親に揺り起こされ、悪夢が悪夢であることを知った零夜は子供のように泣きじゃくり、さしもの父親も、しばらく零夜の背中を撫でさすっていた。
昨晩のことは、思い出したくもない。トイレでしこたま嘔吐したあとで、胃液と脂汗を流すために向かった洗面台で、
来週末のテストの話をする理仁の横顔を、零夜は憂鬱な気持ちで盗み見た。親友が溶け死ぬ夢を見たという、罪悪感のような後ろめたさのような、肌触りの悪いどろりとした気分が、零夜の心を重たく沈めていく。
いったい、どうしてあんな夢を。どんなに考えても分かることではなかったが、考えずにはいられない。
「でさ、せっかくテスト期間で授業早く終わるんだし、カズちゃんとこ、お見舞いに行こうと思うんだけど」
ぼやけた思考に妹の名前が入り込み、零夜はようやく会話に意識を集中させる。
「ああ、喜ぶと思う。でもお前が来るときは教えろって言われてるから、サプライズはナシな」
「何で?」
「オシャレするんだってさ」
恋人の可愛らしい気づかいに、理仁は照れたように笑う。
「今さらオシャレも何もないだろって言ったら、怒られたよ」
「そりゃそうだろ。お前は乙女心が分かってないな」
「だって、もう何年の付き合いになると思ってるんだよ。やっぱり今さらだろ」
「恋人として付き合い始めてからは、まだ半年だろ。そっちカウントなんだよ」
分かるような分からないような理屈に、零夜は「ふーん」と適当な声を返す。
妹と親友が付き合うというのは、どうにも気恥ずかしい。居心地の悪さがないといえば嘘になるが、理仁からは「俺のカッコ悪いとことか、チクるなよな」と釘を刺され、妹からは「私のずぼらなとことか、絶対言わないでよね」と念を押される板挟みにも、ようやく慣れてきた。
「カズちゃん、次の検査はいつだっけ」
「来月だよ。割りと調子は良いみたいで、今度こそ退院できるかもってさ」
「そっか」
理仁は、不安とも喜びともつかない表情を口の端に浮かべた。
零夜の妹――
高く間延びしたチャイムが鳴り、教室の混沌としたざわめきが収束していく。理仁も「じゃあ後でな」と零夜に一声掛け、自身の机に向かう。その背中をぼんやりと眺めながら、零夜は改めて昨晩の夢を思い返す。
狂気にも似た使命感に駆り立てられ、他者から憎悪の視線を向けられていたあの男は、理仁とは違う。零夜は、頭の中でそう断言する。
目の前で人間が苦しみ泣き叫んでも、心を痛めこそすれ、眉ひとつ動かさなかった男。氷の彫像のように凛と佇んでいた、残酷な男。あれが、目の前の理仁と同一人物であるはずがない。
そう思い込んでしまえば、あれは所詮、夢に過ぎないのだと安心できた。あれは夢だ。ただの夢。あんなのは、理仁じゃない。
普段は退屈で仕方のないホームルームさえもが、その無意味さをもって悪夢の余韻を希釈してくれるようで、零夜の気分を落ち着かせた。日は温かく、風は穏やかで、空は抜けるように青い。ただの「日常」こそが、今の零夜に何よりも必要なものだった。
頬をくすぐる夏風にあてられて、理仁が小さくくしゃみをする。それを見て先ほどの会話を思い出し、零夜は机の下でスマートフォンの会話アプリを開く。
『今日そっちいく。リヒトも一緒』
短いメッセージを送ってからほどなくして、返信があったことを示すアイコンが画面はじにポコンと浮かんだ。やったー! と喜ぶウサギのスタンプが、可愛らしいハートを飛ばしながら踊っている。零夜は少し顔を綻ばせてから、怪しい行動が教師にバレないうちにと、素早くスマートフォンを鞄にしまった。
街の中心からバスで三十分ほど揺られると、その建物は姿を現わす。関東地方のなだらかな山々に背を守られるようにして、アスクレピオス医療センターは、白い巨人のようにどっしりと構えている。
医療の神の名を冠するこの機関が、最先端の臨床技術が集束する場として一躍有名になったのは、二十年前のことだ。
