熱への誘惑


 夜闇の中、彼は元々それほど長身でもない身体を小さく隠すように、ひっそりと歩いていた。

「ダンニール」

 その背に向けて名前を呼べば彼は振り返り、声の主を認めると苦い顔をする。

「何をしている、こんな夜中に」

「そっちこそ。俺はちょっと、その……寝付けなくて」

 零夜が適当にごまかすと、ダンニールの方もあまり突っ込まれたくない事情があるのか、それ以上踏み込もうとはしなかった。


 背中を丸めて立っているせいで、ゆったりした襟元から痩せた身体が覗いている。白い包帯が幾重にも巻かれ、鎖骨の尖ったシルエットを覆い隠していた。

 あの時、ダンニールは零夜より至近距離でミトラの酸を浴びていたはずだ。しかし歩きまわっているということは、寝込むほどの重症ではなかったのだろう。「怪我は大丈夫だった?」と気軽に訊ける相手でもなく、零夜は具合を窺うような視線をダンニールに送った。その視線に気付いたダンニールは、気づかいなど屈辱的だと言わんばかりに、襟元を手繰り寄せた。


 鉱石灯の明かりが、二人の輪郭を淡く闇に浮かび上がらせる。沈黙の中に風の音と、夜行性のミトラが動き回るかすかな音が妙に大きく響く。

「……何日か前も、夜、ここを歩いてた?」

 零夜が問うと、ダンニールは「なんで……」と言いかけて、零夜の背後に建つ安宿に気が付く。

「見ていたのか」

「うん。あの……」

「それで? 僕を闇討ちにでも来たか?」

「え?」

 言葉の意味をすぐには飲み込めず、零夜は考え込む。闇討ち……要は、ダンニールを暗殺しに来たのかと問われたのだ。

「絶好の機会だろう。皆が寝静まった深夜。僕は誰にも言わずに宿を抜け出して来ているし、お前は戦闘にも長けていると聞いた」

「そんな。俺はただ何となく、何をしてるのかなと思って見に来ただけで……」

「嘘をつくなら、もっとましなのを考えておくことだ。昼間のことで確信したぞ。やはりお前はカノヤの間者スパイだ。ミトラに襲われたように偽装して、僕を殺す計画なんだろう?」

 ダンニールの指が、自らの肩を叩いて示す。ミトラの酸をかぶり負傷したことすら、零夜の差し金だと思っているようだった。「あれはあんたが勝手に」と口にしかけて、零夜はその言葉をかろうじて喉元に押し留める。何を言っても、火に油を注ぐことになるのは明白だった。


 今更になって、零夜は後悔していた。眠れない夜に気になる人影を見付けたからといって、それがダンニールであると分かった時点で、興味を失うべきだった。こっそり部屋を抜け出して、のこのこ外にまで出てきておいて、いったい何を期待していたのだろうか。

(ちゃんと話せば、少しは分かりあえると思った……こいつ相手に?)

 数分前の自分が、この上なく愚かな人間に思えた。これならば、来ない眠気を

待ちわびながら何度も寝返りを打ち、無意味な夜を過ごしていた方が余程ましだっただろう。厄介ごとには首を突っ込むべきではないと、思い知ったばかりだというのに。


 適当なところで切り上げて、さっさと部屋に戻ろう。そう決めて、零夜はダンニールの挑発に身を引いたふりをする。だがその消極的な態度すら、ダンニールには不快に思えたらしい。苛々と鼻筋を痙攣させ、零夜に詰め寄る。

「お前たちカノヤの人間が外地の異民族に取り入り、内部からゼーゲンガルトを崩壊させようとしているのは知っている。そのために、一般人を装った間者スパイを送り込んでいることもな」

 ダンニールの忌々しげな視線が、零夜の顔の右半分へと移った。反射的に、零夜は視線を右の足元に落とす。その「逃げ」の素振りを、ダンニールは見逃さなかった。歪められた目に嗜虐の光が宿る。


