泥水と夜のみなそこ
逃げ込むように食堂へと戻り、後ろ手にドアを閉めた。夜中にしては無遠慮すぎる音が響き、誰か起きて来やしないかと一瞬ひやりとしたが、人の動き出す気配はない。
なるべく音を立てないように二階へ上がろうとした時……ふと気配を感じ、零夜は食堂の闇に目を凝らした。
「こんばんは、レイヤ」
「いっ……」
つい大きな声を出してしまいそうになり、零夜は思わず自分の口を両手で押さえた。「いたの」と言おうとしたのか、「いつからそこに」と言おうとしたのか、自分でもよく分からない。ただ、ロウソク一本の細い明かりの中に佇むティエラを見ると、いたずらを見付かった子供のような気持ちになったのだった。なにも後ろめたいことはしていないはずなのだが、夜にこっそり部屋を抜け出すという行為が、そういう気持ちにさせたのだろうか。
零夜の、バツが悪そうな表情に気が付いたのだろう。ティエラは零夜の自己弁護の代わりに「ちょっと夜ふかししてたのよ。それで、レイヤが起き出すのが分かったから、何してるのかなーと思って」と、零夜のせいで目が覚めたわけではないことをつらつらと語る。
「お行儀が悪いとは思ったんだけど、つい興味本位で後をつけちゃった。ごめんなさい」
「別に良いよ。大した用事じゃなかったんだ。俺も眠れなくて、それで、ダンニールを見付けたから……」
「話しに行った?」
「うん。でも、やめとけば良かった」
「あの人に、なにか嫌なこと言われたんでしょ」
零夜は口をつぐんだ。ダンニールの発した侮辱的な言葉を、自分の口から発することだけは避けたかった。思い返すと、ようやくおさまりかけていた熱が再び煙を吐き始める。ダンニールは、たった二言三言の言葉だけで、目の前の少女すら辱めたのだ。そして零夜は、その言葉を撤回させることが出来なかった。それが酷く悔しく、恥ずかしかった。
「……ごめんね」
ティエラが謝罪する意味がわからず、零夜は顔を上げた。食堂の床板を這っていた視線が、深い青色の瞳を捉える。薄暗さのせいか、それはどこか見覚えのある、深海の夢を想起させる。
「ね、座って話さない? なんだか全然、眠くならなくって」
差し出された椅子に腰掛けると、テーブルを挟んで向かい側にティエラが座る。彼女が持っていた燭台がテーブルの真ん中に置かれる。小さな熱い光を隔てて、二人は一瞬の間見つめ合った。
ティエラは、恐らく寝間着なのだろう。大ぶりの布をふんだんに使った、ゆったりとした衣服を着ている。彼女が身体を動かすたびに、それがミトラのささめきのような、さわさわとくすぐったい衣擦れの音を発する。
座ったら座ったで手持ち無沙汰な気分になり、昨日の夕食の話や、アリエとスジュが夜ふかしをしていてソーグに怒られた話などが、テーブルの間を上滑りしていく。二人ともが本題を後ろ手に隠したまま、いつロウソクの明かりのもとに差し出そうかと、決めかねているようだった。
それでもやはり零夜はどこまでも尻込みをするたちで、ついに口火を切ったのはティエラだった。
「ダンニールが夜中に何をしてたのか、何か聞いた?」
少し潜められた声が、ロウソクの炎を揺らがせる。零夜が首を横に振ると、ティエラは「そっか」と言って小さなため息をついた。また、炎が揺らぐ。
ちらつく暖色を網膜に映しながら、零夜はふと、彼女がこっそり後をつけたかったのは、自分ではなくダンニールの方なのではないかと思い当たった。ランタンを手に、人目を避けながら夜の村を徘徊する男。その行動に不審な点を見出すのは容易だ。
そう考えると――光の加減かも知れないが、ティエラの柔和な顔立ちが、世相の憂いに
アリエに教えてもらった、この村の事情を思い出す。ゼーゲンガルト側が村人たちに働きかけて、アランジャ族を孤立させようとしている。楔の件を解決したからといって、アランジャ族の先行きは無条件に明るいものではないのだ。
彼女たちを放っておいてくれればいいのに。「ゼーゲンガルト」という漠然とした対象に向けて、零夜はかすかに苛立った。アランジャ族の人々は、ただ昔ながらの土地で暮らしているだけなのだ。羊を追い、糸を紡ぎ、歌を歌いながら……ただ生きているだけだ。それを放っておくだけというのが、それほど難しいものだろうか。
「どうしてダンニールは、アランジャ族を目の敵にするんだろう」
あまり深くを考えないままに、言葉が口から飛び出していた。あっと思った時には時既に遅く、ティエラは目を大きく見開いて、零夜をじっと見つめていた。その青い虹彩が、零夜に「続けて」と言っているようで、零夜はまた口を開く。
「さっきダンニールと話していて、本当に……本当に酷いことを言われたんだ。何であんなこと言えるんだって腹が立って……。そりゃ政治的に色々あるんだろうけど、でも……少しは歩み寄ろうとすればいいのに」
ダンニールがアランジャ族をどう言っていたのか、ティエラは聞かなかった。聞かずとも想像はついているのだろう。彼女の表情に不快の色はない。むしろ困惑の色が濃く、分かりきったことを零夜にどう説明しようかと考えあぐねているようだった。
「歩み寄るって、そんなに簡単なことじゃないわ」
「分かってる。でも、ひとりひとりが歩み寄っていけばいつか……」
「夢物語ね」