悪性腫瘍の発見に特化した医療AIが開発され、正確な自動診断により、どんな腫瘍も最初期のうちに見付けだすとして世間を驚かせた。また同時期に、腫瘍標的性の高い新薬が付属研究所で開発された。これにより、副作用の極めて少ない薬物治療が実現したのだ。
今では腫瘍だけでなく遺伝病の治療にも積極的に乗り出し、世界中の優秀な技術と頭脳が、ここアスクレピオス医療センターに集結している。
とはいえ零夜と理仁にとっては、ここはそんな大層な施設というより、馴染み深い昔ながらの場所といったほうが正しい。
零夜の父親は、アスクレピオス財団に所属する製薬系の研究者であり、理仁の父親は医療センターで医師をしている。零夜と理仁、そして美和が幼馴染として縁を結ぶことになったのも、双方の父親が医療センターへの赴任に伴いこの地へ居を移したことに端を発している。そういった意味で、ここは二人のルーツとなる場所だった。
幼い零夜は父親の仕事が終わるのを待ちながら、建物のそばにある広場で一人遊んだものだった。右目にある濃い痣のために不気味がられ、周囲に馴染めなかった零夜は、一人で暇を潰すことには慣れていた。そこに声を掛けてきたのが理仁で、二人はすぐに打ち解け、そこから家族ぐるみの付き合いが始まったのだ。
妹を
(変わらないな、ここは……)
年数を経て、汚れの目立ち始めた白い壁が零夜を迎える。蛇を模した飾りの付いたアーチをくぐると、すぐ目の前が正面玄関だ。
アスクレピオス医療センターは、かなり凝った建築をしている。病院というより宮殿を彷彿とさせる欧風の建築様式で、建物の写真を撮るためだけにここを訪れる者も少なくない。
正面玄関の自動ドアを抜けると、適切に管理された清潔な風が二人の頬を撫でた。総合案内所で面会受付を済ませ、通い慣れた病室へと向かう。三階へ上がり、エレベーターホールから左にまっすぐ。つきあたりの個室が、零夜の妹――美和の部屋だ。「
白い病室は、細く差し込んだ西日に明るく暖められていた。サイドテーブルに置かれた小さな木箱から、オルゴールの澄んだ音色が溢れ出している。ブラームスの『子守歌』だ。
「お兄ちゃん、理仁くん! いらっしゃい!」
窓の逆光が浮かび立たせたシルエットの中で、美和はくしゃりと破顔した。
「外、暑かった?」
美和の問い掛けに「そうでもないよ」と理仁が答える。
「カズちゃんは身体の調子、どう?」
「調子良いよ。そうだ、見て見て! ようやく作り終わったんだ!」
美和はサイドテーブルの引き出しから、折り紙で作った小箱を取り出す。その中から美和が手にとってみせたのは、色とりどりの糸で編んだミサンガだ。
「こっちが私ので」ピンク色のミサンガ。「こっちが理仁くんの」青のミサンガ。「これがお兄ちゃんのね」赤のミサンガを差し出され、零夜は「俺はいいよ」と首を横に振る。
「何で、せっかく作ったのに」
美和は丸い頬を膨らませた。歳の割りに妙に幼い仕草は、兄と恋人の前で甘えているためだろうか。「俺が貰っちゃうと、俺と理仁がおそろいのミサンガ持ってるみたいになるだろ」と苦笑すると、美和はさらに口を尖らせる。
「いいじゃん。友達同士でおそろいって、よくあるでしょ?」
「女の子は、そうかもしれないけどさ……」
助けを求める視線を理仁に向けると、理仁はいたずらっぽくニヤリと笑った。恐らく普段から、美和のこういう甘え方に振り回されているのだろう。この状況を楽しんでいるようだ。
「まあまあカズちゃん、お兄ちゃんは思春期なんだから」
含み笑いのフォローに、零夜は「誰が思春期だ」と不機嫌につっこむ。美和はそれでも兄にミサンガを受け取ってほしいようで、しばらく説得を試みていたが、「じゃあこっちも俺が貰っていい?」と赤いミサンガが理仁の腕につけられ、理仁の大きな手に撫でられると、すっかりおとなしくなった。
オルゴールのか細い旋律が流れる中「しょうがないなあ」と笑う妹の輪郭が、白いカーテン越しの光を浴びて、やけにぼやけて見えた。
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