夢に囁く声
ベッドに横になったまま、零夜は天井の木目をぼんやりと見つめる。波打ちながら流れ、ときに丸く年輪を描く茶色、薄い茶色、黒に近い焦げ茶。伸びては繋がり、また離れては枝分かれする流線。この村の水路のようだ。
いつになく疲れていた。そのほとんどが気疲れであることは疑いようもない。夜になって零夜の負傷を知り、零夜よりも憤慨したのはティエラだった。怪我の心配とダンニールに対する怒りとでは、彼女の中では後者の方が勝っていただろう。その勢いに当てられて、零夜はすっかり疲弊してしまった。
心配してもらえることも、自分のことのように怒ってくれることも、ありがたいことではあるのだろう。ティエラも、宿の子供たちも、ソーグやキヤも、皆が零夜を気づかってくれる。しかし今の零夜にとっては、そのどれもが負担だった。そして負担に思ってしまう自分の身勝手さが、また零夜の心を苛むのだった。
軽く溜め息をつき、目を閉じた。意識が聴覚に集中する。
今夜は少し風が強いのか、窓の木枠がかすかに音を立てる。調理場の手伝いをしながらじゃれ合っているのか、アリエとスジュの笑い声が遠くから響く。それにかぶせるようにして、子供たちを諌めるようなソーグの大声。もう夜遅いのだから、やるべきことを済ませて早く寝ろとでも言われているのだろう。「はーい」と元気な返事だけが、やけにはっきりと耳に届く。
「おう、おやすみ」
階下から、キヤのくぐもった声が聞こえてくる。階段を登る規則的な音。そんな必要はないのにもかかわらず、零夜は部屋のドアに背を向けて寝たふりを決め込んだ。あまり、人と話す気分にはなれなかった。
部屋のドアが開く。「なんだ、もう寝てんのか」と言うキヤの声にホッとした途端「なんてな! 騙されるか!」と脇腹を突っつかれ、零夜は情けない声を上げた。
「俺を騙そうなんざ百年はえーんだよ!」
けらけら笑いながら、キヤは荷物の中から携帯瓶を取り出す。今日はここで晩酌をするつもりらしい。零夜は狸寝入りの気まずさがありながらも開き直り、「何で分かるんだよ……」とぼやいた。キヤはそれには答えず、透明な酒の入ったコップを零夜に差し出す。零夜がそれを断ると、キヤはコップの中身を一息に飲み干した。
「災難だったな、今日は」
やはり、今日のことが話題に上らないわけがない。零夜は少しうんざりした気持ちで頷いた。正直に言って、今日の一件で零夜に落ち度はほとんどない。あえて責めるべき点を探すとしたら、厄介事に首を突っ込んだというその一点のみだった。
期待があったのだ。アランジャ族の営地でやっていたように、人とミトラの軋轢を解消できれば……せめて人とミトラの間で緩衝材のような役割ができれば、ここプラド村でも、零夜という存在は認めてもらえるのではないか。甘すぎる考えだった。
「お前はよくやってるさ」
果実のようにまろやかな匂いが部屋を漂う。キヤの飲んでいる酒は随分強いものらしく、褐色の頬がわずかに上気している。
「傷の具合はどうだ? 一晩経って熱が出ないようなら、訓練再開だな」
「いけると思う。もう全然痛くないし」
前向きな返答に、キヤは満足げに笑った。キヤの戦闘訓練はかなり厳しいものだったが、少なくとも「何かしている」という実感を零夜に与えてくれた。どうしようもない現実に鬱々と悩んでいるよりも、ずっと進歩的で健全で、零夜の気持ちは救われる。
「……俺、もう寝る。おやすみ」
「おう、おやすみ」
ベッドサイドの鉱石灯を消し、零夜は再び壁に向かって横になる。零夜に気をつかってか、テーブルの上のロウソクも吹き消された気配がした。闇に包まれた部屋の中で、零夜はさっさと寝付いてしまおうと、意識して呼吸を整えた。
しかしその努力も無駄に終わり、結局キヤが晩酌を終えてベッドに入るまで、零夜は無意味に目を瞑っていただけとなった。キヤは恐らく、零夜が寝付けていないことに気が付いていただろう。声をかけずにいてくれたのは、彼なりの優しさだったのかもしれない。
キヤは実に素早く眠りについた。さっさと寝息を立て始めた彼の静かな呼吸音が、不必要な焦りを掻き立てる。何度か、寝返りをうった。固いマットレスには慣れたはずだが、居心地が悪かった。掛け布団の下でもぞもぞと身体をよじり、無理矢理に身体を落ち着かせようとする。
余計なことを考えないように、零夜は古典的手法ながら羊を数えることにした。