零夜の理想論は一言で切り捨てられ、零夜はそれに抗議も出来なかった。そもそもたった今、ダンニールとの間にある深い溝を埋められないことを、自ら実感してきたばかりなのだ。それを思い出すと、自分の発言が底抜けに傲慢で無思慮に感じられ、零夜は耳を熱くした。
「ごめん……偉そうなこと言って」
「ううん。レイヤの言ってることは、間違ってはいないと思う。でも、正しいことがいつも必ず受け入れられるわけじゃない。それに……」
ティエラの深く青い視線が、テーブルの上に伏せられた。
「歩み寄ろうとして、結果的に苦しめられてるのがダンニールなのよ。あの人のことは嫌いだけど、その点は同情しなくもないわ。あのね、ダンニールって、アランジャの血が半分入ってるんだ」
「え、」
吐息のような声が、零夜の口から漏れた。その反応を予想していたとでも言うように、ティエラがゆっくりとうなずく。
「母親が、スチェスカ
「それって……」
政略結婚? と訊くと、ティエラは肯定の代わりに軽く肩をすくめた。
「それ自体が悪いとは思わないわ。私のお父さんとお母さんも政略結婚だし。始まりが打算だって、そこに愛が育まれたなら幸福なことでしょう? ……でも、あの家は駄目だったみたい。ありもしない『友好の証』として生まれてきたダンニールは、さぞ複雑な心境でしょうね。……たとえば、地面に亀裂があったとして」
ほっそりとした手をテーブルの上に伸ばして、ティエラは「亀裂」を表す。
「雨が降れば、泥水は全部そこに流れ込むでしょう。ダンニールは、ゼーゲンガルトとアランジャ族との間に走った亀裂の真ん中にいるの。泥水をかぶり続けるのは、きっと凄く苦しいんだわ。だからダンニールは、自分はアランジャ族じゃない、ゼーゲンガルト人だって主張するのに必死なのよ」
ついさっきダンニールが放った言葉が、魚の骨のように零夜の胸を引っ掻いた。
――お前はあいつらを分かっていないのさ。アランジャ族の連中がどんなに冷酷で、薄情で、陰湿か……。
アランジャ族でもあり、ゼーゲンガルト人でもある。
アランジャ族ではなく、ゼーゲンガルト人でもない。
双方を分かつ溝の中にいるダンニールに、泥水は容赦なく襲いかかっただろう。
ダンニールの威圧的態度の裏に感じた、怯えたような影の正体を見た気がした。いつなんどき、誰からかぶせられるともしれない泥水を警戒する、薄い空色の瞳。呼吸を妨げる泥水を回避するためには、とにかく岸に這い上がらなければならない。
ゼーゲンガルト側の瀬に必死によじ登りながら、自分は間違いなくゼーゲンガルト人なのだと主張する尖った声……。
「……それって、なんか……苦しいな」
重い呟きがテーブルの上に落ちた。泥を浴びる痛みならば、零夜もよく知っている。指先が無意識に、右目の痣に触れた。
「そうね」ティエラの同意の言葉は、どこかよそよそしかった。「でも、仕方のないことなのよ」
また、ロウソクの炎が踊った。光の動きに合わせて、部屋全体が大きなため息をついたような錯覚に陥る。ロウに不純物が多いのだろう。炎は頻繁に、虫の羽音に似た音を立てながら身を震わせる。
「どうしようもないことなの」
弁明するように呟かれた言葉を最後に、この話題は打ち切りとなった。零夜も、もうそれ以上深入りする気にはなれなかった。
それから何を話したのか、記憶に定かではない。いずれにせよ当たり障りのない会話は途切れとぎれで、長く続く話題はなかった。零夜はティエラと会話をしながらも、意識はほとんどコミュニケーションの外側に向けられていた。
昼間とは全く異なる顔を持つ、夜の食堂。人の声や食器の触れ合う音、足音、咀嚼音……昼間は我が物顔で空間を満たす音たちは、今は人間と共に眠りについている。この場で音を発するものは零夜とティエラ、火花を吐き散らしながら燃えるロウソクのほかになにもない。暗く、肌寒く、静かで……
(……海の底みたいだ)
もう寝ようか、と言い出したのはどちらだっただろう。夜気が沁み込んですっかり冷えてしまった指先をすり合わせながら、二人は忍び足で階段を上った。
おやすみを言うために口を開こうとしたとき、彼女の指が零夜の服を摘んだ。沈んだ雰囲気を、最後に少しでも引き上げようとするかのように、「ね、」といたずらっぽい表情で零夜を見上げる。
「明日も戦闘訓練するんだよね? いつもキヤが相手じゃつまんないだろうし、明日は私が相手になってあげようか」
零夜は苦笑いで、彼女の冗談を流した。
「うん、分かった。楽しみにしとく」
「えへへ。じゃあ、おやすみ」
「おやすみ。また明日」
小声でおやすみを言い合って、それぞれの寝室へと戻る。
客室に戻ると、なんの感情も含んでいない無機質な闇が零夜を迎えた。頬に残った笑みの名残が、深夜の静寂に溶けて消えていく。
窓から外を覗いてみると、当然ながらダンニールはとっくに去ったようで、ランタンの明かりはどこにも見えなかった。
夜はどこまでも静かで、時おりキヤのいびきが通り過ぎるほかは、なんの物音も立たない。ため息をついて上着を脱ぎ、ベッドに潜り込む。すっかり冷えてしまった身体は、布団を温めるに心もとない。貴重な体温を逃さないようにと、零夜は胎児のように身体を丸めた。
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