魑魅の洗礼


 冷たい風が零夜の頬を掠める。風の中に、わずかに人の声が混じっている気がする。

(俺を、呼んでる……?)

 海の底から水面へ上がるように、重たい圧力の下から明るい方へ。

零夜の意識は急速に浮上した。



 まず目に飛び込んだのは、テレビや写真でしか見たことのないような満天の星だ。

 大の字になって仰向けに倒れた零夜の視界は、隅々まで星の輝きで満たされている。薄く濃く広がる光の河が空を横切り、細い流星がいくつか軌跡を描き消えていく。

 アスクレピオス医療センターがいくら郊外にあるとはいえ、関東の都市近郊でこれほどの星空が見られるなど、あり得ないことだ。

 そう、関東の都市近郊では、決して見られない光景。


 ゆっくりと上体を起こし、空以外のものが視界に飛び込んだ瞬間、零夜は今度こそ絶句した。目の前には、一面の草原が広がっていた。闇夜でもそれが草原であると分かるのは、空にある星々と同じような光が、大地にも煌(きら)めいているためだった。

「何だ、これ……」

 ふらつきながらも立ち上がり、いくらか高い位置から辺りを見回した。

 光の粒子が飛び交う草原は、様々な色彩に照らされて、夜の中に幻想的に浮かび上がっている。しかしその美しい光景に見とれていられないほど、零夜は混乱していた。


 ――ここはどこだ?

 その問いに応えるように、かさこそとかすかな音がした。草を掻き分けるような、枯れ葉を踏み鳴らすような音。

 音のした方を見る。そこにあったのは、かろうじて人のようなかたちをした灰色の塊だった。それは零夜のわずか数メートル先に佇み、じっと零夜を見つめている。それに目鼻があるわけではなかったが、なぜだかそう思えてならない。

 丸く突き出ただけの頭部と、それに付随する柱のような胴体。それは、例えるならば大型のこけしだった。それがゆらゆらと左右に揺れながら、少しずつ零夜に近寄ってくる。


 思わず後ずさろうとしてバランスを崩し、零夜は柔らかな草に尻もちをついた。漂っていた光たちが驚いたようにそこから離れ、零夜を中心とした光の輪を形作る。零夜は声を上げることもできないまま、その場で硬直した。恐怖と混乱が、零夜の全身を固めてしまっていた。

 灰色の人型は草をざわめかせながら零夜に歩み寄り、零夜の顔を覗き込んだ。コンクリートで塗り固められたようなのっぺりとした顔が、零夜の目の前にある。


『まぶしい、まぶしい』

 その灰色がわずかにもごもごと蠢き、零夜の耳に声が届いた。喋っている。どんな声か、と形容し難い音だった。低くも聞こえるし、甲高くも聞こえる。大人の声のようでもあり、幼い子供の声のようでもある。

『まぶしいひかり。いいな、ほしいな』

 灰色の人型の、なだらかだった肩から突起が生えた。それは見る間に伸び、先端が五つに別れ、不恰好な腕を形成する。クレイアニメみたいだ。と、零夜は場違いな感想を抱く。

『ほしい、ちょうだい。みとらのひかり、ちょうだい……』

 身動きの取れない零夜の頬に、灰色の手が触れた。それは水分を多く含んだ粘土のようで、べとりと肌に粘りつく。外気と同じくひやりとした手が、零夜の頬を無遠慮に撫で回す。

 その動きはどこか無邪気な子供のようで、不思議と、零夜の危機感を和らげていった。この不可思議な生き物は、あるいは意思疎通が可能なのではないか? そう思った矢先――灰色の頭が開いた。


「う、わっ!」

 間一髪、寝返りを打つように身体を転がして、その一撃を避ける。頭頂から花弁のように大きく開かれた口は、つい一瞬前まで零夜が尻もちをついていたまさにその場所を、地面ごとえぐり取った。土と草と、巻き込まれた光の粒子たちとをまとめて咀嚼そしゃくしながら、灰色はなおもぶつぶつと『いない、にげた』と繰り返す。

(やばい、やばい、やばいだろこれは!)

