青い、青い深海の夢
視界いっぱいに、青い光が広がっていた。
これは夢だ。と気が付いたのは、壁に映る自分の姿を捉えたためだった。よく見渡せば、壁だけでなく床や柱までもが冷たく透けた水晶で造られている。そこに映った自分は、自分ではなかった。
(
見慣れた友が、青い水晶の表面に立ち尽くしている。その姿は親友そのものだが、それゆえ片目に着けた黒い眼帯が、異物として際立って見えた。あらわになっている目も
疲れた――とても疲れた顔をしている。
誰も来ない。誰もここに辿り着けない。来ないはずだ。来ないでほしい……いや、来てほしい……誰でもいいから、誰か……。
相反する感情が入り乱れ、彼は混乱していた。しかし、自分が混乱していることに、理仁自身は気が付いていないようだった。
表面的には極めて冷静に、彼は階段を上りきる。そこにあるのは、見上げるほどに大きな両開きの扉だ。周りの水晶同様に青く仄光ってはいるが、扉は重厚な金属からできており、向こう側は見通せなかった。
この向こうに――何があるんだ? と、零夜は思う。
この向こうに――彼女が居る。と、彼は思う。
「リヒト!」
少女の声が反響した。振り向くと、ホールを挟んだ向かいに、金髪の少女が息を切らせていた。それに続くように、褐色肌の男が一人、青色の中に飛び込んでくる。
「リヒト、あいつはどこ?」
少女は努めて平静を装っているふうに、凄みの効いた声色で問う。
「この扉の先だ。あの人は、俺に行けと言ったが……断ったよ」
零夜の意思を伴わずに、その言葉は唇から流れ出た。「俺には、できないかもしれないから」
「なぜできないの? 本当は分かっているからでしょう。こんなの間違ってるって」
「違う! 俺の甘えたエゴに、彼女を付き合わせるわけにはいかないからだ。この世界は……」
右手が腰に伸び細剣を抜く。本来は銀色なのだろうそれは、ホールの青を反射し、サファイアの輝きを放っている。
「この世界は、終わるべきだ」
独り言のように呟くと、零夜は――リヒトは、細剣の切っ先を床へ突き刺した。硬いクリスタルの床はたちまち形を変化させ、無数の六角柱の結晶が互いにぶつかり合い、呑み込み合いながら増殖する。
「待って! リヒト!」
金髪の少女が、階段を駆け上がろうと走りだす。しかし結晶の伸張はそれよりも速く、少女とリヒトとを分断した。青い透明な障壁を、少女は何かを叫びながら必死に叩く。しかしその声はおろか、拳を打ち付けるわずかな振動すらリヒトには届かない。
その時、高く物悲しげな音がホールに響いた。泣いているような、歌っているような声は、青いホールに何重にも反響し、リヒトの身を震わせる。
(クジラの歌だ……)
それはリヒトではなく、零夜の思考だった。いつかテレビで見たことがある。クジラが相互コミュニケーションを取るために発する歌声だ。その旋律は、どうやら障壁の向こう側にも響いているようだった。金髪の少女も連れの男も、同時に動きを止め、宙を見上げた。
「そうか、終わったんだな……」
リヒトの手から、銀の剣がこぼれ落ちた。澄んだ金属音がクジラの歌と重なり合い、奇妙なハーモニーを奏でる。歌は徐々に強く大きく響き、共鳴するように床が、壁が、小刻みな振動を始める。
弾けるような音と共に、青い壁にひとすじ深い亀裂が走った。それを皮切りに、ホールのあちこちがひび割れ、剥がれ、砕け始める。そして崩壊はホールだけに留まらず……
「――――!」
障壁の向こう側で、男が地に伏し悶え始めた。恐らく悲鳴を上げているのだろうが、その声はこちら側には届かない。男の右肩から胸部にかけて、象牙色をした
その凄惨な光景に、零夜は強烈な嫌悪感と吐き気を催す。しかし当事者であるはずのリヒトは眉ひとつ動かさず、その光景を冷淡に見つめていた。
金髪の少女が、苦悶する男性に駆け寄り、彼の
(理仁。お前、いったい、何をしたんだ? 何があったんだ?)
これは夢だと分かってはいるが、ただの夢だと割り切ってしまえない自分がいた。現実での理仁は、他者から憎悪の視線を向けられるような人間ではない。そして恐らくそれは、夢の中の「リヒト」も同じだ。その証拠に、このリヒトはひどく傷付いている。
リヒトの中にいる零夜には、彼の感情がダイレクトに伝播してくる。無感情を装いながらも、リヒトの心は、自己嫌悪や罪悪感でズタズタに切り裂かれ、血を流している。
しかし、だからこそ、それらの重苦しい感情を束にしてなお及ばない強い決意がリヒトを突き動かしていることも、零夜にはよく理解できた。
崩壊は勢いを増し、建物の軋む音に掻き消されまいとしているように、クジラの歌もいっそう高く響く。透き通っていた水晶の障壁にも細かなひびが走り、もはや向こう側の様子は伺い知れない。
リヒトはきびすを返し、再び金属の扉に向かった。亀裂こそ入っていないものの、強固だったはずの扉は飴細工のように歪んでしまっている。それに触れようと伸ばした右手の甲に……豆粒大の瘤がぷくりと膨れた。
「う、うっあああ……!」
瘤が弾けると共に激痛が走り、リヒトは両膝をついた。瘤は破裂と増殖とを繰り返し、見る間に右腕を覆い尽くしていく。神経を突き刺す痛みと肉体が侵される生理的嫌悪感に、リヒトだけでなく彼の内側にいる零夜も、絶叫を抑えられなかった。
取り繕う余裕などあるはずもなく、本能的な咆哮を喉から溢れさせながら、リヒトは溶け落ちていく。のたうちながら扉にもたれ掛かると、腕だったはずのものは豆腐のように潰れ、千切れた断片が金属の表面に付着する。
(理仁、理仁……どうして……)
人としての形を失いながらも、リヒトは満たされていた。これで良い、これが正しい結末なのだと、偽りなく満足していた。
ひび割れた水晶の壁に、醜く
すでに全身に感覚はなく、リヒトが正気かどうかも、零夜には判別がつかない。美しく青い壁に映った、かつてリヒトという一人の青年だった不定形のものは――かすかに、微笑んでいるように思えた。
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