 しまった、と零夜は竦んだ視線を持ち上げたが、既に遅かった。「その痣」と零夜の顔面を揶揄するダンニールの声は、敵の急所を見抜いた悦びに上ずっている。

「お前、おとりとして使われてるんじゃないのか? お前のような目立つ容貌の男をわざと送り込み、注目を集めておいて、その隙に別の仲間が工作活動をする。……ああ、良い作戦だ。上手く行けば、気味の悪い顔をした厄介者も、一緒に処分できるんだからな」

「……」

「覚悟しておけ。証拠がひとつでも上がったら、すぐに拘束して、情報を吐くまで尋問してやるからな。僕の管轄地で好き勝手出来ると思ったら大間違いだ。良いか……」

 次に何を言おうとしたのか不明のままに、ダンニールの言葉は寸断された。まだしばらくは口撃がやまないと覚悟していた零夜は、どうしたことだとダンニールを盗み見る。その視線は、零夜の襟元に縫い付けられていた。正確には、上着の襟元に施されているアランジャ刺繍に。

 敵を迎え撃たんと姿勢を低くしたヤギの、その頭部と角を模した美しい刺繍……それをじっと見て、そして右側の角にごくわずかな焦げ跡を見付けたとき、ダンニールは、ほんの少し眉をひそめた。


「……セルトムの上着だ」

「え?」

 それは、恐らくダンニール自身も自覚のない、無意識の呟きだった。彼の口からこぼれた名は、零夜の記憶のどこかと結びつき、引っかかる。一呼吸おいて、ようやくその名を思い出した。

 セルトム――ナシパの息子。そして芋づる式に、ナランから伝え聞いた情報が想起される。ダンニールとセルトムは同じくらいの年齢で、二人はよくつるんでいた。二人が国境警備の任務にあたった時、セルトムは死に、ダンニールだけが戻ってきた……。

 ――殺されたってこと?

 あの時、零夜が放った直球とも言える疑問を、ナランは否定しなかった。


「それはセルトムの上着だろう。なんでお前がそれを着てる?」

「……もらった」

「もらった? お前が?」

 ダンニールは外套の隅々まで素早く目を走らせた。肩口、袖、丁寧に繕われた裾。夜闇の視界不良の中でも、この上着が、零夜に丁度良いように仕立て直されていることが分かる。

「……なるほどな。アランジャ連中もグルというわけか」

 その声色には、さっきまでよりもずっと濃い、もはや憎しみといっていいほどの不快が含まれていた。ダンニールはやにわに手を伸ばし、零夜の短い前髪を鷲掴んだ。

「いっ……なに、するんだ!」

 こうなれば、零夜も無抵抗ではいられない。ダンニールの手首を掴んで振り払おうとするが、一回り体格の大きい大人相手に、純粋な力では敵わない。顔を上向きに固定され、ダンニールの空色の瞳に見下ろされる。


「セルトムのかたき討ちをするとでも持ちかけたか? そう言えば、あの女は大喜びで飛びつくだろうからな。だが、自分が受け入れられたなどと自惚うぬぼれないことだ。どうせお前は帰らずの矢。あの女だって、息子の仇さえ討てればお前なんて死んでも良いと思って……」

「ナシパさんは、そんなこと思わない!」

 髪を掴んでいる手を振り払い、語気荒く、零夜はダンニールに反論した。噴出した怒りを警戒してか、ダンニールがやや身を引く。

 零夜は真正面から、ダンニールの空色の瞳を見据えた。誰かを睨み付けるなど、零夜にはほとんど経験のないことだった。


「仇討ちなんて、ナシパさんはそんな事、一度も言わなかった。これ以上ナシパさんを……アランジャ族の人たちを侮辱するのは、……許さない」

 ダンニールはなおも、小馬鹿にするような笑みを顔面に貼り付けている。

「お前はあいつらを分かっていないのさ。アランジャ族の連中がどんなに冷酷で、薄情で、陰湿か」

「そんなことない。みんな良い人たちばっかりだった」

「へえ、やけにかばうじゃないか。営地では相当良い思いをしたとみえる。アランジャの女どもは、そんなにのか?」


 その言葉の意味を理解するなり、零夜の頭に言葉通り血がのぼった。頭の芯が痺れて熱を持ち、思考と感情を大きく揺さぶる。いくら息を吸っても、吸ったはしから熱気となり蒸発してしまうようで、酸素が全く脳まで行き渡らない。