 さすがに「意思疎通が可能かも」などと、悠長なことを考えている場合ではない。逃げなければ、と脚に力を入れようとする。しかし腰が抜けてしまっているのか、かかとは何度も湿った草の上を滑り、上手く立つことができない。


『たべたい、ひかり、たべたい』

 灰色の人型の視線が、再び零夜を捉えた。目のない顔に見下ろされる。開いた口から、土混じりの粘液が漏れる。それは重力に従い、長く糸を引きながら垂れ落ちて零夜の肩を濡らした。

 嫌悪感から身を引いた時、右手に硬い何かが触れた。零夜の腕ほどの太さがある棒状のもの――どうやら動物の骨らしい――を掴み、ぐいと近付いてきた灰色に力の限り叩きつけた。

 渾身の一撃のはずだった。しかし鈍い音こそしたものの、手応えはない。軟質な人型は衝撃を完全に吸収し、骨の先端はダメージを与えることなく灰色に埋没している。

(やばい――!)

 禍々しい口が頭上に迫った、その瞬間。


「伏せろォ!」

 雄々しい声が響いた。同時に、みしりと嫌な音を立てて白色の骨が中心から折れ、零夜はバランスを崩し横ざまにひっくり返る。結果的に伏せたかたちとなった零夜の頭上に、まばゆい光が閃いた。それは夜闇を切り裂きながら、灰色の怪物の胴をまっすぐに貫く。

 悲鳴はなかった。人型は無言のまま数秒の間ぶるぶると身を震わせていたが、やがて脱力し、小山のごとくうずくまったまま動かなくなった。



「おい、無事か?」

 背後から声を掛けられ、零夜の肩がびくりと跳ねる。

「珍しいこともあるもんだ。この辺りのミトラは肉食じゃないはずなんだがな」

 零夜の顔を覗き込んだのは、彫りが深く目鼻立ちのはっきりとした、どこか異国風の顔立ちをした男だった。月光がそのまま束になったかのような銀色の髪が、風に揺れてなびいている。

 その男の顔を捉えた瞬間、零夜の呼吸が止まった。この男に見覚えがある。彼は、あの青い悪夢に出てきた――金髪の少女と共にリヒトを止めようとし、そして絶叫しながら溶け落ちていった、あの男に違いなかった。

「あ、あの……」

「ん? なんだ、血まみれだからてっきり怪我してんのかと思ったら、無傷か。結構、結構」

 立てるか? と差し出された手を掴み、やっとのことで立ち上がる。手も足も震えている。


 男に礼を言おうと顔を上げた時、胸のざわつくような違和感が胸をくすぐった。何だろう。と、暗闇を透かすように目をこらす。ざわざわと、何かが動く気配がする。

 よく見れば、閃光に貫かれ動かなくなった灰色の泥から、長く伸びる管があった。ぼうっと光るそのすじを目で追い、それが脈打つように規則的に動いていることに気が付く。

 違和感の正体はこれだ。あの灰色の怪物は、まだ生きている。その結論を裏付けるかのように、管の先が消えた草の影が音もなく、蟻塚のように盛り上がった。


「危ない!」

 叫んだのも身体が動いたのも、反射に近かった。男の腕を引き、草地に倒れ込む。塚の中から現れた灰色の怪物は、太い腕を鞭のようにしならせ周囲をいだ。二人のすぐ真上を、灰色の凶器が通過する。ヒュンと空気を切り裂く高い音が、風圧となり頬を冷やす。

 初撃ののち怪物は一瞬だけ動きを止めると、巨大な芋虫のような身を震わせながら、腹の底に響く大音量で鳴いた。轟音の中に『じゃま、きらい、しね』という断片的な呪詛の文句を聞き取り、零夜は耳を塞ぎながらも怪物を注視する。その敵意は零夜ではなく、閃光の男に向けられていた。


 男は手を上げ、怪物を指差す。しかし次の行動に移るより速く、怪物のモルタルのような身体から腕が伸び、男の上半身を地面に押さえつけた。その力が尋常でないことは、怪物の質量から推測するだけで明白だ。男の顔が苦痛に歪む。

「やめろ!」

 素手で立ち向かえる相手ではないと分かってはいても、黙って立っているわけにはいかない。なんとか男への加圧を阻止しようと、怪物の腕に組み付く。およそ生命らしくない柔らかさと粘っこさに苦戦している間にも、灰色の巨体は男の身体を押し潰さんと醜く蠢動しゅんどうする。

(駄目だ、これじゃさっきと同じじゃないか)

