死と熱の傍らより来たりて


 意識が戻ったのは、恐らく奇跡だった。


 胸のつかえを解消しようと咳をしたはずが、肺からは気体より液体が多く押し出される。むせ返るような血と内臓の臭い。視界は黒い砂嵐に覆われ、自分が目を開いているのかどうかも分からない。

 痛みはなかった。四肢の感覚もなかった。背中に伝わる感触から、仰向けに倒れていることはかろうじて分かる。しかし、それだけだ。真冬を思わせるほどの寒さが、身体の芯を鷲掴んでいる。死が、間近に迫っている。


(どう、なってるんだ……おれ……)

 死に対する恐怖は、ぼんやりとした形骸的なものしか感じ取ることができなかった。恐怖が追いついてこないという表現の方が、より正確かもしれない。

 あまりに唐突に現れた死の兆しに、感情だけが取り残されている。しかしそのためか、不思議と思考ははっきりとしていた。木枯らしのような自分の呼吸音も、その中に混ざる、誰かが近寄ってくる足音も、やけに鮮明に認識することができた。


「まだ生きてるみたい」

 少年とも少女ともつかない声。零夜の頬に、柔らかな布地が触れる。声の主は布を通して、探るように零夜に触れていく。頭、顔、首から肩へ。そして胸部――心臓の辺りに触れた時、その人物は「あれ?」と怪訝そうな声を上げた。

「アイラ。この子、汚染されてない」

「へー、そりゃ珍しい」

 もう一つ、やや高めの男性の声が聞こえた。零夜にあまり興味を払っていない様子が、声色から充分に窺える。

「どうしよう。僕の核を分けてあげたら、助かるかな?」

「はあ? だめだめ、絶対だーめ」

 男性が、少しおどけながらも強い口調で制止する。

「ハロの核は俺のより小さいんだから。回復するのにも時間が掛かるだろ?」

「でも、この子たぶん、イヴが探してた子でしょ? 死なせちゃっていいのかな」

「勝手に死なせとけば」

 いかにも面倒臭そうに「腹に穴あいてんじゃん。もう無理だろ」と言う男の声を聞きながら、零夜はぼんやりと考える。死にたくない。


 今の状況が、あの青いどろどろに飲み込まれたせいなのだとしたら、理仁の安否が気掛かりだ。それに、もし零夜がここで死ねば、美和がどれほどショックを受けるだろう――。


「……た、す、け、て……」

 振り絞った声は、声というよりも音に近かった。口端に泡立つ血液が、ぽこぽこぱちぱちと音を立てて弾ける。そのかすかな音にすら掻き消されてしまうほどの声で、零夜はもう一度訴え掛ける。「たすけて……」

「うん、分かった」

 淡々とした中性的な声が、零夜のすぐそばで囁かれた。続いて聞こえた「心配ないよ、核はそのうち回復するんだし」との声は、恐らく彼――もしくは彼女の連れを納得させるための言葉だろう。

「あーもう、じゃあハロは下がってろ。俺がやるから」

「アイラの核を? 大丈夫なの?」

「なんだよ、信用ねえなあ」


 もう一つの足音が零夜に近付く。誰なのか、何をしようとしているのか、確認しようと目を凝らした。視界を遮る白黒の点滅の中、かろうじて判別できたのは、鮮やかな金色だった。

「死ぬほど痛いだろうが、死なないためだ。我慢しな」

 男が言い終わるや否や、腹部を異物感が貫いた。


 男の予告通り、これまで完全に麻痺していた痛覚が一気に押し寄せ、零夜は絶叫する。否、絶叫するほどのエネルギーは残っておらず、潰れたカエルのような声と血液の飛沫を吐き散らすだけだ。「うるせえなあ」と男が言う。

「えーと、心臓ってどれだっけ」

「アイラ、ふざけないで」

「はいはい」

 軽口を叩きながら、男はなおも零夜の腹を掻き回す。もはや零夜にまともな思考能力はなく、痛みから最も遠い足先に神経を集中させ、この地獄が一刻も早く終わることを願うばかりだった。



 やがてどれほど苦しんだのか、ようやく痛みが薄くなっていく。それと共に、別の感覚が身体の内部からせり上がってきた。


 ――熱い。


 内臓を焼くような熱さが、胸から腹へ、そして全身へと広がっていく。肺に籠った熱を外へ逃がそうと、大きく息を吐いた。今度は血飛沫が飛ぶことはなかったが、代わりに独特の匂いが鼻についた。

(何だっけ? この匂い……どこかで――)

 思い出す暇を与えまいとしているかのように、体内の熱はさらに高まり、零夜は短く浅い呼吸を繰り返す。


「こんなもんか」

 男が、ようやく零夜の腹から腕を引き抜いた。

「ありがとうアイラ。あとは、この子次第だ」中性的な声の人物が、男をねぎらった。

「行こう」

 終わった。ようやく苦痛から解放されるという安堵。浅い呼吸の合間に、零夜はあり得ないまでに熱された溜息を吐いた。不思議なことに、先ほどまでは耐え難かったはずの熱さは、いつしか心地よいものになっていた。火傷では済まないほどの熱を、身体が歓迎している。


 零夜の変化に気が付いたのか、かたわらに膝をついていた男が零夜の耳元で囁いた。

「お前、俺にここまでさせといて野垂れ死にでもしてみろ。ぶっ殺してやるからな」

 理不尽な言葉を、熱に浮かされた脳でゆっくりと咀嚼する。

 誰に、何を、どうされたのか。その全てが分からないまま、零夜の意識は再びかすれていく。今度は息苦しい闇の中へではなく、沖融ちゅうゆうたる熱の中心へ……。

 零夜はどこまでも、落ちていった。

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