 その熱が怒りという感情であると、気が付くのに時間がかかった。不快や苛立ちなどという言葉ではとうてい代用できないほどの純粋な怒りが、零夜の内側で沸騰している。

 ダンニールの発した、侮辱的な言葉を撤回させたい……それが不可能ならば、あんな言葉を吐いたことを、心の底から後悔させてやりたい。そんな欲求が昂り、煙を発し、収拾がつかなくなる。


 ――殺そうか?


 身の内から囁かれた言葉に、零夜はギクリと全身をこわばらせた。怒りはなおも零夜の内に燃え上がっていたが、それとは別に、頭から冷や水を浴びせられたような悪寒が零夜を襲った。

 ……「殺そうか」?

 その囁きは、自分の声だっただろうか。確かめようと心を澄ませる。声は二度は聞こえなかったが、その静寂がかえって恐怖心を煽った。

(……違う。殺さない。殺したりなんかしない)

 夜を飛ぶミトラの明滅に合わせて呼吸をする。そして改めて、ランタンの明かりにぼんやりと浮かぶダンニールの顔を直視した。


 輪郭が薄闇にぼかされて曖昧になる中に、空色の虹彩だけがぎらぎらと零夜を睨みつけている。痩せ型の彼の体格も相まって、その眼光はさながら飢えた肉食獣を思わせた。しかし彼は、決して制圧者たる肉食獣ではない。ダンニールの攻撃的な態度や言葉の中に、零夜は確かに、制圧される側の怯えを感じていた。

 この男は、そう強い人間ではない。力の話ではなく、性質の話だ。キヤやバータルが時おり発する、首根っこを掴まれるような「支配の空気」を、ダンニールからは一度も感じたことがない。……彼は弱い。

 だからこそ、零夜は自分の衝動が恐ろしかった。という確信が、取り返しのつかない暴力衝動の引き金となる。そんな予感がしていた。


 落ち着かなくては。零夜は胸だけを使って密かに深呼吸をした。

 殺すなどもちろん論外だが、そこまでいかなくとも、ダンニールを加害することは非常にまずい。少しでも手を出せば、ダンニールは零夜を「暗殺の現行犯」として捕らえるつもりだろう。そうなったが最後、尋問――これまでにこの単語を口にした人々の様子からして、尋問というより恐らく拷問に近い――からは逃れられない。ダンニールはそれを狙って、なかば意図的に零夜を煽っているのだ。

(こいつのペースに呑まれちゃ駄目だ。何を言われても、言わせておけば良い……)

 目の奥の熱が冷え、動悸が落ち着いていく。零夜が平静さを取り戻したことに、ダンニールも気付いたのだろう。勝ち時を逃した賭博師にも似た、卑しい笑みを片頬に浮かべた。


 その笑みに軽蔑の視線だけを返し、零夜は無言でダンニールに背を向けた。敗走だと嘲られても良い。実際その通りなのだ。それでも自分と、自分に良くしてくれた人々の名誉を守るためには、こうするしかなかった。

「せいぜい気を付けているんだな。その上着の持ち主のように……で死なないように」

「……」

 反応しない零夜の背中に、もう一言、何か侮辱の言葉を掛けられた。それはなおも零夜の容貌を揶揄するようなものであったが、今度こそ、零夜はそれを完全に無視した。

 ダンニールが発した数々の言葉が、自分の中に沸き立った激情が、いつまでたっても零夜の鼓動を急かす。零夜を殺戮の欲求へと誘うあの声は、どんなに耳をすませても、もうどこからも聞こえることはなかった。


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