 異形を前にした自分の無力さに、零夜は絶望的な目眩めまいを感じた。黒い腕に掴まれた理仁の、助けを求める視線が瞼にちらついた。あの時も、何もできなかった。そして今も――。

「に、げ、ろ……」

 灰色の下から、閃光の男が息も絶え絶えに言った。


 そうだ、理仁も同じことを言った。

 零夜の表情が歪む。命の危険に晒されながら、理仁は最後まで零夜を救おうとした。目の前の男――名も生まれも知らない人間すら、零夜を生かそうとする。

 その事実を認識した時、すでに脚は動いていた。怪物から距離を取る。怪物の巨体全てが視界に入るほど遠ざかると、零夜は大きく息を吸い込んだ。

「こっちだ、化け物!」

 灰色の頭部が、零夜を追ってぐいと曲げられる。そうだ、いいぞ。零夜は内心で呟いた。

「お前が欲しいのは俺だろ! 俺はこっちだぞ!」

 巨体がゆっくりと自分へ向かい始めたのを確認するや否や、零夜は怪物に背を向け、走りだした。なるべくこの場から遠ざからなければならない。あの男の人を、無事に逃がさなければ。


 あの体躯ではそう速くは動けないだろうと高をくくり、あまり距離を離し過ぎてはいけないと、零夜は振り向いた。その慢心を嘲笑うかのように、灰色の怪物は突如、零夜の目の前に姿を現した。蛇よりも速く、怪物は柔草を薙ぎ払いながら地を這い、とっくに獲物に追い付いていたのだ。

「が、あっ!」

 怪物の腕が首に巻き付く。すんでのところで左腕を差し込み気道は確保したが、その行為すら無意味に思えるほどの力で締め上げられる。暴れる脚が地を離れ、宙を蹴った。夜に高々と掲げられ、見下ろした先に怪物の口がある。

『きれいなひかり、かみさまのひかり……』

 湿気を帯びた重い空気が、その口から吐き出された。青臭い、雨上がりの草地の匂いがする。

(いやだ、怖い、怖い――!)

 流れた涙が頬を濡らす。ずび、と情けなく鼻が鳴る。首を締めていた腕から解放されると、一瞬の浮遊感。指先は虚しく空を掻き、零夜は重力に引っ張られ、怪物の口内へと落下した。



 草原に静寂が訪れた。零夜を呑み込んだ怪物は、満足げに身を震わせ天を仰ぐ。独占行為に抗議するかのように、淡く光る小虫たちが巨体の周囲をせわしなく飛び回るが、灰色の怪物は気にとめる様子もない。

 欲しいものを手に入れた、極めて原始的な達成感。長く伸ばしていた腕を引っ込め、油粘土の塊のような、一見して無害そうな元の姿に収まる。

 一度、そして二度。夜を渡る風が、背の低い草を波打たせた。三度目の風が流れた時、怪物は身を強張らせた。何かを拒絶するかのように、何かから逃れようとするかのように、軟らかい身体を左右にくねらせる。そして――


 その光景を見た者があれば、それは天に届く柱と見紛うばかりだっただろう。怪物の体内より音もなく溢れ出し、その巨躯を舐め尽くしながら、青い炎は高く伸び上がって夜を焦がした。

 炎の中心で、怪物は花弁のような口を大きく開いて苦悶する。身体を地面に叩き付け草に擦り付けて、炎を消そうと半狂乱でのたうち回る。しかし青い炎は生きているかのように怪物に絡みつき、その応急行為を許さない。草地はまだらに抉れ、怪物の身体の一部が飛び散って、灰色の水玉模様が描かれる。


 無力な小虫たちは、巻き込まれてはかなわないとばかりに暴力の場より退避した。のたうつ怪物を中心に、光る小虫たちが輪となって、炎の蹂躙はさながらよこしまな儀式の様相をていした。

 やがて怪物の腹は熱により炭化し、ぼそりと崩れていびつに開口する。その腔より零夜がまろび出たのちもなお、青い炎は灼熱の苦痛を怪物に与え続けた。

 咳き込んで肺の熱を押し出しながら、零夜は顔を上げる。吸い込まれそうなほどに深い星空を背景に、怪物は今まさに、崩れ落ちんとしていた。

『ああ、あつい、あつい……』

 呟くような、その言葉が最期だった。炭化した身体を大地に横たえ、巨体は完全に沈黙する。夜風に乗って、植物の焼ける匂いが零夜の鼻をくすぐった。

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