羊が一匹、羊が二匹。零夜の頭の中で、鈴のついた首輪をした仔羊が柵を飛び越える。羊が三匹、羊が四匹。そのつぶらな黒い眼を零夜に向けて、じっと、ただじっと零夜を見ている。あの羊たちは、一体どこから来たのだろう。羊が五匹。羊が六匹……。羊が……真っ白で小さな仔羊が……。
羊を数えたおかげなのか、それとも単なる時間経過の恩恵なのか、零夜はいつの間にか、浅い眠りの中にいた。
自分を呼ぶ声が何度か聞こえた気がして、零夜はその声の方へ意識を向けた。声は遥か遠くからかすかに響き、かと思えばすぐ耳元で囁かれる。声が近づくたびに、声の主を捕まえようと、零夜は手を伸ばした。しかし声はなおも零夜を呼びながら、腕の間や指の隙間を縦横無尽にすり抜けて、決して捕まることはない。
どうしても捕まえたくて、零夜は目を凝らす。視界に広がったのは、底無しの
『あなたは、誰に望まれてここへ来たの?』
少女の声が言った。
(誰にも望まれてなんかいない。俺はいつの間にか、この世界に居たんだ)
うろたえながらも零夜は弁明する。口を開くと、奇妙な浮遊感に吐き気がこみ上げた。自分がどこかに浮かんでいるのは分かるが、上を向いているのか下を向いているのか、何も分からない。手を伸ばしても足をばたつかせても、何に触れることもなく、ただ身体が滑稽に回転するだけだった。完全な青色が、零夜を翻弄する。
『なぜ来たの?』『なぜ来てしまったの?』『なぜ……』
繰り返される声。責めるような口調が腹立たしかった。
(なぜ? 誰に望まれて? そんなの俺が知りたい。一体誰が、どうして、俺をこんな世界につれて来たんだ? 家に帰りたい……帰してくれ!)
怒りが身体を満たすと、視界の青がわずかに揺らいだ。その揺らぎで、零夜はここが海であることを知る。暗く深い海の
『おまえは、いらない』
この世界へ来る直前に聞いたものと同じ声――恨めしげな少女の声が、繰り返し言った。
『お前は要らない。要らなかったのに……』
(……じゃあ俺じゃなくて、本当は、誰が必要だったんだ?)
「――……
自分の声で、零夜は目を覚ました。
薄暗い部屋。窓越しに、高く細やかな虫の声が漏れ聞こえている。隣のベッドではキヤがいびき混じりの寝息を立てている。窓の外にまだ朝の気配はなく、どうやらまどろみの中に落ちてから、それほど時間は経っていないらしいことが分かる。
何度かまばたきをして、部屋の闇を見回す。何か、夢を見ていた気がする。意識が明瞭になっていくにつれ、反比例するように、夢の残滓は零夜の中から失われていった。深夜の覚醒にこびりつくのを許されたのは、四肢にまとわりつく浮遊感と、確かに夢を見ていたという確信だけだった。
キヤを起こさないように、零夜はゆっくりと立ち上がった。中途半端な時間に起きてしまったせいか、眠気はわずかもなく、なぜか異様なほどに空腹だった。
窓際の椅子に腰掛け、
窓の外は光に満ちている。美しく明滅する小さな生き物たちが、地に星空を描いている。少し歪んだ窓ガラスに触れると、ガラスの向こう側に緑に光るミトラが貼り付いた。それは零夜の指を舐めるようにしばらくガラスの上を行ったり来たりしていたが、やがて小さな羽根を震わせて飛び立っていく。
その動きを目で追ったとき、ふと窓の外に明かりを見た。ミトラの発する光ならば無数にある。零夜が見付けたそれはもちろん、ミトラの燐光とは全く異なる人工の光だ。ゆっくりと移動している。あれはランタンの光だ。ランタンを手に持った誰かが、夜の村を歩いている。
(こんな時間に……)
以前も同じようなことがあった。プラド村に始めて来た夜のことだ。あの日も確か、闇の中を歩くランタンの光を見付けた。
零夜は窓から身を乗り出すようにして、暗闇の中に目を凝らした。宿の部屋も暗く、目が闇に慣れていたためだろうか――その人物の背格好を、今度はよく捉えることができた。
「……ダンニール?」
その人の名を呟き、零夜は考え込む。そして、ベッドから降りて靴を履いた。
どうせ眠れないのだから、と自分に言い訳をしつつ、零夜はそっと部屋を抜け出した。床板をぎしぎしと軋ませながら、それでも寝静まった人々を起こさないようにと精一杯静かに、零夜は宿の外へと向かった。
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